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2011年8月15日 (月)

戦時中「国を守れ」と教えた教師

 毎日新聞(8/14)敗戦の日を今日に控えた14日の記事から、
 焼け跡で悔いたあの日が忘れられない。元小学校教員の早乙女菊王(87)=千葉県我孫子市=は戦時中、東京の国民学校高等科(現在の中学1,2年)の生徒に「国を守れ」と教えた。学校は空襲で焼け、戦後の街に教え子の多くが戻らなかった。「過ちは繰り返してはならない」。間もなく、迎える66回目の終戦の日。教え子を捜し歩いたあの夏の日を思う。(記事:長野宏美)

《今でこそ侵略戦争と意味づけられているが、「国を守れ」と教えた当時の教師たち、「聖戦」を謳い、国が国是として掲げて開いた闘いだ。「国など守らなくてもいい」と教える非国民教師がいる筈もない。また、「過ちは繰り返してならない」の反省は、戦争に突き進んだ国家の過ちと、その国の方針に反対しなかった教師個人の過ちと二つの意味とがあるが、早乙女は、戦時下の小学校の教師が、検挙、拷問、死すら覚悟して、反戦を教えるべきであった、或いはそうすることが正しかったと主張できるのだろうか。戦争を知らない世代が、現在の価値観・価値基準で当時のことをいろいろと指摘するが、その通りにできるものなら、世界中の国の争いは疾うに地球上からなくなっていることだろう。》

 早乙女が師範学校に進んだのは日本軍が真珠湾を攻撃した1941年。日本が戦争に突き進む中、教師の言葉に服従し、柔道や剣道で身体を鍛えた。戦争を疑ったことは一度もなかった。

 第一大島国民学校(現東京都江東区)に赴任した後は、教え子たちが将来、志願兵に応じてくれればいいと思った。間もなく自らが海軍に召集された。「おれに続け」。44年4月、全校生徒の前で演説し、横須賀海兵団に向かうのが誇らしかった。

《レマルク原作の「西部戦線異常なし」の映画、冒頭のドイツ国内の教室で学生たちに前線へ行くよう、熱弁を振るう教師がいるが、当時の日本の教室もその通りだったろう。》

 海軍では掃除や整列が遅いとバットで尻を殴られた。B29を撃ち落とす任務に就いたが、既に船はなく大砲を構えるのは山の上だった。ある晩、突然樽酒が振る舞われ、迎撃に成功したと知った。喜び、浴びるように飲んだが、祝杯はその一回だけだった。戦闘機の銃撃を受け、防空壕に飛び込んだこともあった。

 終戦の日。近くの農家の人も集まってラジオを聞いた。とにかく終わったことにほっとした。

 東京・向島の自宅に戻り、「聖戦」を信じて子どもたちと向き合った国民学校の様子を見に行くと空襲にあった校舎は消えていた。記憶を頼りに焼け野原を歩き、教え子を探し求めた。リヤカーを曳く見覚えのある顔に出会った時も、「どうしてる?」と声を掛けるだけで、何もしてやれなかった。空襲にあったのか、それとも戦地で命を落としたのか。ほとんどの教え子の消息は掴めなかった。「間違ったことを教えてきた」。焼け野原で悔やむしかなかった。

《平時の反省も、一旦緩急の際は反戦運動も虚しく、誰もがその波に呑み込まれ、過ちとされる道を行くことになるだろう。左の頬を殴られれば右の頬を差し出せ、と教える宗教も、歯には歯を、目には目を、とも教え、第一、二次大戦には参加し、究極的な殺戮兵器の原子爆弾さえ投下するに躊躇しないのだ。これが戦争だ。その国の国民として、「国を守れ」と教えるのは、過ちと知ってもしなければならない教師の義務とされるのだ。軽々しく教師を聖職者とは呼べないのだ。》

 戦後、小学校の教員となり、同僚と結婚して2児をもうけた。一時は組合活動をしたことを理由に職を追われたが、3年後に教壇に戻った。声高に「戦争と平和」を唱えても理解してもらうのは難しい。喜びや悲しみを共にすることを心掛け、作文指導に力を注いだ。「自分の考えをしっかり持てる大人になってほしい」。国の言いなりになり、戦争に突き進んだあの時代の反省だった。

 84年に退職した後も教え子たちとの交流は続いている、という。(後略)

 参照 1945(昭和20)年 8月 05/08

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