続 土曜授業は是か非か
ラナンキュラス
玉木 子どもたちに学ぶ喜びを教えるためには、時間が必要と言うことでしょうか。
寺脇 面白算数、大賛成。詰め込み型でたくさんの知識を覚えさせる場合に限らず、そうやって丁寧に教えようとすれば、確かに平日の授業だけでは時間が足りなくなる。ただ、では足りない分をどうするのか、土日に延ばすしかないのか、そうではなく生涯にわたって延ばすという考え方もあるのでは、というのが自分が言ってきたこと。学校を出た途端に学習は終わり、という考え方ではなく、生涯学習という考え方に頭を切り替えることができるかどうか。何もかも学校で学ぶ必要はない。
《詰め込み授業であろうと、ゆとり授業であろうと、学ぶことが喜びであり,楽しいと感じる子は、一握りのよくできる子たちだけだ。大部分の子どもたちには決して楽しいものではない。かくいう私がそうであった。算数の時間は数字を見るだけで頭が痛くなり、算数の教科書は頭痛の書でしかなかった。長じてあれこれ理屈をひねる幾何学は好きになることができたが、それでも自身は芸術派を任じていた。》
《自身ブログを設けてから、随所に「死ぬまで勉強」と記してきたが、これは学校生活で、教師からは「お前たち勉強しろよ」と五月蝿く言われていたが、聞く耳持たす、学生生活を終えてからその時間が取り返しのつかない空白であることに気がついた反省からだった。敗戦で見えなくなっていた価値観、価値基準、どう生きるのかを見つけねばならなかった。社会に出てから教師の声が耳から,頭から離れなくなってきた。しかし疑問に答えてくれる教師は周りにはもういなかった。それからだった、収入の殆どを書籍の購入に消費する生活が始まった。もともと活字は好きだった、手当り次第に硬軟取り混ぜて読み漁った。哲学、社会心理学、物理学、病理学、経済学、評論集、内外の文学、雑誌類では「世界」や「思想」など。それに戦後のカストリ雑誌もあった。映画も好きだった。キネマ旬報は戦後の再刊第1号から欠かさず何十年も読むことになる。そして次第に購入する書籍の分野、自分を見出す道が見えてきた。失った教師の代わりは読書でしか得る方法がなかった。そして自分なりに考える力を身につけてきた。》
《読書をするほどに社会の矛盾が目についてきた。どんどん左翼への傾斜が始まっていた。前にも書いたが中学時代、京大哲学科出の若い教師が「20歳までにアカにかぶれない奴はバカだ、しかし、40歳過ぎてもかぶれている奴はもっとバカだ」と話した言葉が耳にあった。現在、わたしは半年後には80歳だ。疑うことで生きてきた人生は、赤くはないが、ピンクが染みているだろう。》
玉木 土曜授業には反対か
寺脇 土曜授業は構わないが、平日に無味乾燥な授業をして知識を詰め込んでおいて、同じやり方でさらに詰め込むというのならば反対だ。残念ながら文科省は世の中の圧力に押されて、新学習指導要領に合わせて分厚い教科書を作ってしまった。その教科書を前にして、平日だけだと6割しか教えられないが、土曜にも授業をすれば8割まで教えられるようになるという発想では、授業の深みは増すことはない。
深みを増すためにも、仮に土曜日を使うのならば公開にして、保護者や地域の方々にも見てほしいと思っている。単なる平日の延長ではなく、こんな面白い授業をするために土曜日も活用しているのかとなれば、地域の大人たちも「先生、私も助手をしましょうか」などと申し出てくれるだろう。そうなれば、土曜日に授業することにも意義があるだろう。
《すでに書いたが、土曜日に平日の延長そのままの授業をして何も不都合はない。それに保護者が授業参観にくることを期待するのは無理だ。現在の日本のように家庭内のことまで学校に押し付け、「仕事が忙しい、忙しい」の保護者に期待するのは無い物ねだりに近いことだろう。》
玉木 教師の力によるところが大きい。
有田 子どもたちが自分で考え、おもしろいと思えるような授業をするためには教師が自学自習して力量を高めないとならない。そのための時間と場所を教師に欲しい。
寺脇 全く同感だ。教師には時間や余裕、ゆとりが必要だが、実際はそれに逆行している。教師が背負い込んできたものを地域や家庭が分け合って背負っていければ、余裕が生まれるはずだ。
《「はず」ではただの空論だ。》 おわり。
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