毎日新聞(10/2、3、4)から、
<絶対評価 信用できず>
AO入試から3年目。受験生が提出する調査書に「A」がやたら目についた。学力試験を課さないAO入試では、調査書は学力をみる重要資料だ。高校側は3年間の成績(5点満点の評定平均)を基に、上からA〜Eまでの5段階で生徒を評価する。人物、学力とも「特に優秀」ならⒶを付けられる。
以前は1校に1人いるかいないかだったが、1クラスに2人というケースもあった。「信用できない」ということで、予備校実施の模試成績を提出させた。Ⓐにはほど遠い成績だった。
「あの頃から評定が甘くなった気がする」ということで、結局、予備校が作る高校の偏差値ランクなどを基に独自に査定し直して判定した。
予備校関係者は「評定はインフレ状態」と言い、学校側は「生徒を合格させたいので甘めにつける」平均で『4』。かなり悪くても『3』しかつけないと明かす高校教諭もいる。
それがなぜ可能なのか、それは評定が『絶対評価」だからだ。5や4がつく生徒の割合が決まっている相対評価に対し、絶対評価は生徒個人の達成度で判定するため、「みんな5」もあり得る。「だが、それは、各校内の基準。現状では現状では公平な合否判定には使えない」と冒頭の教授jは訴える。
入試が多様化する中、学力をどう担保するかは国が進める入試改革の大きな柱だ。 政府の教育再生実行会議が検討している入試改革では、一つの案として高校在学中における基礎学力判定用に「到達度テスト」の導入が見込まれている。学習の「到達度」をみる目的で、高校在学中に複数回受験できることを想定している。一定の学習レベルに「到達」していることが把握できれば、あとは大学側が、高校時代の部活動実績や面接で合否を判定する。マラソンや水泳なら、偏差値が順位、到達度はタイムに相当する。
だが、その導入には前提がある。「ますます、大学にはアドミッションポリシー(入学者受け入れ方針)をしっかり掲げ、学生を選ぶ力が求められる。全国高校長協会の甲田元会長はそう指摘する。「入試害外注」が広がり、アドミッションポリシーの無断拝借まで起きる中、それだけの力がある大学はどれだけあるのだろう。
《厳しく学生を選ぶ力があって、その通り実行し、選抜すれば学校経営に破綻をきたす学校が次々に出てくるだろう。どれだけ低いレヴェルの学生でも入学させなければ、学校が潰れてはどうにもならない。淘汰の声が聞こえ始めてから随分経過するが、まだまだ多すぎる学校が員数を欲しがっているのが現実だろう。》
<「到達度テスト」の導入>
7月下旬、東京・駒場の大学入試センター視察を終えた下村文部科学相は、入試改革の象徴としてセンター試験を挙げた。
1990年の導入から23年。制度疲労は否めない。科目が29にまで増え、ミスも続発する。作成するのは委嘱された大学教員だが、暗黙のルールがあり、過去に出題されていないこと。作成経験がある教授は「20年も経てば問題も出尽くす」。受験生は志望大学が指定する科目だけしか勉強せず学力低下を招いたともいわれる。「1点刻み」の得点主義も批判される。
そこで政府の教育再生実行会議が入試改革の減算に盛り込んだのが大学入試の「新テスト」だ。テスト結果は大まかに段階別の「到達度」という指標で提示。試験教科・科目も見直し、複数回受験を可能にするという。だが、実現には懐疑的な声もある。「到達度」をどう設定するのか。複数回は可能なのか。問題は費用面や技術的な話にとどまらない。
かつて、同様の試験が検討されていたが、途中で「放置」された。文科省の委託で同テストの研究を進めた佐々木・北海道大名誉教授は当時あった二つの「壁」を指摘する。一つは「政治の壁」で、09年9月に政権交替したが、「民主党は入試センターの民営化には関心があったが、入試改革には意欲がなかった」。
もう一つの壁は文科省内にあった。小学校から高校までを担当する初等中等教育局と大学を担当する高等教育局のどちらがテストを所管するか。「高校卒業資格」なら初中局。大学入試なら高等局だが「省内がまとまっていなかった」。
今回は昨年の衆院選で自民党が公約。政治の壁はなくなった。文科省内の壁はどうか。現在、高大接続問題が中教審で議論されているが、議論の場は「高校教育部会」と「高大教育接続部会」の二つ。前者は初中局、後者は高等局の担当だ。
教育再生実行会議の提言について、具体的な制度設計は中教審が担う。佐々木は期待を込める。「文科省内の『高大接続』がうまくいくことが成否の鍵を握る」と。
<問題「初出」暗黙のルール>
2007年4月、国公私立70大学の「共同宣言」が受験界で話題を集めた。「入試過去問題活用宣言」。各大学の入試の過去問題を共有財産として活用する内容だ。旗振り役となった岐阜大の広田副学長は「作問担当教員の心理的負担をhジェラスため」と狙いを説明する。
入試問題には「初出」という暗黙のルールがある。過去問と類似していることが分かると、たちまち高校や予備校から「不公平だ」「ミスだ」と抗議が寄せられる。作問経験がある地方大の教員は「問題を作ったら、他大学の過去問を取り寄せ入念にチェックし、入試が終わっても苦情が来ないかびくびくしていた。神経をすり減らす日々だった」と苦々しく振り返る。
結果的に似ることはある。良問なら尚更だ。それがミスだと批判されてはたまらない。ならばいっそのこと、先に宣言してしまおうというわけだ。実際に過去問を使うのは参加大の1割程度だが、今では参加大は106にまで増えた。
「公平性」は入試の大原則とされてきた。進学率が伸び始めた1960〜70年代、大学の収容力が追いつかず、大量に押し寄せてきた受験生を厳正に選抜するには公平公正さが必須だった。客観的指標になる偏差値が物差しになった。それから半世紀。18歳人口の半数以上が大学に進み、希望すればどこかには入れる「全入時代」が到来し、大学は大衆化した。そして今、公平性の呪縛からの脱却を望む声は大学外からも高まっている。
3年前、首都圏の市立中高一貫校の校長が設立した「21世紀型教育を創る会(21会)」。偏差値重視の「知識詰め込み型」教育から、思考力を育成する「課題解決型」教育への転換を目指す。現在15校。参加する富士見丘中高(東京都渋谷区)の吉田校長は「各校の教育内容を評価して『あの学校はの卒業生なら』と受け入れてくれる大学が出てきてほしい」と期待を込める。
産業界も後押しする。今年1月の中央教育審議会(中教審)の高大接続特別部会。委員の浦野経済同友会幹事は「入社試験は客観的な公平公正が求められていない。なぜ大学だけが言うのか。主観的論点も含めた入試に踏み切ってほしい」と強調した。
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