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2011年6月26日 (日)

「スポーツ権」とは

 毎日新聞(6/25)から、《 》ないは補足と私見。
 超党派の議員立法として提出された「スポーツ基本法」が今月17日に成立した。50年前に制定されたスポーツ振興法*に代わる、国のスポーツ施策の基本方針を示す重要な法律である。

 《* 東京五輪開催を控えて1961年に制定された 》

 メディアの関心は全般に低く、法案の提出と成立時に注目したに過ぎない。朝日新聞は、法案提出時にそれまでの経緯や内容などについて解説したほか、社説でも取り上げ、基本法の意義と課題を示した(5月31日、6月17日)。産經新聞は、基本法の最大の果実は「カネ」の裏付けと切り捨て、法案に盛り込まれた法令の遵守や運営の透明性などの課題を突き付けられることになると指摘した。読売新聞は法案提出と成立を淡々と伝えただけだ。毎日新聞は、法案提出後の6月7日から5回の連載記事を掲載した点で異色である。経緯や法案の目玉である「スポーツ権**」をはじめ、法案の背景にあるスポーツ庁やその財源、五輪招致への期待などについて関係者取材をもとに詳述した。

 《** 1978年のユネスコ第20回総会で採択された「体育・スポーツ国際憲章」の第一条で、「体育・スポーツの実践はすべての人にとって基本的権利である」と宣言された (2001、2、8「アカハタ」》

《先の事業仕分けで強化費の削減をされたとき、参照:オリンピック選手強化費縮減に憤り 09/12 を書いたが、スポーツ基本法では等しくすべての国民にスポーツ権があり、オリンピックや各種選手権に参加できる人たちだけにスポーツ権はあるのではないことが分かることと思う。》

 基本法の背景をみると、財源やスポーツ行政の一元化を求めるスポーツ組織だけでなく、経済界のもくろみや国力を顕示したい政治的意図が読み取れる。勝敗や順位などに読者が一喜一憂する裏側で、スポーツにまつわるビジネスや政治がうごめいている。

 メディアは読者のニーズがなければ記事にならないというが、取り上げないことの政治性には無責任である。トップ選手の一挙手一投足には注目し、人気チームの勝敗に焦点をあてることで、スポーツが公正中立であるかのような錯覚を与え、スポーツ人の非政治性を照射する結果を招く。スポーツへの熱中は、する側だけでなく、見る側や読む側の非政治性を招くのだ。

 基本法の成立とこれに基づくスポーツ施策は東日本大震災からの復興と歩みをともにする。法案提出と五輪招致の浮上とが重なる背景には、国内的には大震災の痛みから人々の目を逸らせ、国外へは国力の誇示という意図が見え隠れする。

 毎日新聞の連載は基本法にまつわる政治性に切り込んだ点で評価できるが、この法の目玉である「スポーツ権」について、その主体である普通の人々の目線が描き切れていないことを物足りなく思う。世論の無関心は「どうせ私たちには関係がない」という人々の諦念の反映だ。巨大なスタジアムの周囲をウオーキングしても、その施設に足を踏み入れることから遠い存在である「普通の人々のスポーツ権」が議論の俎上にない。「みんなのスポーツ」の「みんな」が法案を成立させるための看板でしかないことを見抜いている「無関心」なのだ。(大阪発行紙面を基に京都教育大学教授:井谷恵子が論評)

 井谷の記事を裏づけるように22日の毎日jp〔記者の目)は書いていた。<要約>
 今回のスポーツ基本法は、「スポーツ団体にとっては手足を縛られる。耳が痛い法律かもしれない」。法案の策定過程で実施したヒアリングで、日本弁護士連合会の弁護士が発した言葉だという。

 基本法にはスポーツ権という単語はないものの、権利について前文の中で「スポーツを通じて幸福で豊かな生活を営むことは、すべての人々の権利であり、すべての国民がその自発性のもとに、各々の関心、適性等に応じて、安全かつ公正な環境のもとで日常的にスポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、またはスポーツを支える活動に参画することができる機会が確保されなければならない」と書かれている。

 ここまではいいのだが、話は一気に「みんなのスポーツ」であることを無視し、五輪や選手権レベルのスポーツ選手とスポーツ団体の関係に移る。それが「スポーツ団体にとって手足を縛られることになる耳が痛い話だというのだ。

 その一つが、日本のスポーツの中にある服従的、封建的な体質だ。先輩と後輩、レギュラーと控え、さらには競技団体と監督,選手などという上下関係が築かれた。そのような構造の中で暴力行為やセクハラ、パワハラなどの問題も起き、団体と選手の間では五輪や選手権代表の選考会では不当、不公平とみられる扱いもあった。

 旧来の振興法にはなかったスポーツの権利利益の保護が記されたのだから、これまで弱い立場にあった選手たちは自分の不利益になることについては声を上げやすくなるだろう。そして、上の立場の指導者や競技団体はそれを受け止める必要がある。たとえ、裁判で認められなくても、これまでは届かなかった選手たちの声は社会の中で「運動」につなげることができる。

 これが、最初に書いた弁護士の「耳が痛い」との指摘の理由だ、という。(記事:東京運動部)

《スポーツ基本法は、『「みんな」が、各々の関心、適性に応じ、スポーツに親しみ、スポーツを楽しみ、またはスポーツを支える活動に参画する権利を有する』とあるが、「記者の目」がいうのは、普通にスポーツをする人々は、選手たちを支える活動をしてくれるだけでいいということか。》

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