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2014年12月 1日 (月)

奈良岡朋子

 毎日新聞(12/1)から、

   宇野重吉    奈良岡
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 (1952年 「原爆の子」より)

《もう62年も前のことになる。が、宇野重吉の妹役で、片足の不自由な女性をとおして、「原爆の子」で演じたその立ちい振舞いは、未だに目に焼き付いて忘れられない。敗戦後、原爆を取りあげたのも日本映画では初めてのものであったし、その後引き続いて作られた声高な反戦映画とは違い、小学生の被災体験を綴った作文を元に制作された、戦争を見つめ考えさせられる映画だった。》


 奈良岡朋子。 まだ戦争の傷が癒えない1948年、劇団民藝の前身・民衆芸術劇場俳優養成所の1期生である。劇団の歴史と歩みを軌を一にする看板女優が6〜20日、東京・日本橋の三越劇場で上演される舞台「バウンティフルへの旅」に主演する。

 自然体でありながら、凛とした演技。まさにそれはリアリズム演劇を掲げる民藝の伝統そのものである。「普通に演じることが一番難しい。見る人に『芝居』と思わせてはいけないんだから」

 師事した宇野重吉の言葉を今も鮮明に思い出す。「役者はいらない。奈良岡朋子はいらない。アサならアサという女性がいればいい」。グサリと胸に刺さった。演じる時、無意識に普段と違うトーンで話してしまう。セリフをしゃべるのではなく、生きた言葉にすることが大事だと分かった。

 女優としての道のりは平坦ではなかったという。「イルクーツク物語」で主人公ワーリャに抜擢された時のことだ。妥協を許さない宇野に「ダメ出し」を受けて「自分の演技の出来なさ加減が身に沁みて、公演が終わったら女優を辞めようと思っていた」。

 ところがである。大阪公演初日の1幕が終わり、楽屋にトボトボ戻ると、師匠が入ってきた、「お前“初日”がやっと開いたな」――。 何気ない言葉だが、ぬくもりを感じた。

 「その一言がなければ女優を辞めていたかもしれないわね」

 もう1人、俳優人生を支えてくれた恩人がいる。2012年に87歳で没した大滝秀治である。

 「民藝に同期で入ったけど、共に補欠で受かったような存在。『俺たちは才能がないからすぐには役をもらえない。もし、才能があるとすれば長く続けることだけ。だから辞めない』と約束した」と明かす。

 奈良岡は比較的早く役に恵まれたが、大滝が花を咲かせたのは中年になってからだった。「彼こそ、『継続は力なり』を実践した人。私は宇野さんの一言にも助けられたけれど、やはり、『続けなきゃ』という気持ちでここまでやってきた」

 「バウンティフルへの旅」は米テキサス州ヒューストンを舞台に、老境に入った女が息子夫婦と狭い家で同居するうちに自分が育った故郷に思いをはせ、そこへ旅立つ物語。

 「古里を持つ人も持たない人も、年をとれば必ず自分の幼少期を振り返る。そうした心の中にポンと石を落とすような、考えさせる舞台を作るのが民藝のリアリズム」と語る。

 奈良岡演じるキャリーは故郷への旅で、バスに同乗する女性客や保安官、切符売りらと触れ合う。根は温かい人ばかり。嫌な人間が誰も出て来ない。「非情にうまく出来た戯曲」なのだ。85年公開の 米映画はキャリーの旅をロードームービーのように描いていたが、本作は「シンプルな舞台美術と演出」で挑む。

 老境を迎えた女が旅しながら見る物は何か。「望もうが望むまいが、いつか人生は終わる。だからこそ人生は濃密に生きたい、とお客さんに感じてほしい」。

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