2012年2月28日 (火)

コンクールの役割って何?

 毎日新聞(2/28)“なるほドリ”から、

 「ローザンヌ国際バレエコンクール」で菅井円加が優勝した。来月「日本音楽コンクール」入賞者のデビューコンサートも開かれる。「コンクール」の役割りは、各分野の芸術家になるための芸術的才能を発掘する登竜門だ。日本人の著名なバレーダンサーの吉田都、熊川哲也らもローザンヌから出た人たちだ。またバレエ以外でも、2009年に「バン・クライバーン国際ピアノコンクール」で辻井伸行が優勝するなど、世界の音楽コンクールでは日本人が幾つも入賞している。コンクールは元々フランス語の「競技」の意味だ。1932年、当時の日本では新鮮な感覚の言葉だったこの言葉を取って、「日本音楽コンクール」の前身「音楽コンクール」が創設された。以来コンクールは、主に芸術分野で賞を競う会の名称として定着した。

 Q たくさんあるの?

 A そうだね、ただ数が圧倒的いい多いのは、クラシック音楽の分野だ。世界の主な音楽コンクールは約650、日本国内でも50ほどある。それらは学校受験と同じように周囲からランクづけされ、世界最高峰は、ポーランドの「ショパン国際ピアノコンクール」と、ベルギーでバイオリンなど複数の部門がある「エリザベート国際音楽コンクール」が双璧だ。日本では、ピアノ、バイオリン、チェロ、声楽、管楽器、作曲の各部門がある「日本音楽コンクール」がトップだ。日本の音楽家の多くは日本音楽コンクールの出身者だ

 Q 入賞するとどうなるの?

 A ローザンヌの上位入賞者は、名門バレエ学校で生活支援を得ながら学ぶことができるし、大きな音楽コンクールなら受賞後オーケストラとの共演など演奏機会が増える。支援者が広がれば、活躍の機会もさらに増えていくことになる

 Q それで、一流芸術家の仲間入り?

 A いや、オリンピックのメダルと違い、コンクール入賞はスタート台に立ったと言えるだけだ。フィギュアースケートの荒川静香がトリノ・オリンピックで金メダルを取った後、競技から引退したことを不思議とは思わないが、菅井が「引退します」と言えば違和感がある。受賞後に努力して認められていくことが重要になるのだ。

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2008年3月27日 (木)

聞きたくない歌い手ふたり

3月25日、放送局、時間に記憶はない。
たまたまテレビをつけた。現在の日本の歌い手の中でも飛び抜けて酷いレベルの裏声で歌う2人のうちの1人の男がギターを抱えて歌っていた。いつもなら即座にチャンネルを変えるのだが、ブログで書いてみたかった。どこかの女子高の卒業式への飛び入りとのことだった(仙台ときいた)。その男の名を森山直太朗というド素人としか思えない男だった。うたっていたのは「さくら」。裏声が悪いのではない、ヨーデルのような綺麗な裏声を聞いている耳には彼やもう1人の彼(後出)の裏声は頭にタオルの乗せて歌う風呂場の鼻声か、トイレの中でしゃがんだまま歌う空気の抜けた歌のレベルで、それ以上のものではない。

テレビカメラが撫でるように写す卒業生たちは、うっとりと見つめ、聞き惚れて涙を流してハンカチ片手に聞き入っている。その間中、音程の定まらない消え入るような裏声がずっと流れている。この素人歌手の歌が本当に彼女たちの涙を誘っているのだろうか。特別の記念日が彼女たちの感情を高ぶらせた結果、そうさせているのだろうが、本当にうまい歌手がいない現在の日本の歌謡界、本物を求めることは難しいことかも知れないが。

そう、彼女たちは歌に酔い痴れているのではない。「空気を読んで」いるのだ。卒業式と言う空気、森山直太朗という人気歌い手の空気、「さくら」という曲の空気、その空気の中で陶酔しているだけなんだ。それが「涙」という空気を作り上げているのだ。

毎日曜日、正午の時間、敗戦後の市民の暗い心を慰めるのに役立った「NHKのど自慢」(第1回、1946年1月16日、当時は「のど自慢素人音楽会」)という長い歴史の番組がある。今も続いているが、今では養老院の慰安のためにあるようなレベル、内容に様変わりしている。当時歌謡界には戦争のために人材が不足していた時代で、歌手の登竜門ともなるほどのハイレベルな素人が続々と舞台に出て来た。それでも審査員の厳しい評価を受け、鐘3つを鳴らすのは至難のことであった。一時間の番組中、1人、2人でも出れば出来がよい方だった。

当時の審査は本当に厳しかった。マイクに向かい、一声発したところで鐘1つが鳴らされることが普通だった。評などない、即座に退場だ。歌とはその第一声で決まるものだ。当時なら現在の日本の歌謡界の男女歌手たちの殆どは鐘1つか、いいとこ2つだ。多分森山などのレベルでは、予選も通らないだろう。このレベルは自分が歌手だと思うことで自己満足するだけのものだ。

もう1人、空気の抜けたような裏声で歌うのは平井堅という髯面の男。いかにもいかつい男性らしい面構えからは、男性的なバリトンかテノールを想像する。ところがである、彼が発する声ときたら拍子抜けするような女々しい裏声なのだ。その裏声は一気に音圧レベルが落ちて蚊の泣くような声になって音程が定まらなくなる。これは森山もその他の現在の殆どの裏声を使う日本の歌い手たちも同じだ。 発声訓練も碌にせず、ただ狭い音域を裏声で誤魔化して逃げる。

余談になるが、前にも書いた。いつかツンクが女性新人歌手を教える番組を見ていた。下手だがなんとか声を出そうとする新人だが高音域になると出ない。元々勉強していないから音域の狭い喉だ、ツンクが即座に「ファルセットでやってみようか」と来た。教える方も気楽な即席だ。素人で通用し、裏声が流行るはずだ。日本の歌謡界は訓練して、訓練してなど、お笑いのあほらしい世界のようだ。

このような音楽界では優れた歌手など生まれようはない。マイクロフォンが発明されて歌手の発声法が一気に変化した。マイクなしで客席の隅々まで通る声はクラシックの世界には残ったが、それ以外の歌ではその声は強いて求められなくなった。いわゆる囁くような歌唱法が一般的なものになった。しかし、それでも声は腹から出すもので、鼻の裏から出すものではないだろう。

その彼、平井堅が歌う姿がまたお笑いだ。空気の抜けたような歌に、なぜあのようなしかめっ面が必要なのか。頭にタオルが似合いそうな気楽な鼻歌に、しかめっ面などいらない。何を表現するのに必要なしかめっ面なんだろう。汗だくで、何を言っているのか聞き取れない大声で怒鳴っているだけの歌い手の、顔が歪むのはわかる。誰でも大きな声を出す時は顔が普通ではなくなる。平井のような泣くような裏声にしかめっ面は必要ない。

カテゴリー「音楽」としたが、さて、マスタベーションのレベルのお二人さんはそれに値するのだろうか。私は目を瞑り、耳を塞いで逃げていたいものだ。

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2008年2月 1日 (金)

世界で活躍する日本のヴィオラ奏者

江藤俊哉の死去の折、彼に学んだ安永徹を取り上げたが、安永がコンサートマスターを務めるベルリンフィルに、もう一人2001年から日本人女性の首席奏者がいることを知らなかった。受け持つパートはヴィオラだ。この楽団が首席に女性を置くことは極めて異例のことだが、彼女が帰国して今月、日本でヴィオラ・リサイタルを開く。その名を清水直子(39)という。

桐朋学園大学で、先ほど亡くなった江藤俊哉にバイオリンを学んだ後、ヴィオラに転向し1993年に修了した。翌94年ドイツに渡り、ドイツ・デトモルト音楽大学に教授として招かれていた今井信子にヴィオラを師事する。

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 左、ヴァイオリン
  右、ヴィオラ

長い間独奏楽器としては無視された存在だったが、近代以降では独奏曲も数多く作られるようになった。
(Wikipedia より)


 1996年、ジュネーブ国際コンクールで最高位(1位なし2位)
 1997年、ミュンヘン国際音楽コンクールで第1位
その後ソリストとして各国のオーケストラと競演。1年の試用期間を経て2001年2月からベルリン・フィルの首席ビオラ奏者に就く。

ビオラとくれば、清水も教えを受けた今井信子を語らない訳にはいかない。現在世界でも超一流の一人に数えられるヴィオラ奏者だ。06年1月の“小澤征爾”で触れたが、1984年9月『斎藤秀雄先生を偲ぶコンサート』に世界の第1線で活躍する教え子たちが、急遽帰国して、桐朋学園の恩師を忍ぶためのバッハの曲の練習風景をNHKが放映した。当然今井もいた。サイトウ記念オーケストラの母体だ。

今井も最初はヴァイオリンだった。桐朋在学中、アメリカ演奏ツアーで小澤の指揮するボストン響の「ドン・キホーテ」を聴いたことが切っ掛けになりヴィオラに転向する。
 1965年、イェール大学大学院に入学
 1966年、ジュリアード音楽院に移り、ワルター・トランプラーに師事
 1967年、ミュンヘン国際音楽コンクール最高位
 1968年、ジュネーブ国際音楽コンクール最高位
 1973〜78年、フェルメール弦楽四重奏団で活躍
 1978年、ヨーロッパに渡りソリストとしての活動を行う
    〜2003年、デトモルト音楽大学教授
 その後、アムステルダム音楽院、ジュネーブ音楽院の教授として現在も教育に携わる
 1992年からは東京で教育的音楽祭「ヴィオラスペース」を指導、後進の指導に取り組む
 1994年、芸術選奨文部大臣賞
 1995年、サントリー賞、モービル音楽賞受賞
 1995年、東京、ニューヨーク、ロンドン3都市に亙って開催される「インターナショナル・ヒンデミット・ヴィオラ・フェスティバル」の音楽監督を務める    
 1996年、毎日芸術賞を受賞

ヴィオラはヴァイオリンと比べ、低い音域を出すために全体がひと回りほど大きくなっていて、共鳴箱の容積を多くとるために厚みを増して作られている。ヴァイオリンよりも音域が5度下がりしっとりと艶やかな音色を奏でる。合奏や重奏の中では中音部を受け持つ。

どれくらい前になるか、東京文化会館の小ホールで始めて今井のソロを聴いた。恐らく現在の清水の年齢よりも若かったはずだ。曲目はすべて忘れているが、ヴァイオリンよりも重いヴィオラの音色、それでいて柔らかな情感に包まれた時間を過ごして以来、今井信子の名を忘れたことはない。

世界のヴィオラ奏者はヴァイオリンやチェロのように協奏曲や独奏曲に恵まれていない。そのような環境の中で今井は他の楽器からの編曲作品も積極的に取り上げて演奏し、ヴィオラのレパートリーの開拓に大きく貢献している。

その今井をジュリアード音楽院で指導したのが1997年に亡くなったドイツのヴィオラ奏者、ワルター・トランプラー(82歳)だ。他にも有名な演奏家としてはシュロモ・ミンツやヨゼフ・スーク、ピンカス・ズッカーマンらがいるが、彼らはまたヴァイオリン演奏家としても一流で通っている人たちだ。他にも日本人女性ビオラ奏者には今井に師事するために1978年、英国王立ノーザン音楽大学に留学。在学中に第17回ブタペスト国際音楽コンクールでヴィオラ部門第1位、特別賞を受賞し、翌年ノーザン音楽大学を首席で卒業した井上裕子がいる。また、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で1992年より第1首席奏者を務める波木井賢がいる。

Dscfviola 世界にも知られた武満徹の形見ともなったが、Personal Giftとして今井に贈った《鳥が道に降りてきた》。中の14曲の殆どが世界初演となる曲が集められている。バッハの無伴奏チェロ組曲全6曲のヴィオラ版など。

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2007年7月 2日 (月)

チャイコフスキー・コンクールと 拍手

6月13日のブログで書いたばかりだ。同月8日、ルーマニアで行われたバルトーク国際オペラ指揮者コンクールで入賞した(1位と3位)2人の日本人指揮者(橘真貴、菅野宏一郎)のことを。

今回は4年に1度モスクワで行われるチャイコフスキー・コンクール*(ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、声楽など)の29日のヴァイオリン部門の最終選考で神尾真由子(21)が優勝したと伝えられた。小学校4年生だった96年に第50回全日本学生音楽コンクールで全国大会小学校の部で1位になっている。98年のメニューイン国際ヴァイオリンコンクールのジュニア部門では最年少の11歳で入賞している。その後、米国、英国、フランス、ロシアなど世界各地で演奏活動を重ね、国際的にも高い評価を受けている若手の逸材だという(スイス在住)。

*チャイコフスキー国際コンクール—作曲家チャイコフスキーを記念して1958年に創設され、4年に1度モスクワで開催される。ベルギーのエリーザベト・コンクール、ポーランドのショパン・コンクールと並ぶクラシック界の登竜門。

29日で演奏したのはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、シベリウスのヴァイオリン協奏曲と報じられているが、どちらも大曲だ、最終選考では当然時間をおいてのことだったと思われるが、演奏が終わってしばらくは拍手が鳴り止まなかったと伝えられた。《残念ながら、私はまだ聴く機会がない》

チャイコフスキー・コンクールといえばもう1人、1990年、当時最年少で優勝した諏訪内晶子(1972)がいる。彼女も又コンクールでは負けていない。
 1981年 全日本学生音楽コンクール(小学校の部)第1位
 1985年     〃   〃   (中学校の部)第1位
 1987年 日本音楽コンクール          第1位
 1988年 パガニーニ国際コンクール       第2位
 1989年 エリーザベト王妃音楽コンクール    第2位
そして1990年18歳でのチャイコフスキー・コンの 優勝と続く
彼女はそこから演奏活動には入らず、1991年から1995年までの間ジュリアード音楽院に留学、コロンビア大学では政治思想史を履修する。1995年、アンドレ・プレヴィン指揮NHK交響楽団定期演奏会で日本での演奏活動を再開する。その後は世界のオーケストラ、ニューヨークフィル、ピッツバーグ、パリ、ブタペスト祝祭管弦楽団、バイエルン、ベルリン・フィル、などと共演が続く。一方、CDへの録音も重ね、シャルル・デュトワ指揮フィルハーモニア管弦楽団でショーソンの「詩曲」を含む1枚をリリース(2004年2月)。夭逝したフランスの女流ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーの古い録音(1946年)と聴き比べた。どうしてもモノーラルのヌヴーに軍配が上がる。これ以上のものはちょっと出ないかもしれない。58年の時間の差を越えて、ヌヴーのヴァイオリンが光る。‘おそく神秘的に’の指定を持つこの曲を、深い憂愁で包んでくれる。

古いところを思い出したついでに、日本が戦前に世界に送りだした女流ヴァイオリニスト諏訪根自子のことを語っておきたい。現在でこそ日本の女性の海外クラシック界への進出は珍しくもないことだが、戦前海外で活躍した器楽奏者は彼女ひとりであった。彼女が生まれたのは1920(大正9)年、今も変らない幼少(4歳)からの習い事でヴァイオリンを持つことになる。1932(昭和7)年、12歳で日本青年会館で初リサイタルを開いた。36年にベルギーのブリュッセルに留学。37年にパリに移り、パリを拠点にヨーロッパでのリサイタルを開く。42年にはクナッパーブッシュ指揮ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどと共演、フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、スイスなど各国にわたる。日本人としてこれだけ世界的に活躍したヴァイオリン奏者は諏訪根自子が初めてであり、名実ともに当時の第一人者であったといえる。《この頃のことだろう、天才少女、スワネジコの風評は小学生の私の耳にも伝わっていて、今に頭の片隅に余韻として残っている。》

彼女がヨーロッパで大きく活躍しようとした頃はちょうど、第2次世界大戦と重なる。パリの小村で休暇を楽しんでいた1939年9月1日、突然大音声の太鼓の音を聞く。ドイツ軍がポーランドに電撃侵攻したことを知らせる太鼓だったという。第2次世界大戦の勃発だった。英仏両国はドイツに宣戦布告する。諏訪は勉強を続ける予定で日本へ帰国せず、パリにとどまる。諏訪は日本の対独親善政策でベルリンに移る。さらにドイツ軍占領下のパリとの間を往き来しながらリサイタルを続ける。日本は1940(昭和15)年9月27日、日独伊3国同盟を締結する。1944年6月連合軍のノルマンディー上陸とともに諏訪は在留邦人たちとともにパリからベルリンに避難する。

1945年4月30日、ヒトラーのピストル自殺でドイツは5月7日、無条件降伏する。諏訪は米軍に抑留され、米国船に乗せられ、ペンシルバニアへ運ばれる大西洋の船上で広島への原爆投下と終戦を知った。同年12月日本への帰国を果たす。彼女25歳の時である。《因に彼女の愛器ストラディバリウスは戦時中のドイツ宣伝相ゲッペルスが贈呈したものといわれる》

諏訪は翌46年からリサイタルを再開する。44年ジュネーブ、ローザンヌで催したコンサートで「輝かしいテクニックと音響の美しさ」「軽妙にして情熱の技量」「オルフェのごとく、諏訪根自子は音楽の平和で崇高な魔術を展開した」といわれた音楽を日本に持帰り、55〜60年ころまで各地でコンサートを開いたが、結婚、夫の海外転勤で演奏活動から離れていった。その後日本に戻った諏訪は、日に3時間は欠かさなかったという練習の成果をアルバムにまとめた。諏訪(58歳になっていた)の芸術家としての集大成となる78〜80年にかけて出したLP3枚のアルバムだ。バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、BWV1001/6』全6曲である。私の手元にあってヘンリク・シェリングの3枚と、時に聴き比べて楽しんでいる。

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 諏訪根自子(中央LP)

 諏訪内晶子(右)


 五嶋みどり(左)



現在、世界で活躍する日本の女流ヴァイオリン奏者は当時と比べ遥かに多くなっている。諏訪が学んだ小野アンナ、彼女が桐朋学園で教えた前橋汀子、潮田益子たち、漆原啓子、諏訪内晶子、千住真理子、竹澤恭子、藤川真弓、堀米ゆず子、と次々に出てくる。意識して1人飛ばした。そう、天才の名を恣(ほしいまま)にしてきた五嶋みどり(1971)がいる。彼女はコンクールとは無縁の人だ。彼女もやはり4歳から、バイオリン奏者の母から手ほどきを受け、1982年アメリカに渡りジュリアード音楽院で学ぶ。10歳の時その天才的な才能をズービン・メータに認められ、彼の指揮でニューヨーク・フィルと共演、15歳でジュリアードを自らの意志で中退した後、早くから社会事業に関心を持っていて1992年、教育環境が行き届かない都市部の公立学校の生徒を対象に音楽の楽しさを教える活動を進める非営利団体「ミドリ&フレンズ」を設立した。2001年には心理学を専攻していたニューヨーク大学ガラティン校を最優等で卒業している。

ヴァイオリン曲の殆どを演奏、録音しているが、私が謎と思えるのは未だに、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のCD化がされていないことだ。ただ1998年5月24日、NHK FMで放送したことがある。(ヒュー・ウルフ指揮:フランクフルト放送交響楽団、1997/9/19フランクフルト・アルテオパー大ホールで)幸いその時エアチェックしたからメタル・テープで聴くことは可能だが、この音源をミドリがCD化することを許可していないことが考えられる。

さて、チャイコフスキー・コンクールからどんどん逸れて行くが、逸れ序でにもう一歩逸れてみよう。毎日新聞6月30日の記事からだが、クラシック音楽会での拍手の仕方が分からない。それがクラシックコンサートの敷居を高く感じさせているのではないか。ということで悩んでいる人へ。
私は今まで幾度も書いて来た。同じように気にする人が多いからだが、誰が考えても同じだが、日本の御詠歌を聴いて拍手する人がいないのと同じこと、宗教曲を聴いてそうは拍手をする人はいないだろう。ましてそれが教会の中で行われるミサ曲のようなコンサートともなれば拍手などしない方がいいのに決まっている。

ドイツ歌曲、例えばシューベルトの場合、歌曲集も全曲で24、20、16曲、シューマンにも全曲で26、16、12、9、8曲などがある。新聞では一曲一曲の拍手はしない、それは曲の並べ方には作曲家の配慮があり、調性効果を狙って並べていることも多く、転調でその世界に導いたりしており、また同じ作曲家のものが連続して歌われる場合にはその途中に拍手を入れない、などと書いているが、クラシックを聴きに集まるファンの皆が、ドイツ語を理解し、それを熟知していると思っているのだろうか、また、逆に云えばそこまで専門知識を持たないと、或いは知らないと、ドイツ歌曲のコンサートの会場には来るな、ということだろうか。

これもまた何度も書いて来た。何も畏まって聴く必要はない。自分の琴線に触れれば、どこで拍手しようが声上げようが構わない。逆に聴いていて何も感じなければ拍手することもいらない。周りに釣られてお世辞で拍手する必要はさらさらない。憮然としていればよいことだ。

拍手の問題はヨーロッパでも歴史的に長い間議論されてきた。北ドイツでは拍手を一切しない時期もあったらしい。ピアニストのクララ・シューマン(古い話だ)は「よりどころがなく、つらい」と、その「冷たい演奏会」を嘆いたと云われる。それでも良いことだ。戦後、その昔名が高かった人たちが何人も来日した。昔日の面影をなくした人が何人も来た。哀れな演奏だった。拍手などしなかった。名前だけでは芸術ではない。入場料の多寡では芸は計れない。その芸に値すれば手が痛くなるほどの拍手を返す。

新聞の記事で納得できる内容があった。間違っていなくても《どういう意味だ》、迷惑な拍手もある。曲が終わるや否や「私はこの曲を熟知しています」とでも言いたげにすぐ、パーンと入る拍手だ。《或いは、これも書き疲れるほど書いてきた。例の気狂いたちの大声で叫ぶ『ブラボー』だ。銃でもあれば撃ち殺したくなる。》余韻をぶち壊し! 曲によっては作曲家が最後に休止符をつけその上にフェルマータ(延長させること)の記号を付けていることもある。無音の響きを味わって下さいということだ。そんなところで拍手(ブラボー)が入ったら台無しだ。

拍手の仕方は、聴衆と演奏者が曲をよりよく味わうために決められている。《それは可笑しい、拍手は誰もが揃って手を打つことではないはずだ。そんな拍手ならしない方がよほど良い。》分からない場合は、周りが拍手し始めてからやおら拍手をするのが無難だ。(記事:梅津時比古)《バカをいうんじゃない、拍手は人につられてするものか、面白くなければしない方が礼に叶ってる。もっとしっかり歌え、もっとしっかり演奏しろ、の無言の励ましとなる。お情けの拍手をもらって喜んでいるようじゃ芸術家じゃないと思え!だ。》

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2007年6月13日 (水)

バルトーク指揮者コンと日本の指揮者たち

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 白百合



バルトーク(Bela Bartok:1881.3.25-1945.9.26:ハンガリー)の曲はクラシックでもまだクラシック(古典)にはなり切れない現代の作曲家で、私には若い頃はどうしても馴染めない分野の音楽だった。

日本海側の軍港町舞鶴で(生まれは兵庫県姫路)敗戦を迎えた。趣味がクラシックの愛好家が隠し持っていた蒐集品(日本の楽曲以外は捨てることを強要されていた)のレコードコンサートを開き、惹き付けられたのが切っ掛けで、常連になった。勿論無料だった。それ以前、4年も続かなかった大平洋戦争が始まる(1941年12月8日)以前の低学年のころ、小学校の蓄音機(レコードプレーヤー)で小曲は聴いていた。お決まりのドナウ川のさざ波や、森の鍛冶屋や多くのシュトラウスのワルツ曲だった。

公会堂の一室で、初日のレコードコンサート、ベートーヴェンの交響曲第五番ハ短調「運命」(トスカニーニ、ニューヨークフィル)を初めて聴いた。私は13歳を過ぎていた、物凄いショック、カルチャーショックだった。何日間も耳鳴りが続いた。この頃のことは当ブログを始めたころにも書いた。その後は多くの作曲家の音楽を聴き、フルトヴェングラーを知るやその虜になり、自分自身にもライブラリーが増え続けた。1961〜1962年に亙ってアルバム7分冊全29枚、収納用木製キャビネットつきで東芝が当時手持ちのマスターから予約購入で、フルトヴェングラー大全集を出した。例のほこりシャットアウトの赤色のLP、エヴァークリーンレコードだ。まだ薄給の中から分割購入で揃えて行った。

61年の暮に6分冊目のバルトークのヴァイオリン協奏曲第2番(メニューインのヴィオリン、オーケストラはフィルハーモニア)のカッティングを含むアルバムを手にした。20代のころは現代音楽は近寄れないジャンルだった。それにまだまだ古典には知らない曲が溢れていた。自分の好みは古いところでモーツアルト、バッハはまだ縁遠い存在だった。一方、近代はR・シュトラウス、やシベリウス止まり。バルトークにはまだ距離があった。そしてメニューインで、繰り返し聴く機会が訪れた。他のバルトークの曲も聴いてみたくなって銀座の山野楽器に通った。当時ハンガリーのHungarotonがバルトークの全てを網羅して全曲をプレスしていた。一枚一枚と聴き集めて全曲揃えた。少しだけ聴く範囲が広がった。

今でもバルトークから近い年代の作曲家の音楽はあまり聴かない。あまりというのは全く聴かないわけではないからだ。ショスタコービッチ、テオドラキス、ヴァンゲリス、武満徹などよく聴く。古典はおもったよりも遡った。近寄り難かったバッハを聴くようになったのは、カザルス(無伴奏チェロ組曲全6曲)のお陰だ。モノーラルの古い録音のLPだったがプレーヤーに掛け、音が流れ出した途端に胸に溢れるものが込み上げてきた。私は、40歳を過ぎていた。音楽を心で聴くものと改めて実感したひとときだった。

これを機にバロックにまで古典を広げた。テレマン、ヘンデル、ヴィヴァルディ、コレッリとどんどん遡った。そして、生活とともにあったのが音楽であり、踊りながら、食事をしながら、ワインを飲みながら共に聴くのが古典の音楽であることを知った。それが(教会音楽は別としても)いつの間にか一目置く咳一つできないようなタキシードに夜会服の堅苦しいものに変わって行った。日本でいえば、河原乞食の女歌舞伎が上流階級の人間たちのお見合いの場所にもなったような様変わりだ。

そろそろバルトーク指揮者コンクールのことに触れないといけない。
今月8日、ルーマニアで行われた「第2回バルトーク国際オペラ指揮者コンクール」で日本人が2人(1位、3位)入賞した。1位の橘直貴(38)は札幌市出身で現在は首都圏で活躍している指揮者。3歳からピアノを始め、指揮者の道を志し、桐朋学園大(東京都調布市)に進学。01年に若手の登竜門として知られる「第47回ブザンソン国際指揮者コンクール」(フランス)で2位に入賞している期待の指揮者だ。3位の菅野宏一郎(35)は現在ルーマニアに在住する。

ブザンソンで思い出すのは1959年、パリ在住中にチャレンジしてブザンソンの「第一回」のコンクールに優勝した橘にとっては桐朋学園の先輩、小沢征爾がいる。小沢は次いでカラヤンコンクールでも優勝。現在ではウイーン国立歌劇場の音楽監督に就いている。
ブザンソン国際指揮者コンクールには日本人指揮者が過去何人かが入賞している。目立つところでは1982年、女性では世界初となる小沢に次ぐ日本人2人目の優勝者、松尾葉子(東京在住)がおり、1989年には佐藤裕(パリ在住)が優勝、1993年は曽我大介(大阪在住)が第1位大賞を、そして橘の01年2位となっている。
この中から今後の世界の指揮者となる人材を期待したいものだが、小沢が師事したカラヤンのような頭抜けたマエストロ(好き嫌いがはっきり別れるが)がいない現在のクラシック界だ。抜きん出た指揮者がいない世界でどこまで伸びていけるか、ドングリの背比べで終わらないように研鑽してほしいものだ。

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2007年4月27日 (金)

うた と ことば

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  久しぶりに カメラ片手にぶらぶらの散歩だった


あのえ
がおみせて
ぼくの
ないすきな(だいすきが、ないすきにしか聞こえない)
ときを
とめて
しまう
みた
いに
かぜがながれている
たえま なあく
とおく
はなれた
ひとたあちの
おもおいを
なれかあに(だれかにが、なれかにしか聞こえない)
つたえようとして
るんだ
その えがおは どんな
かなしみにも
けして
まけたりは
しないから
かぜにのって
きっとと
どいてる

これは小田和正なる歌い手が、NHKの朝の連続ドラまで歌っているのを極力耳に聞こえるのを正確に、と思って綴ったものだ。日本語がめった切りにあっている。

大阪で生まれ育った妻が、前回のNHKの連続ドラマ(「いもたこなんきん」)が大阪が舞台になっていたことから、私は未だかつて見たことのない朝のドラマを見るのに付き合わされた。第一回の放送が始まり、主題歌が流れ始めるや否や妻と私は顔を顰め、耳を覆っていた。「音を消して!」、聞くに耐えない裏声が続くのを我慢することが不可能だった。年末の紅白も20年近く見ていない。ここまで歌がひどいものになっていることを想像していなかった。今にも殺されそうな息使い、訓練された歌手なら絶対に聞こえないブレスの音だ、息を吸う度に、喉を風がとおる音だ。聞いているこちらが苦しくなる。半年続いたドラマだが、始まって2、3日は我慢していたが、忍耐の緒が切れた。毎朝「消音」の作業が半年続いて物語の始まるのを待って音を出して聞いていた。

多くの歌手がこの時歌っていた歌い手と変らない歌唱レベルだ。発声訓練も碌に受けず、高音が充分だせないと見るや、即座に「今度はファルセットで歌ってみようか」(ツンクの場合)と逃げ道を教える。人に聞かせることのできる歌手が育つ道理がない。子ども相手だから仕方ないのかも知れないが、歌よりも姿形が優先するテレビの世界だ。歌は歌謡の世界のものでなくなった。踊りながら、跳ねながら、歌える訳がない。オペラの歌手たちでさえ歌う時には殆ど動きの少ない動作の時だ。訓練された歌手でさえ飛び跳ねては歌えない。若い歌い手たちのように踊っていては、人に聞かせる歌にはならない。動けば息がきれる、言葉は続かない、声がだせない、となる。これでは歌ではない。「息を吸う音が聞こえない歌手の方が少ないのが現在の歌謡界の現実だ」。

冒頭に、読み辛いひらがなを書き連ねた。「いもたこ・・」に続いて「どんど晴れ」が、同じ大阪のケーキ屋がスタートであることで、引き続き妻優先の時間帯になっている。主題歌を歌う小田の声が第一回で流れた時この声だ、“だ”の発音ができない歌い手が歌っているコマーシャルを何度も聞かされていた。妻に何度か確認したことがあった。「“だ”に聞こえる?」その後、何度も耳を澄ましていて妻も「“な”にしか聞こえない」と教えてくれたことのある歌い手だった。今度の連続ドラマ、彼の発声はやはり“だ”が“な”で聞こえる。それにこんなに無惨に引きちぎられる日本語を聞くのは悲しい。行に段落をつけたのは、私の耳に聞こえてくる彼が発声する音を極力忠実に写し取ろうとしたからだ。

外国語風に発音する日本語を使う歌い手たちとは違うが、これほど日本語の言葉を無視した曲ではその言葉の持つ意味さえ理解することができない。例えば出だし「あの笑顔見せて」(だろうと思う)が「あのえ、がおみせて」では何のことか分からない、また、最期の「きっと 届いてる」(漢字まじりで書いたが、多分これでいいのだと思う)が「きっとと、どいてる」と歌われたのでは何のことか意味不明の音(言葉ではない)になる。このような意味不明ともなる曲では主題歌としての意味も失われることになる。今私たち夫婦は、先の「いもたこ・・」と同様、タイトルが流れる間、とても日本語とは聞き取れず、気持ち悪くて音を出して聞くことができず、消音で見ている。

他には外国語かぶれした外国語風な発音の日本語を聞かされことも多くある。日本人か外国人か分からない名前やグループ名が蔓延っており、まるで日本人であることを卑下し、外国への諂(へつら)いにしか映らない。もっと日本語を大切に曲作りをし、言葉を大切に歌って欲しいと思う。

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2006年11月 6日 (月)

ポール・モーリア死去

10月の末、フランス南部のペルピニャンの別荘に滞在中、体調不良を訴え検査入院したが、急性白血病であることが判明。11月3日午前1時、入院先のペルピニャンの病院で逝去(81歳)した。あまりにも急な死である。

ビートとリズムだけの現在のうるさい音の集まりではなく、音楽を音楽らしく聴かせることに神経を配った指揮者だった。1965年にフィリップスと契約、ポール・モーリア・グランド・オーケストラを結成。1968年に「恋はみずいろ」を世界的にヒットさせ、全米ヒットチャートで連続5週トップを記録、グラミー賞を受賞し、一躍名を上げた。全世界での売り上げは500万枚を記録し、自己最大のヒット曲ともなっている。

大の親日家で、1969年に初来日してから1987年まで毎年ツアーを行った。1998年の日本ツアーを最後に指揮者を引退したが、彼の名を冠したオーケストラはその後も活動を続けている。日本では馴染みの曲も多く、「エーゲ海の真珠」や「そよ風のメヌエット」はメルシャンワインのCMに使用され、一家に一枚ポールモーリアとも言われた程浸透していた。勿論わが家にもLPで数枚、CDになってからでも全集で揃えてある。上品で聴きやすい彼のサウンドは「イージーリスニング」というジャンルをも確立し、その後も数々の作品を生んで行った。来日は20回以上、公演回数は1200回に及ぶという。

1979年、日・伊合作映画「エーゲ海に捧ぐ」に続く1982年の「窓からローマが見える」はともに芥川賞作家で版画家の池田満寿夫の原作・監督になる作品だが、後の「窓から・・」はポール・モーリアがオリジナル・サウンド・トラックの音楽を担当している。

1995年の阪神大震災の折には「四重奏団・神戸」(フランク・プゥルセル:ヴァイオリン、フランシス・レイ:アコーディオン、ポール・ポーリア:ピアノ、レイモン・ルフェーブル:フルート)で、チャリティー録音を行いCD化した。

毎年、必ず虫干しでもないが、手持ちのSP、EP、LPレコードに始まって、CD、カセットテープを何ヶ月か掛けて音を出して時間を過ごす。たまたまCDの順に当っていて数日前にポール・モーリアを聴いたばかりだ。澄んだ音色のピアノに、クラシックとも違う心の安らいだ時間を持った。

イージーリスニングの世界は今、1925年生まれのポール・モーリアが逝き、1953年生まれのリチャード・クレイダーマン一人になった。耳をつんざく騒々しい雑音まがいの音から逃れたい世代には、音質などお構いなしで必要もない曲数が収録できるiPodなどの録音再生機器よりも、精々20曲程度の録音ができる機械があれば十分だ。

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2005年7月 9日 (土)

ある流行歌手の死

毎日新聞(7/9)朝刊の死亡記事。「山のパンセ」「博物誌」の著者、串田孫一と並んで三船浩(75歳)の死亡記事が載っている。
「男のブルース」「夜霧の滑走路」「黒帯の男」など、昭和30年から60年ごろまで、力強い低音の魅力を聞かせてくれた歌手だった。低音だけではなく音域も広くて、澄み切った高音で朗々と歌いこなした。
現在歌手と呼ばれている紛(まがい)の歌い手とは全く質が異なっていた。私たち世代には(昭和一桁)昨今テレビから聞こえて来る音は、音楽ではなく、雑音か、騒音か、鼻歌にしか聞こえない。もう10年、15年も前から年末のNHKの紅白すら聞く(音楽は聞くのが主、ビジュアルは二の次)魅力もなくなっている。
少なくとも歌手と呼べる資質を備えた人間が殆どいないのが現実だ。演歌歌手と呼ばれる人たちの中にはまだ確かな音楽センスや歌唱力を持っている人もいるが、ポピュラー系の歌い手には男女ともに殆ど歌手と呼べるレベルの人間がいない。CD、MD、パソコンからのダウンロードも含め、財布の紐を解いてくれるのは歌それ自体ではなく、歌っている人の嘴の黄色いファン、歌などどうでもよい子どもたちだけ。大人の耳に耐えうるレベルの歌手がいない現実が空しい。

男女とも音域の狭いのを気持ちの悪い、背筋も氷るような声量の落ちた裏声(まるでトイレの中で便器に腰掛けているのじゃないか、風呂場で頭にタオルでも載せているのじゃないかと思えるような)でごまかし、低音は耳を凝らしても音も無く聞こえない口だけが動いている世界。やっと聞こえても音程がまるで外れたものになっている。
自分の作詞になるともっと酷い状況が生まれる。日本語の多彩な語彙(ごい)で詩をつくることもできない己の無知を、安易に横文字でごまかして逃げてしまう。やっとメロディーが浮かんでも日本語の韻を無視したおたまじゃくしが泳ぎ始める。我が物顔でテレビはコマーシャルに気持ち悪くなる裏声の歌を流し始める。途端に音を消すか、そこでテレビを見るのを諦める。背筋に冷たい悪寒だけが残る。

どう仕様もないのかも知れない。アナログはディジタルになり、CDからMD、iPodへと便利性だけは進んだが、音は悪化する一方だ。ディジタル写真がどんなに綺麗でもやはり銀塩写真には勝てないのと同じ、音も細工して細かく切り刻んでも鋸の刃は鋸の刃、滑らかなアナログには勝てない。それでも業界が潤っているとすれば、それほどに現代人の耳は退化しているとしか思えないのだが。

以前はNHKののど自慢は情け容赦なかった。一声発しただけで下手な奴には鐘一つをお見舞いした。歌とはそれでレベルが明確に解るのだ。ところが現在この番組は出演者への同情番組になった。或いはNHKが出演者、視聴者に媚びを売っているのか。老人ホームのカラオケに、ふざけた若者のカラオケ・ボックスに。書くために無理して聞いてみる。局側は多くの人に鐘を連打してサービスするが、私には何度聞いてもその鐘の連打に値する歌い手は出て来ない。慰安旅行の隠し芸レベルだ。しかし、これが今の日本の歌手たちのレベルで自分が歌手だと云えばそれで歌手なんだ。あとは何も解らない子供達がどれだけ騒いでくれるかだけ。

三船浩、代表的な低音の魅力を備えた男の歌手。今の日本には怒鳴るのではない、叫ぶのではない、男の声帯を備えた男の歌手が全く存在しない。


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