2014年12月 1日 (月)

奈良岡朋子

 毎日新聞(12/1)から、

   宇野重吉    奈良岡
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 (1952年 「原爆の子」より)

《もう62年も前のことになる。が、宇野重吉の妹役で、片足の不自由な女性をとおして、「原爆の子」で演じたその立ちい振舞いは、未だに目に焼き付いて忘れられない。敗戦後、原爆を取りあげたのも日本映画では初めてのものであったし、その後引き続いて作られた声高な反戦映画とは違い、小学生の被災体験を綴った作文を元に制作された、戦争を見つめ考えさせられる映画だった。》


 奈良岡朋子。 まだ戦争の傷が癒えない1948年、劇団民藝の前身・民衆芸術劇場俳優養成所の1期生である。劇団の歴史と歩みを軌を一にする看板女優が6〜20日、東京・日本橋の三越劇場で上演される舞台「バウンティフルへの旅」に主演する。

 自然体でありながら、凛とした演技。まさにそれはリアリズム演劇を掲げる民藝の伝統そのものである。「普通に演じることが一番難しい。見る人に『芝居』と思わせてはいけないんだから」

 師事した宇野重吉の言葉を今も鮮明に思い出す。「役者はいらない。奈良岡朋子はいらない。アサならアサという女性がいればいい」。グサリと胸に刺さった。演じる時、無意識に普段と違うトーンで話してしまう。セリフをしゃべるのではなく、生きた言葉にすることが大事だと分かった。

 女優としての道のりは平坦ではなかったという。「イルクーツク物語」で主人公ワーリャに抜擢された時のことだ。妥協を許さない宇野に「ダメ出し」を受けて「自分の演技の出来なさ加減が身に沁みて、公演が終わったら女優を辞めようと思っていた」。

 ところがである。大阪公演初日の1幕が終わり、楽屋にトボトボ戻ると、師匠が入ってきた、「お前“初日”がやっと開いたな」――。 何気ない言葉だが、ぬくもりを感じた。

 「その一言がなければ女優を辞めていたかもしれないわね」

 もう1人、俳優人生を支えてくれた恩人がいる。2012年に87歳で没した大滝秀治である。

 「民藝に同期で入ったけど、共に補欠で受かったような存在。『俺たちは才能がないからすぐには役をもらえない。もし、才能があるとすれば長く続けることだけ。だから辞めない』と約束した」と明かす。

 奈良岡は比較的早く役に恵まれたが、大滝が花を咲かせたのは中年になってからだった。「彼こそ、『継続は力なり』を実践した人。私は宇野さんの一言にも助けられたけれど、やはり、『続けなきゃ』という気持ちでここまでやってきた」

 「バウンティフルへの旅」は米テキサス州ヒューストンを舞台に、老境に入った女が息子夫婦と狭い家で同居するうちに自分が育った故郷に思いをはせ、そこへ旅立つ物語。

 「古里を持つ人も持たない人も、年をとれば必ず自分の幼少期を振り返る。そうした心の中にポンと石を落とすような、考えさせる舞台を作るのが民藝のリアリズム」と語る。

 奈良岡演じるキャリーは故郷への旅で、バスに同乗する女性客や保安官、切符売りらと触れ合う。根は温かい人ばかり。嫌な人間が誰も出て来ない。「非情にうまく出来た戯曲」なのだ。85年公開の 米映画はキャリーの旅をロードームービーのように描いていたが、本作は「シンプルな舞台美術と演出」で挑む。

 老境を迎えた女が旅しながら見る物は何か。「望もうが望むまいが、いつか人生は終わる。だからこそ人生は濃密に生きたい、とお客さんに感じてほしい」。

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2014年3月28日 (金)

修復が終わっても、高松塚壁画は墳丘に戻さぬ決定

 毎日新聞(3/28)から、

 参照 無残!! 高松塚古墳壁画 2008/05
    「私の」NHK と 飛鳥美人 2007/05

 奈良県明日香村の高松塚古墳(七世紀末〜8世紀の初め)の極彩色壁画(国宝)について、文化庁の「古墳壁画の保存活用に関する検討会」(座長、永井・政策研究大学院大客員教授)は27日、2007年の石室解体から10年間をめどに進めている修復作業が終わっても墳丘に戻さない方針を決めた。「現在の科学的・技術的水準で安全な環境で戻すのは困難」と判断した。解体時に決めた「将来的には現地に戻す」との方針は堅持し、戻さないのは「当分の間」と限定したが、具体的な期間は示されなかった。

 文化庁は」、壁画を墳丘に戻す場合の問題点として
 ▽カビなどの影響を受けない環境の確保は困難
 ▽漆喰がもろくなっている
 ▽石材に亀裂があり、強度も低下
 ▽墳丘に保存施設を設置すると、遺構を破壊し外観に影響する
・・・などを挙げた。

 解体時に決めた「将来的には、カビ等の影響を受けない環境を確保した上で現地に復旧する」という恒久保存方針に基づき、墳丘に戻す検討を続ける必要性を指摘。その上で「当分の間は、古墳の外の適切な場所で保存管理や公開を行なう」と結論づけた。

 検討会には委員17人中16人が出席し、おおむね了承した。「当分の間」については「長期間になるだろうが、5〜10年先と誤解されるのではないか」という意見が出た。保存や公開のため新しい施設を求める発言も相次ぎ、引き続き検討会で議論する、としている。

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2012年9月25日 (火)

諏訪根自子死去

 毎日新聞(9/25)から、

 彼女の数奇な運命については先に書いた。(チャイコフスキー・コンクールと拍手 2007/07, NHK・FM放送廃止か 2006/06/ )

 戦前から戦後にかけて世界的なバイオリニストとして活躍した諏訪根自子(本名・大賀根自子)が今年3月に死去していたことが24日、関係者の話で分かった。92歳。葬儀は近親者で行なった。

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 東京都出身。3歳でバイオリンを始め、10代前半のデビュー当時から「天才少女」と評判になった。

 (左)1931年4月9日、12歳で東京・日本青年館でデビュー。

 16歳からベルギーに留学し、第二次大戦中も欧州各地で演奏活動を続けた。
名だたるオーケストラと共演、ナチス・ドイツ宣伝相のゲッペルスから贈られたストラディバリウスが愛器だった。

 終戦後に帰国。

P9250940_2(左)1946年10月3日、帝劇でのリサイタル。
 弾いているのは贈られたストラディバリウス

 日本でも高い人気を誇ったが1960年ごろから公式な活動を行なわなくなった。80年代に一時復帰し往年の腕前を披露して話題を集めた。

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     合掌

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2010年4月 4日 (日)

子守唄の聞こえる街に

 毎日新聞(4/4)から、要約と《 》内は私見。
 母に抱かれ、聞いた子守歌。-- 耳に心地よい詞とメロディーに、温もりや優しさ、そして切なさがある。この子守唄がいつしか消えて行った。一方で、家庭内暴力、児童虐待が増えている。子守唄を再生することで虐待を防止しようと活動してきたNPO法人「日本子守唄協会」(東京都台東区)が10周年を迎えた。(記事:小川節子)

《記者も書くように、子守唄には温もりと同時に切なさも含んでいる。これは次の「参照」で照会する子守りを職業とする幼い少女たちの悲しい労働歌でもあるからだ。貧しい家庭に生まれ、他家の金持ちの家に住み込んで赤児の子守りに従事する。優しい雇い主ばかりではない、また、おとなしい赤児ばかりではない、暖かい日もあるが、雨や雪、嵐の日もある、そのような毎日の子守りに、泣きじゃくる背中の赤児がうとましくて、厳しい雇い主に反抗するように、あやす代わりに赤児を抓ったりしてみる。現在の母親がしているような捨てたり、殺したりはできなないが、あやし可愛がるだけではない裏の面を歌った歌詞も多い。協会が子守唄を再生するというが、温もりや優しさの面だけを強調することは、子守唄の本質を隠すことになろう。世の中に数ある子守唄を口にすれば、必ず負の面に触れる歌詞のあることに気づくことになる。協会はそれには触れないのだろうか。》

 参照: 壱岐で子守唄フォーラム 07/05

 協会は、児童虐待防止法が施行された2000年に、プロデューサーの西舘好子(69)が設立した。当時、2歳の短い命を親に絶たれた事件の取材をしていた。捜査した刑事が洩らした。「まだ、子守唄を聞いていた年だったのに」。その言葉が胸に刺さった。

 「母や祖母が歌ってくれた子守唄を思い出しまました。テレビやビデオで子どもをあやすことが多くなったが、あの唄はどこに行ってしまったのか」

《現在の若い世代(今まさに母親である世代も含めて)、耳のそこに響く子守唄を歌って聞かせてくれた母親の声をしまい込んでいる人は少ないだろう。当然、歌える子守唄も殆どないだろう。》

 全国各地を訪ね、唄を収集した西舘は「母親の数だけ子守唄はあった」と言う。「子守唄は母親が自分の思いを単調なリズムにのせ即興で歌うもの」。正式な譜面も歌詞もない。「寒くて寒くていやだ」「もう、うちの父ちゃん大嫌い」「お日様ぽかぽかあったかい」。そんな暮らしの呟きが歌詞になる。季節の移ろい、愚痴、喜怒哀楽まで盛り込み、子どもの耳元で繰り返し歌ってほしいという。

《ここで「うちの父ちゃん大嫌い」をなぜ喜怒哀楽の一つとして活字化する必要があるのか。赤児で何も理解できないうちから性差を刷り込み、叩き込もうとしたいのか。女性の側の変な深層心理が窺える。》

 協会理事長の西舘の呼びかけに、医師、音楽家、詩人、教育関係者など40人が賛同し活動を支えている。その1人、小児科医の小林登・東大名誉教授によると、赤ちゃんの脳は母親の子守唄に反応し安心して眠りにつくという。「親子の温もり、情愛を育てるためにも必要不可欠で、親子関係の安心感、信頼感にもつながる」と。

 (中略)育児に悩む親からの相談も多いという。「わが子を可愛いと思えない」「子どもと一緒に寝たくない」「あまりに泣き止まないので、手を上げそうになる」など。西舘は、「孤独な母親は数多い。子育ての方法も伝承されず、子どもを人形のように扱う人も目につく」と指摘する。

《核家族化は経験や慣習、長老の知恵の伝承を絶ってしまった。子育てや子育てに伴う生活の知恵も身につかなくなった。子どもを作ることだけは知っているが、作る前に知っておかなければならない親になる心構えは学んでもいない。犬や猿でもできる最低限の子育てもできなくなっている。》

 また児童相談所に寄せられた児童虐待の08年度の相談件数は4万2000件を超え、10年で6倍に増え阿多。氷山の一角で、この10倍以上はいるだろうと推測する。「社会全体が優しくならないと虐待はなくならない。家の中から街角から子守唄が聞こえるようになったら虐待は少なくなるのでは」と語った。

《ここでも悪いのは「社会全体」と言いたいようだが、1番によくならなければならないのは子どもを産んだ母親であり父親だ。周りが悪いとするのは責任転嫁でしかない。それこそ、こんな考えでは虐待はなくなりっこない。》

 

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2009年5月12日 (火)

「世界遺産」のお墨付き欲しがる日本

 富士山が駄目、平泉が駄目、(参照 おらが国 次々と落選 08/10/19)にも懲りず、またまた、すげない回答をもらうことになった。

毎日新聞(5/16)から、 《 》内は私見。
 《小さいレベルでは料理のミシュランのお染み付きをもらって喜び、外国人の舌で序列を付けられた日本料理店に予約が殺到し、列を為す。惨めな島国根性の日本人のことだ、駄目で元々のこと、世界遺産のお墨付きを欲しがるのもやむを得まい。》

 「近代建築の巨匠」と呼ばれるフランス人建築家ル・コルビュジェ(1887〜1965年)が設計した東京・上野の国立西洋美術館など世界の22の建築作品について、国際記念物遺跡会議(イコモス・本部・パリ)は12日(現地時間11日)、「世界文化遺産への登録は延期すべきだ」と、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会に勧告した。6月22日からスペイン・セビリアで開く同委員会で最終審査されるが、勧告どおりに決まれば推薦書の書き直しが必要で、結論は11年以降に持ち越される。

 イコモスは同委員会の試問を受けて登録の適否などを事前審査する期間で、登録、情報紹介、登録証明、不登録、のいずれかを勧告する。日本が登録推薦して延期勧告されたのは、07年の石見銀山遺跡(島根県、のちに登録)、08年の平泉(岩手県)に続き3例目。

 同館はコルビュジェが設計した東アジアで唯一の建築物。フランス政府が中心となり、日本など6カ国にある計22のコルビュジェ作品について昨年、各国共同の推薦書を提出し、一括での世界遺産登録を目指していた。文化庁は「イコモスから『顕著な普遍的価値』の証明に関してさまざまな指摘を受けた」としている。

《数が集まれば強いだろうと、日本も加わって推薦する側も、対象も、十把一絡げとは壮観だ。イコモスも何をどう評価していいのか迷ったことだろう。》

 <ル・コルビュジュ>
 本名シャルル・エドアール・ジャヌレ。スイス生まれ。独学で建築を学ぶ。1914年に鉄筋コンクリートの建築工法「ドミノシステム」、22年にピロティや水平連続窓、自由な平面などを提唱する「近代建築の5原則」を発表し、近代建築理論の礎を築いた。30年にフランス国籍取得。55年に国立西洋美術館本館設計のために来日した。代表作にサポア邸、ロンシャン礼拝堂などがある。

《因みに私のブログのプロフィールのロダンの群像彫刻(カレーの市民)の写真は、国立西洋美術館開館の当初は建物と同一平面にあったものだが、現在は耐震構造の基礎を拵え、その上に置かれている。》
 

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2007年7月 7日 (土)

書く

昔中国(東晋の政治家、生没年不祥、生年に303、307、321など諸説あり)に書のとっても上手い人がいた。名を王羲之(おうぎし)という。中国でも『書聖』の名が冠せられ、末子の王献之と併せて二王ともいわれる。

さて、明日から第一期(7月11〜16日)の第59回毎日書道展が国立新美術館で開かれる。第二期(7月18〜23日)第三期(7月25〜30日)第四期(8月1〜5日)東京都美術館=前期(7月8〜11日)後期(7月13〜16日)と右往左往しそうなスケジュールだ。

現地に行ったわけではない。毎日と冠する書道展らしく毎日新聞紙面には受賞作26人の書が2ページに亙って紹介されている。えっ!これが書? 私は少なくとも字は読むことも、書くことも、覚えることも誰よりも好きだと思っている。以前から不思議だったが、香典袋に書く字のような薄墨の頼りない印象の字が堂々と書の世界に仲間入りしている。少なくとも学校でならったレベルでは墨は硯でしっかりと摺ることを教えられた。なのに作品には多過ぎる筆に含ませた水がカンバスを滲ませ、書としては汚れとしか映らないものがある。かと思うと、カンバスに殆ど白い部分が残らないほどバケツで墨を撒いたようなアバンギャルド書には、作者は次のような題名をつけている。「ZENのリズム2007『原点』」と。絵画展に行っても同じような訳のわからないものを出品する作者がおり、絵の具を塗り付けただけの絵を見かけることがある。自己満足の愚作でしかないと思うが、ちゃんと入選している。

絵でも書でも同じだ、アバンギャルドと呼ばれる書は自己陶酔の世界でしかない。少なくとも展覧会に出品することは、自己以外の目にふれることを前提としているはずだ。見るものの共感を得たいと願うはずだ。しかし、そこには自己満足の世界から一歩も出ていない小さな世界があるのが見えるだけだ。

ところが審査部長の貞政少登は、それぞれに大業なコメントをつけて褒めそやしている。題名には「こころ」とついている。題名が無ければ決してこころとは読めないものに、「ビートな線が走る。音が聞こえ、色さえ見えてくる。書のかたちが楽しげに現れ会話をしているようだ。快作だ」と。前出の「ZEN・・」には「真っ黒なボリュームある線《線などどこにも見えないただ黒い塊があるだけ》を組み上げ重量感のある作品に仕上げている。黒の深さも魅力だがそこから覗く白の輝きが美しい」なんて意味不明なタイトルによくもこれだけ作文するものだ。どうもセンスが狂っているとしか思えない。。

また、書とは呼べない工芸品の刻字も混じってる。おおきなハンコを扱うハンコ屋さんが出品しているようだ。書というよりは彫刻の技術較べのようなものだ。

過去最高の出品点数3万1345点のうち入選以上の全作品が展示されるらしい。それらの中には誰もが読める字もあるのだろうが、どうしてこうも普通の日本人に読めない字(行書、草書、篆書など)ばかりが入選するのだろう。書を習っている人間だけが読み書きできる限られた閉塞的な世界が書の世界なんだろうか。

中国の王羲之、日本の空海、菅原道真といった難しくても筆の跡が辿れる字、凛として美しいと感じられる字、限られた趣味の人だけでなく、誰でも読める字、多くの人が共感できるような字を見たい。

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2007年5月20日 (日)

壱岐で子守唄フォーラム

Dscf0067  竹田の子守唄 1971年
  竹田の地が京都であることは
  後に分かることになる。
   唄)赤い鳥    
     (EPレコード)

Dscf0068 ブログの殆どに3番の歌詞の
 間違いのままの転用が目立つ
 (唯一 mufuan.comさんは例外)
 誤:守も一日 やせるやら  
 正:守も一日 くれるやら 

5月19、20日の両日、「日本子守唄フォーラムin壱岐」が長崎県の離島「壱岐」で開催された。実行委員会主催で、NPO法人日本子守唄協会共催となっている。
 大会委員長、西舘好子は「神話の故郷「壱岐」は母なる大地、懐かしい日本の心の原点に位置します。歴史の深く眠る自然の懐に抱かれたこの地からもっとも人間の心を育てる「親子の愛の唄 子守唄」を発信したいと思います。子守唄は人々がその風土や日々の暮らしの中から自然発生したもので、その唄はその土地でしか味わえない心情や風景、生活が盛り込まれて今に唄い継がれてきたものです。いわば日本の生活、暮らしの記録であり、貴重な歴史の一ページ、今となれば文化財とも呼べるものです。」といい「親子の愛の特質である日本を感じ体験していただけることを願い、この会が日本再生の一歩となることを確信する」と語っている。

先に出すなり叩かれた「親学」にもいう、母乳、子守唄、朝ご飯の中の子守唄である。子育てに子守唄がセットのように言われるのはさして珍しくもないが、子守唄とは「親学」や西舘が言うような、親子の温もりを感じるものだけではないことを知っておく必要がある。各地の子守唄を幾つか知っていれば、子守唄には日本人には特に、甘いノスタルジーのように耳に残る“ねんねんよ おころりよ”に代表される、親が子どもを守りするものの他に、食い扶持を稼ぐために奉公に出され、他家の赤子の子守りをする女児(貧しい生活を助けるため、幼い少女が)たちがいたことは、貧しい時代の日本には決して珍しいことではなかったことが分かる。絵本の挿し絵にも、少女が手拭いを頭に捲き、大きなねんねこにくるんだ赤ちゃんを背中におぶった絵を見かけたことがあるだろう。姉が背負うこともあるだろうが、絵本の挿し絵は大抵守っこ少女を描いたものと見てよい。

子守唄は親が唄うものと、それら子守りをしていた守っ子たちが口ずさんだ労働歌とがあったことになる。民謡にも木挽き唄や、馬子唄、土搗き唄など労働歌があるが、この子守唄も働く少女たちが口ずさむことで民謡化していった労働歌でもあった。これらは少女たちが自分の仕事の辛さを唄ったものとして、歌詞も曲調もどうしても暗いものになりがちだ。中には世間を辛辣に皮肉り、嘆き、恨みをぶちまけたものなども幾つもある。

写真の竹田の子守唄も、1971年発売から3年間で100万枚を売り上げたシングル盤だが、初めて耳にした時の感動は今でも忘れられない。今も手元から離せない愛聴盤になっている。売れるほどに地域の特定に興味が移り、4番の歌詞にある「在所」が、ある特定の地域をさすことが話題になり、テレビ局も放送をしたがらなくなり、いつの間にか忘れられて行った。(このいきさつを詳しく書くことが今日の本意ではない)

幼くして親元や故郷を離れ、奉公先で守っこ娘たちが唄った子守唄の歌詞を幾つか紹介しておく。
 五木の子守唄(熊本県) 
   ねんね一ペンいうて
   眠らぬやつは
   頭たたいて 臀ねずむ
 ねんねこさっしゃりませ(岡山県)
   つらのにくい子を 俎(まないた)に乗せてさ
   青菜切るよに ねんころろん
   じょきじょきと 
   ねんころろん ねんころろん
 宇目の唄げんか(大分県)
   あん子のつら見よ 目は猿まなこ
   口はわに口 えんま顔
 (元唄になるともっと激しく恨みや嘆きが口に上る)
   ねんねねんねと寝る子は可愛い
   起きち泣く子は面憎い

   面ん憎い子は 田んぼに蹴こめ
   上がるそばから 又蹴こめ ヨイヨイ

   子守りゃ辛いもんじゃ 子にゃいがまれち
   人にゃ楽なように思われち ヨイヨイ
 
   奉公すりゃこそ 吾んような奴う
   お主さまじゃと たてまつる ヨイヨイ

   私しゃ唄いとうて 唄うのじゃないよ
   余りに辛さに 泣くかわり ヨイヨイ
 越後の子守唄(新潟県)
   守っ子というもの つらいもの
   おかかにゃ叱られ 子にゃ泣かれ
   泣くな 泣くな 泣くなよ
 
奉公先の女主人のことを子守りを命じられた少女たちは、どのような目で観察していたか、
 博多子守唄(福岡県)
   家の御寮さんな がらがら柿よ
   みかきゃ良けれど しぶござる
   ヨーイヨイ
   
   家の御寮さんの 行儀の悪さ
   おひつ踏んまえて 棚さがす
   ヨーイヨイ

   御寮よく聞け 旦那も聞けよ
   守に悪すりゃ 子にあたる
   ヨーイヨイ
   
   家の御寮さんは 手利きでござる
   夜着も蒲団も 丸洗い
   ヨーイヨイ

現在も、泣き止まない子を巡っての大人がする虐待や殺人が後を断たない。遊びたい盛りの幼い少女たちが仕事とはいえ、ひとさまの子を守りするのだ。大人でもいらいらすることのある乳幼児の守は、小銭を稼いで帰る娘の帰りを待つ親のことを考えれば、諦めてはいても泣きじゃくる背中の子を疎ましく思うこともあっただろう。
子守唄にはわが子を愛おしむ親の立場から唄ったものばかりではなく、悲しい裏の面があったことを忘れるわけにはいかない。
 

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2006年8月20日 (日)

部外者締め出す祭り

ちょっと前、大阪市西淀川区に在住の翻訳業を名乗るイギリス人が投書を寄せている。
町でお祭りがあり、奥さんが女のお子さんと他町のお神輿を見に行った。休憩どきにお菓子と交換するカードを配ると聞いて、奥さんから「もらいや」と声を掛けられたお嬢ちゃんが、喜んで配ってもらったカードを手にしていたら、突然男の人が「ほかの町会はあかんで。自分のところへ行け」と二歳のお嬢ちゃんからカードを取り上げた。同時に数人の女性から「ほかの町会の子が来るってどういうことや」と罵声を浴び、お子さんはショックで泣き出した、という。

イギリスでも教会主催のお祭りがあるが、どの教会に属しているか関係なく、どの国の子も楽しんでいる。お祭りとはそういう開かれたものであると思っていただけにがっかりし、また、たった二歳の子どもが持っていたものまで大声で非難しながら取り上げるという人権を無視した行為と、それを諌めるでもなく、罵声で助長する集団いじめのような行為に憤りを感じた。部外者には残酷に排他的になる日本社会の恐さを感じた、と。

西淀川のおっさんやおばはんが、書いてあるとおりの言葉で言ったかどうかは解らない。投書者の奥さんが、余りの事に頭に来て環をかけた表現になったとも考えられるが、イギリスのことも日本のことも、どちらも古来からある文化の違いから来るものだろう。指摘されるまでもなく、確かに日本社会には閉鎖的なところが多分にあるが、郷に入らば郷に従え、だ。そこでどう生きるかは本人次第。

私にも覚えがある。まだ小学生の一学期を終え、父の転勤の都合で姫路から、日本海海戦でバルチック艦隊を殲滅させた東郷元帥が長官をしていたこともある、当時はまだ海軍鎮守府として名前の知られていた京都府の舞鶴(後のロシアからの抑留者引き揚げ港になった)へ引っ越しした頃だ。二学期を迎える前の夏休みを利用しての引っ越しだった。学校が始まる前の8/24日を中日にして3日間の地蔵盆(元々は地蔵祭と呼ばれたが、8/24日が盂蘭盆に当ることから、そう呼ばれるようになった)で賑わった。

関西(奈良、大阪、滋賀、京都など)では子どものまつりとして、配られるお菓子を貰うのが楽しみな祭だ。投書の日からして地蔵盆とは考え難いが、お互いの町内が日をずらして行うようにもなった、と聞くからひょっとすると、この地蔵盆でのことかも知れない。私たちが住まうことになった隣の、世話役に当る家の軒先きには赤い提灯が幾つもぶら下がり、夜になると現代の赤提灯宜しく蝋燭が揺らめき、家に上がり込んだ子供達の笑い声やざわめきが、騒がしく聞こえていた。

地蔵盆は地蔵菩薩(大地を意味する菩薩と、胎内・子宮を意味する菩薩との合成語で、地蔵菩薩)を祭る催しで、関西では室町時代の京都で特に広まったが、関東にはお稲荷さん信仰があったことから京都に遅れて江戸時代になってやっとお地蔵さんが作られるようになった。子どもの守り神として、特に水子の供養で知られる。

私たち家族の新しい住まいになった隣家がこの世話役の家だった。まだ引っ越しして間もない私たち兄弟には、友だちと呼べる仲間は出来ていなかった。それにしてもだ、隣に引っ越して来た挨拶は親がきちんとやっていた。それでも新入りには声一つ掛けてはくれなかった。子供心に仲間はずれの寂しい思いを経験した最初であったかも知れない。大阪のようにカードがあったかどうかは知らないが、お菓子を貰うこともなく、その町内から慌ただしく去ることになった。急遽、父の会社の社宅に空きが出来て引っ越し、二学期の授業に間にあわせることができる始末だった。

食べ物の恨みからだろうか、未だにお祭り騒ぎは好きになれないで現在まで来ている。

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2005年11月27日 (日)

歌舞伎が世界遺産に登録

今回で3回目(第1回は2001年で2年毎)となる通称「無形文化遺産」は正式には『人類の口承による無形遺産の傑作の宣言』という。
選択の対象となるのはいわゆる無形民族文化で、言語・歌唱・舞踊・演劇・習俗・風習・祭礼・儀礼などがそれである。世界中の無形文化を1つに集約し、知名度を上げたり、保護を促すことで近代化に伴って消滅の危機にあるこれらのものを護ろうとするものだ。
パリの国連教育科学文化機関(ユネスコ)本部の審査委員会では歌舞伎の選定理由について「直ちに消滅する危機には直面していないが、観客数は徐々に減っている。西欧的演技スタイルの導入は創造的な進化をもたらしているが、同時に伝統芸の危機にもつながっている」と述べた。

歌舞伎の源流は、出雲の阿国が京都の四条河原で始めた「かぶき踊り」とされているが、彼女の出身は出雲神社の巫女であったらしい。毛利家の支配下にあった大社は天正19年(1591)石高の減封にあい、大社は経営維持のために寄付金募集の集団をつくり、全国へ送り込んだ。その中の一つに阿国がいた。先ず佐渡へ渡り評判を呼ぶことになるが、もっと幅広い寄付金の募集のために京都へ出ることになる。四条河原で念仏踊りを興業して愛好され、歌舞伎踊りにまで発展させたとされ、そこでは阿国は男装して傾城(けいせい・遊女)買いの寸劇を演じたりした。女性が男装して女郎買いをする「女歌舞伎」は風俗を乱すとして寛永6年(1629)取締にあい、続く若い男たちの集団「野郎歌舞伎」も禁止にあう。禁止に到る経過にはただ風俗紊乱だけではなく、いつの世にも取締の対象になるのは権威への揶揄であり、嘲笑や告発もあっただろう。だから歌舞伎にも幕府の触れられたくない内容もあったものと想像される。その「野郎歌舞伎」が生み出した女形は現在の歌舞伎の原型になっているものだ。

それから400年以上経つが、最近はブームと云われるほどの人気になっている。110年に亘って興業を行って来た松竹の永山武臣会長、歌舞伎俳優の中村雀右衛門、保存会理事の中村富十郎ら三人が登録を知って揃って会見。永山会長は「歌舞伎の持っている基本的なものが、良いものであると世界に認められたのを心から嬉しく思っています」と述べ、雀右衛門は「望外の喜びです。能、文楽の皆さまと、手をたずさえ、伝統文化の発展に力を尽くしたい」と、また富十郎は「今日この日に、歌舞伎座で歌舞伎を務めていられるのを大変しあわせに思います」と。

パリの審査委員会で云っている「観客数は徐々に減っている」と「最近はブームと云われるほど」とは反対の表現だが、どちらも本当だろうと思う。出雲の阿国の河原乞食と呼ばれ、蔑まれてもなお大社への寄付金を集めることへの情熱に支えられた女歌舞伎に比べれば、現在の歌舞伎は100年一日のごときぬるま湯の中で興業され、高尚化されたと云われる感覚は大衆から遊離し、高慢化さえしているように見受けられる。

歌舞伎での芸の継承は「家」と呼ばれる「梨園」だけが継ぎ、家出身でないと主役を務めることはできないため、脇役の減少するような危機もあり、辛うじて外部からの援助を受けての役者だけではないお囃子やその他の人材育成をしているありさまだ。その「家」を継ぐ役者も、素人でも生まれ落ちてから一つ事をしていれば立派に役者にはなれる。「家」を継ぐ役者でもテレビのドラマに出演して見せる大根ぶりには辟易する役者がいる。テレビではなく実際の舞台を観るべきだと云うかも知れないが、現在の歌舞伎の人気はそれでもテレビがなければ今ほどのブームはなかっただろう。歌舞伎界で長年役者をやっていれば大根でも名人と呼ばれお国は勲章を与え、賞美する。高慢になるはずだ。

伝統芸能の上に胡座をかいた見せ物は、未だに見苦しい女形(特例的な一人二人は出てもすぐに年齢を重ね)を使い、宝塚の男役と同様グロテスクな化け物に変わる。どちらも無理に作った声音は気味悪く、無気味にさえ聞こえる。人間の作ったものの中で最も醜悪なものは菊人形と云った明治の随筆家がいたが、歌舞伎の女形はそれに優るとも劣らない。何故女優を、宝塚は男優を使わないのだ。実際の舞台は観たこともないが、見る気にもなれない。テレビのクローズアップが見せる女形の無気悪さは例えようもなく、女以上に女らしいと賛美する人たちの審美眼を疑う。

何はさておいても現在の入場料の設定には驚かされる。
最近の値段を見てみる。出し物で多少のばらつきはあるが、東京歌舞伎座が3000円〜23000円、2520円〜16800円、3500円〜22000円、吉例顔見せで5250円〜26250円。京都南座吉例顔見せで5250円〜26250円となっている。これでは一時のブームが去れば客足が遠のくのは当然だろう。何故このような入場料が許されるのだろう。それほど有り難い見せ物なのか。
♦学割があって20パーセント、ただし満席の場合は入場できない。
♦年齢制限はないが、子供料金は無い。
   ただし、膝の上で見る分には無料だが、座席を使えば有料。
♦入場券のキャンセルや別の日への変更はできない。
どこまで高慢な世界なんだ。

少しは気が休まるのは猿之助が哲学者梅原猛の脚本でスーパー歌舞伎を創作し一人気を吐いているが、これこそが出雲の阿国の求めた大衆のための歌舞伎ではないだろうか。

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2005年10月17日 (月)

日本語クイズ番組

【今日、小泉が靖国へ行った。「私的」とは云いながら公用車に乗り、用心棒を引き連れて「国に命を捧げた人の慰霊と感謝だ」と。歴史から学ぶことを知らない情けない男だ。司法の判断を無視し、自己の歴史認識の欠除を晒け出して形だけを一般人風にして見せても、個人の行動と解釈する人間は日本人でもいまい。】

最近各テレビ局が競うように取り上げる日本語を主題にしたクイズ番組が目立つ。一方、文科省は二年後を目処に小学校三年から英語を取り入れると発表した。クイズ番組を取り上げるまでもなく、現在の日本社会で日常耳にする言葉で正直日本語をきちんと使っている人間は殆どいない。アナウンサー然り(ニュースを読み上げる持ち時間はまともだが、一歩他の所での会話などめちゃくちゃだ)、学者然り、評論家然り。世界のレベルから完全に遅れを取った日本の子どもたち。その理由は種々取り上げられて検討はされているようだ。

毎日新聞(10/7)から。内閣府規制改革・民間解放推進室が9月に検討している学校制度の教育改革に、保護者の意見を反映させようとモニター登録者(野村総合研究所)3620人を対象にインターネットで実施した結果、1270人からの回答をまとめた。

現在の学校教育に対し、保護者は
    「不満」・・・・43%
    「満足」・・・・13%
 ゆとり教育に就いては 62% が見直すべきとし、評価している保護者は 5% にとどまる
 塾と学校の学力比較では 70% の親が塾が優れていると考えていて、学校はわずか 4%

この数字がそのまま鵜呑みにできないのは解答したのはわずか35%の保護者であること。残りの65%の見解がまるで見えない。報道とはこのようにインターネット利用者のみで作り上げられた片寄ったままのデータを発表するべきではないと思う。このようなやり方が今度の衆議院選挙で多くのマスコミが見せた民意操作につながるのだ。保護者たちはどう見るだろう?大衆心理としては波に呑まれ、流されるのが普通だろう。所謂烏合の衆の心理だ。保護者の全員が学校教育を評価できるような知的水準の持ち主か、教員の善し悪しを評価できる比較価値基準を備えているのか。(教員の中には目立って品位の欠けた人間が混じっているのは事実だし、テレビで取り上げられるひどい屑もいるが全員じゃない)

意見とは、声の大きな人の、よく喋る人の、賛同が多い人のものが正しいとは限らない。云いたくても上手く表現出来ない人、数は少ないがそれが正しいことだってある。物言わぬ人は意見がない人、と切り捨てたがるが、云わない理由がある場合だってある(物言えば唇寒し秋の風[芭蕉])。

本題に戻ろう:閑話休題
日本語クイズだった。活字、漢字、ことばが好きだから番組はよく見る。高学歴の人から学者、政治家、キャスター及びアナウンサー、役者(俳優)、お笑いタレント、司会者など、おしなべて言えるのは、殆どの人たちの国語力のレベルの低さだ。書き問題になると最も目立つ。漢字で解答が書ける人はまるで居ない。書けても小学生三、四年程度の金釘流(かなくぎりゅうと読んで、下手な字を流派のように云って嘲(あざけ)ることば)だ。漢字検定でいえば6級か5級だろう。パソコンが勝手に変換してくれるから概ねは良いのだが、誤字があっても解らない。最近見かける当て字を使ったコマーシャル、新聞紙面が煩わしい。

これほど酷い日本語の実力に、英語を持ち込んでどうしようと云うのか。ゆとり教育で少なくなった授業時間のどこに英語を挟むのだろう。ますます日本語を堕落させてそのうちこれほどデタラメになった日本語は無くしようとでも云うのか。大人になっても読めて当然の音読みはおろか、訓読みに至っては殆どの人たちが読解不能に近いというのに。

私が漢字、ことばで困った思いを殆ど経験して来なかったのは遠く小学校で学んだ基礎のお陰だ。山陰の田舎町の小学校だったが三年生以上六年生まで、同一問題で週一回50問の漢字、熟語の一斉の書き取りが実施されていた。二年上に姉がいた。負けまいと頑張って四年生になった時、最上位の級にいた。当時の漢字は当用(常用)漢字と違ってホタルは蛍ではなく螢、しずかは静ではなく靜、亀は龜などと書かねばならなかった。加えて難しいことばと漢字の教育勅語を毎週一時限目に全文を書き取った。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ」原稿用紙一行20字、全文が一枚に納まった。今でも出て来る。読みは(ちんおもうに、我がこうそこうそう 国をはじむること こうえんに)この基礎の上に興味が加わってもっと知ろうと励んだ結果だ。
日本語は文化だ、と云いながらアメリカばかり見ていないで、文科省はもっと正しい日本語の普及に努めたらどうだ。

今、クイズ番組に出ている人たちの中で、漢字できちんと解答が書けるのは黒柳徹子一人だろう。それも綺麗な字で。(彼女の場合本当は綺麗と云うより豪快で達筆だ。)

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