メディアは飲酒問題の本質に切り込め
毎日新聞(7/31)、札幌医科大教授・齋藤利和(精神神経学)から、《》内は私見。
5月7日、小樽商科大学のアメリカンフットボール部員9人が花見での過度の飲酒で急性アルコール中毒となり、病院に救急搬送され、うち1人が意識不明の重体に陥り24日夜、死亡した。山本学長は25日、部員を集めた説明会後、部員の総意として、部の解散願いが提出されたと説明した。副学長をトップとする大学の委員会は6月27日、全部員への聞き取り調査を基に「上級生らによる具体的な飲酒の強要はなかった」との報告書を公表したが、学長は個人的な見解としながらも強要があったとし、「酒をたくさん飲むのが良いという部の雰囲気や伝統は強要にあたる」としたという。小樽商大は、この飲酒事故について8人の無期停学を含む学生計50人の処分を、また学長、副学長の減給処分を発表した。
《花見酒を喰らったというからには、少なくとも全員が成人だろう。『大男、総身に知恵は周りかね』で、急性中毒になろうと、死のうと自己責任の範疇だ。なにも学長や副学長が責任を取ることもない。酒を強要する阿呆に飲む阿呆だ。》
これらの一連の記事は、飲酒の強制─事故─処分(飲酒規制を含む)という枠内で論じられている。飲酒問題の本質に切り込み、解決を論じるにしては物足りなさを禁じ得ない。第一には事故の詳細が報道で明らかにされていない。急激な飲酒で血中アルコール濃度が1㎗中、400mg以上になると呼吸麻痺や循環器障害によって死に至る。しかし、実際、飲酒が原因の死の多くは嘔吐物の吸引による窒息死である。それなら周囲のものが注意することで事故は防げたかもしれない。アルコールの代謝は個人によって異なる。飲酒量が同じでも、酩酊の重症度は人によって違うという基礎的知識は教えられていたのだろうか。
《酒飲みには何を言っても始まらないが、酒を飲んでも人によって酔い加減が違うことぐらいは、大学生になるまでに、教えられなくても町じゅうの至る所で見聞きしてきたろう。また話しにも聞いたろう。それよりも、日本人にしっかりと刷り込まれているのが「酒は百薬の長」だ。少々のことは「酒の上のこと」で済まされる日本特有の酒文化がある。世間も酒には滅法弱い。》
さらに「部の雰囲気や伝統」を強要というなら、問題の解決には、飲酒問題にとどまらない広がりと深さが要求されよう。無論、大学だけの対応にすべてを期待するわけにはいかない。「飲酒文化」がないところでは、異常な飲酒に陥りやすい。わが国における伝統的な飲酒文化は家庭で「晩酌」が見られなくなったように、消滅しつつある。新しい健全な飲酒文化を築かなければ、問題の解決にはほど遠いであろう。
キャンパス内での一方的な飲酒規制や飲酒事故に対する厳罰化は、効果が期待できない。社会運動、教育、それらを支える研究という視点が必要なのだ。この流れを受け、今年3月、アルコール関連問題基本法推進ネットが開設され、アルコール関連問題基本法制定に向け運動が進んでいる。「不適切な飲酒」で生じる諸問題の防止策、アルコール関連傷害に対する相談支援、実態を把握し、より総合的な対策のための調査研究推進などを骨子とした法律である。しかし、メディアの関心は薄い。飲酒の強制─事故─処分という枠から、もう踏み出してはどうだろうか。(北海道支社発行紙面に論評)
《何を言っても、酒が売られている限り、解決の道はないだろう。「ノンアルコール」は本物の酒への予備軍を育てているに過ぎず、「百薬の長」の考えが変わることはないだろう。》
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