4月28日、祝う日より考える日に
毎日新聞(3/31)『社説』から、《》内は私見
政府が4月28日に開催する主権回復記念式典に対し、沖縄県の反発が強まっている。この日はサンフランシスコ講和条約が発効し米国の占領が終わった日だが、同時に沖縄、奄美、小笠原が切り離されて米国の統治下に置かれたため、沖縄では4・28を「屈辱の日」と呼んでいるからだ。式典開催にあたっては、同じ国内にこうした歴史認識の違いがある現実を忘れてはならない。
《4月28日を主権回復の日とするのは安倍晋三の個人的歴史認識であって、政府主宰の式典行事とするものではないだろう。1度はA級戦犯に上げられ,米ソ対立の激変から急遽戦犯指名を解かれた岸信介(A級戦犯で絞首刑になった東条英機内閣で、商工大臣として太平洋戦の物資動員のすべてを扱った)を母方の祖父に持つ屈折した歴史観と、選挙システムのマジックで、衆議院で員数だけは大量に議席を増やしたが、選挙民からの得票数は投票数の半分にも満たない支持を後ろ盾に、総理の座についてからは、大勝利気分で浮かれ切った言動が続いている。安倍個人の偏った歴史観で開催しようとするこの式典を、いくら右傾化した政府の人間たちといえども、沖縄の置かれている現状と照らしても、皆が「右に同じ」で異議なく賛同しているとは、とても思えないのだが。》
戦争に敗れた日本は、7年近い連合国軍総司令部(GHQ)の占領統治を経て1952年の4月28日に正式に独立を果たし、やっと一人前の国家として世界から認められた。近代国家が独立の節目の日を大事にするのは自然なことだろう。
講和条約発効によって日本は戦前の植民地などの領土を放棄し、東京裁判を受諾した。同時に日米安保条約も発効し、吉田茂首相の下で西側自由陣営の一員としての一歩を踏み出した。吉田ドクトリンとも呼ばれる軽武装・経済成長路線は、日本の平和と繁栄の礎となった。
その一方、取り残された沖縄はその後20年に及ぶ米国統治を経て、72年5月15日にやっと本土復帰を果たした。今に至る米軍基地の過度な集中とそれに対する沖縄の怒りの原点は4・28にある。その意味では戦後日本の明も暗も、すべてがこの日から始まったと言っていい。
であるなら、4・28を単に米国の占領のくびきから解き放たれた日として祝うのは、思慮に欠ける振る舞いだ。ましたや、憲法など占領期に形づくられたものを否定するためのような、保守イデオロギー色の強い式典であってはならない。
むしろ、なぜ米国の占領統治に至ったのか、なぜ戦争を防げなかったのか、なぜ戦前の日本は世界から孤立したのかを考える日であるべきではないのか。その反省を踏まえ、二度とあのような失敗を繰り返さないためには何が大切なのかを深く自問自答する日にするのである。
世界から見るなら4・28は、戦前の軍国主義と一線を画して平和主義の国、自由・人権・民主主義を基本とする国際協議的な国に生まれ変わった日本を迎え入れた日である。その視線を忘れず、常に国際社会の中の日本であり続けなければならない。
若い世代には米国に占領された歴史も、講和条約と日米安保条約が同時に発効した事実も、知らない人が増えているという。歴史に学ぶことが必要である。4・28は私たち一人一人が過去の出来ごとと真摯に向き合い、若い世代も含む全ての日本人が過ちなき未来を思い描く機会にしたい。そのためにも式典はできるだけ簡素が望ましい。祝う日でなく、静かに考える日としたい。
たまたま30日、連合国軍総司令部(GHQ)民政局のスタッフとして、日本国憲法の男女同権条項を起草し、昨年12月に89歳で死去した米国のベアテ・シロタ・ゴードンさんをしのぶ会が、東京都内であり、親交のあった人ら約280人が出席した。
開催を呼びかけた元文相の赤松良子は「改憲の動きのある今だからこそ、ベアテさんのことを伝えたい」と挨拶。この日に合わせ来日した長女ニコル(58)が「母は死ぬ直前まで日本の憲法に思いを寄せていた。死後も憲法を守る役に立てれば母も嬉しいと思う」と話した。
2月に死去した岩波ホール総支配人高野悦子の提案で2004年につくられたドキュメンタリー映画「ベアテの贈りもの」を上映。集まった人たちは「男女同権を書いた憲法24条が毎日の生活に生きる時が来ることを願っています」と語る生前のベアさんとスクリン上での再会となった。
▼ペアテさんは2000年5月2日に国会の憲法調査会で意見陳述し、
「日本国憲法は世界に誇るモデルだから50年以上も改正されなかった。他の国にその精神を広げてほしい」と訴えた。
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