公立高 「英語の授業はどうあるべきか」
毎日新聞(5/31)から、
文部科学省は2009年3月、10年ぶりに高校の学習指導要領を全面的に改定した。英語はコミュニケーション能力を重視する方針が打出されて、授業は「英語で行なうことを基本とする」と明記された。4年間の移行期間を経て、今年4月から1年生を対象に全国の公立高で「英語による授業」を開始。15年4月に全学年に広がる。
新指導要領の目的は、生徒が英語に触れる機会を増やしコミュニケーションの道具としての英語を意識できるようにすること。「国際化」を意識し、訳読中心の授業から脱却を目指す。指導する単語数も1300語から1800語に増えた。
政府の再生実行会議も小学校英語の教科化を提言し、英語教育の議論は高まるばかりだ。高校英語の授業はどうあるべきなのか。
《英語に限らず他国語が必要と感ずる人は学べばいい言葉であって、日本人全員が学ぶ必要は全くないといっていい。加えて英語が話せるから国際人とは噴飯ものだ。日本国の大臣から国会議員たちの何割の人間に、その「国際人」に当てはまる人間がいるだろうか。自国の歴史も世界史の中でまともに評価、認識できないで、「国際化」「国際人」は恥ずかしい話だ。》
松本 茂(立教大教授)、寺島隆吉(元 岐阜大教授)、和田 玲(東京・順天高教諭)の3人が賛否それぞれの立場で標題のテーマで語っている。
先ず取りあげるのは「全員が話せる必要はない」の寺島教授から。
高校の新学習指導要領はコミュニケーション能力に目標を特化した。生徒が授業で学ぶ英語は会話が中心になる。しかし、日本のような社会環境で英語を使う機会は限られている。どれだけ詰め込んでも忘れてしまう。「ザルに水を入れる作業」と似ている。
音楽や体育の授業を受けただけでピアノを弾けたり、スポーツ選手になれたりするわけではない。英語だけが「授業だけで話せるようになる」と思われている。不思議でならない。日本人が英語を話せない理由は日常生活に必要ないからだ。私がベトナムに行ったとき、路上生活の子どもたちが英語で土産物を売っていた。生活の必要がそうさせるのだ。
中学校の英語教育も会話が中心になったため、生徒の語彙は貧弱だ。だから、高校で一文一文の和訳に手こずる生徒もいる。それどころか人称代名詞の「us」を指して、「先生、このウスは何?」と真面目に尋ねる大学生まで現れたと聞く。
このように、学力低下は深刻なのに「英語で授業」とは信じ難い。日本語でコミュニケーションをとることが難しい荒れた高校もある。「英語で授業」の押しつけは、生徒にとっても教師にとっても不幸だ。日本語を使わない授業が効果的だというならNHKの語学番組はなぜそうしないのか。
学校教育で重要なのは、社会人になって必要になったときに活用できる基礎力をつけておくことだ。使わなければ忘れてしまう会話ではなく、まず「四m樹値から」をつける。その方が会話に役立つ。速読ができない限り、「速聴」は無理だ。相手の言っていることが分からない限り、会話にならない。読む力は書く力の基礎となり、書く力は、すぐに話す力に転化できる。英語のリズムで音読ができれば発音も良くなる。聴く力も伸びる。だから、日本語で指導しても十分に会話の基礎は育つ。授業方法の問題だ。
ところが新学習指導要領を真に受けて、「日本語を使った授業になっていないか」だけを点検している教育委員会もあるようだ。理解に苦しむ。新学習指導要領のいう「生徒が主体となって活動する授業」は日本語でも可能であり、大切なのは生徒が自らの成長を実感できる授業だ。日本語ゼロの授業で質問もできず「顔で笑って心で泣いている生徒」を生み出してはならない。
英語力イコール研究力という考え方も疑問だ。確かに英語の教科書を使わなければ大学や大学院の講義ができない国もある。だが、今の日本はすべて日本語で済む。ノーベル賞受賞者も英語が先にあったわけではない。知りたいことが先にあり、日本語で読み尽くし、知り尽くして初めて英語の必要性が生まれた。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」といわれた1990年代初期に、私はアメリカの大学で日本語を教えていた。そのころ、企業は社員を英会話学校や海外の大学に送って必要な語学力を身につけさせていた。今、その金が惜しくなったから、責任を学校に転嫁しているだけではないか。
何か一つ外国語を学べば、日本と日本語が見えてくる。「母語を耕し、自分を耕し、自国を耕す」ための外国語だ。日本人全員が英語を話せるようになる必要もないし、義務もない。
むしろ、英語一辺倒が日本を危うくする。
・・・つづく
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