幸せの基準とは
毎日新聞(2/26)から、
《何とも奇妙なことだが幸せに基準などあるのだろうか。国内総性産(GDP)に代わる指標作りを各国が模索しているという。幸せという価値観の数値化などありようもないが、当然のことながら数値化には批判もある。GDPが幸せの基準であるなどとは、自国の国民生活を考えない数値の高い国の独りよがりでしかないだろう。そもそも人間の欲望には上限が存在しない。どこまでも果てしないのが欲望だ。ある点に到達するとそこが原点になり,更にその上への欲望を持つようになりその繰り返しは果てしなく続くことになるのだ。逆には下を見てそこに蠢く集団を確認し、自身の地に安住する。このようにして自らが格差をつくり、階層が生まれる。このように考えるとき、国民の幸福度など平均して「こうだ」とどうして測れるのだろうか。高級カラーテレビの所有台数か、アルコール消費量か、自動車保有台数か、教育費がゼロだからか、税金や福祉、私有財産の有無なのか、何歳まで生きるのかなど、一体何を指標とするのか。》
参照 国民の「幸福感」って 11/01 (各国比較の表あり)
3人の大学教授に意見を聞いてみよう。先ず、一橋大大学院教授:斎藤誠(マクロ経済学)。
♦要約 豊かさの実感には、企業や個人が日本経済が低生産性、高コスト体質で国際競争力に劣る現状を実感し、実力を上げるための地道な努力をしなければならない。同時に、日本全体として時間や資金の配分を企業活動の外側にある個人、家庭、地域などの活動に振り向ける日宇町もある。
政府の財政状況が先進国中最悪となった今では、公的部門だけで豊かさの実感に必要な教育や福祉などを支え切れない。ボランティアやNPOなどの市民活動にもっと労働者が時間を使え、資金も回るようになれば、国民が豊かさを実感できる場も広がるのではないか。
ただ、時間や資金を具体的に何に使えば、幸福感が得られるかは人によって異なる。一人一人が「自分にとっての幸福とは何か」えお真剣に考え、自ら実現していかなければ、国民が豊かさを実感するのは難しいだろう。英仏政府などは「幸福度」の新たな指標作りを進めているが、「お上」が幸福の定義を「下々」に押し付けるのはおかしい。
《押し付けるがおかしいといっても、それぞれの国がそれぞれの国だけで適用可能な物差しが見つけられるのであれば、それはそれでいい。しかし、だからといって、それを国際基準に考えることはナンセンスというほかない。》
次に、明治学院大教授:辻信一(文化人類学)。
♦要約 「GNPより、GNHの方が大事だ」とブータン国王(当時)が言ってから30年余り、今ではGNH(国民層幸福)という言葉がブータン国の基準理念として憲法の中に書き込まれている。それは世界中で宗教のように「信仰」されてきた経済至上主義への痛烈な皮肉であり、批判だ。
「豊かさ」の追究は、貧富の格差、紛争や戦争、環境汚染などの深刻な問題を引き起こし、ついには人類の未来を揺るがすところまできている。日本など先進国の人々には幸せがもたらされたかといえば、必ずしもそうではあるまい。
05年以来6度に亙って訪れたブータンでは、「スローライフ」が健在で、老若男女を問わず人々の幸福度は高そうに見える。豊かな自然、自給型農業、コミュニティーの助け合い、人々が誇りとし、心のよりどころとする伝統文化…………。人々はよく集い、歌い、踊る。子どもたちの楽しげで生き生きとした様子も印象的だ。同じ国で、「豊か」なはずの首都にむしろ問題が集中していて、暮らしづらそうだ。聞けば大抵の問題にはお金が絡んでいる。お金がないことではなく、お金があることが問題なのだ。ブータンは我々にこの問題を突きつけている。「幸せって、なんだっけ?」。
現代の経済学は「人間の欲望は夢幻」という思い込みの上に成り立っている。そして、拡大し続ける欲望を満たすことが幸せであり、そのために限りなく物やサービスを西安市、消費し続ける。それが絶えざる経済成長を可能にする、というストーリーだ。
こういう考えに対しては古今東西の賢人たちが警告を発してきた。「足るを知る」ことの重要性を説き、欲求の暴走を自制することにこそ真の知恵があるとした。
現代の賢人ヘレナ・ノーバーグ=ホッジが今月来日し、映画「幸せの経済学」で彼女は、世界のあちこちに出現しつつある新しい経済の試みを紹介している。それらの実例は、従来の常識とは反対に、地域(ローカル)化によって経済規模が小さくなるほど、人々の幸せ度が増すことを実証している。ヘレナによれば、それはローカル化が繋がりを深めるからだ。人間同士の相互扶助の関係や、人と自然との根源的な繋がりが、甦るのだ。
「上る」だけの人生観や歴史観はすでに破綻している。今求められるのは「降りてゆく」知恵だ。本当の豊かさは、「より速く、より大きく、より多く」ではなく、三つの「S」、スロー・スモール・シンプルで形容される生き方の中に見出されるだろう。そのように我々は幸せへと「降りてゆく」のだ。
《経済学に疎い私には、ブータンのGNPよりGNH説は遠い話、辻の論は旅行記に目を通しているような印象だ。ゆとり教育を失敗と断じた日本で、スローライフ運動がどこまで理解されるのか、注目しておこう。》
3人目、東京大教授:池本幸生(アジア経済論)は、明日につづく。
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