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2011年1月17日 (月)

大学入試

 毎日新聞(1/17)社説 から、《 》内は私見。
 大学入試センター試験を経て受験のピーク時期を迎えた。受験生には今の不況や雇用不安を反映し、地元、資格、理系志向が目立つという。

 一方、今、大学入試のあり方にも目を向けたい。少子化などによる「全入時代」到来で、定員割れの大学も珍しくない。学力試験抜きの選考も多く、入学生の学力をどう確保するかが深刻な問題になっている。解かねばならない。

《日本の大学の学力低下は目に余るものがあるようだ。全入時代とは言葉は悪いが「一握りの大学を除けば、バカでもちょんでも大学生になれる」ということだ。その原因とするところは明確だ。敗戦後、雨後に生える筍のように、行き当たりばたりで次から次に大学と名のつく箱ものを増やしてきたからだ。反面というか、当然というか、経営面からは頭数を集めるために学力の水準は年々下がり続け、行き着くところ大学は学びの場所でなくなり、ただ青春を謳歌するキャンパスライフの場に変わってしまった。増して学校側は頭数を増やすためには朝寝坊学生には自宅へモーニングコールをかけるようなことまでして媚を売るお客さん扱いだ。ここまで学生を客扱いする。結果は就職してもそそくさと辞めていく役立たずの人間を量産するだけだ。》

 これには中央教育審議会などの提起があり、文部科学省の委託で専門家たちが昨年「高大接続テスト」(仮称)導入の具体策を報告した。

 高校の基礎教科・科目の全面に亙り、基本的な達成度を測る共通テストをし、大学教育に接続できる学力を担保する。そういう発想だ。つまり、多くの大学でまず高校レベルの補習をせざるを得ないような現状を、何とか改めたいというものだ。

 戦後の経済成長とともに大学進学率は高まり、入試は学力の「評価」というよりも、小刻みな点差でふるい落とす「選抜」になった。

 学園紛争を経て70年代、知識偏重の入試批判が強まる。79年からの国公立共通一次試験は満遍なく多科目の基礎学力を見るのが主眼だったが、偏差値による学校序列化を招き、90年から私立も加わり、各大学が志願者に対し自由に受験科目を指定できる現行のセンター試験になった。

 同時に高校の多様化によって必修の削減などがあり、入学してくる高校卒業生学力が低下したという指摘が大学側から相次ぐようになる。また「全入」状態だと、一定以上の学力で選抜することも難しい。

 一方で、面接などでたような人材を選ぶためのはずのAO(アドミッション・オフィス)や推薦入試が、学生確保の方便になっているのではないかという批判も多い。08年度に学力試験を経た大学入学者は56%で、私立に限ると5割を切っている。

《増え過ぎたものを減らす知恵は、先ずは「削減」か「淘汰」だが、箱自体を減らす作業は全くといっていいほど放置したままだ。》

 「接続テスト」はこれまでの共通一次やセンター試験に代わるものではなおという。基礎学力達成度を1点刻みではなく幅のあるスコアで示し、大学側は受験者の広い基礎学力を見る資料に活用できる。生徒は複数回これを受けることができ、教師はこれで基礎学力達成へ生徒をリードをする‥‥という構想だ。

 文科省は研究を進めるというが、これをバネに、遅々としてきた入試改革論議を急ぎ進めてはどうか。入試は本来、その後の高等教育につながる力を測るものだったはずだ。

 実りあるものにするため、批判や異論も必要だ。難題も生じ、手間もかかるはずだ。ただ、大学教育の国際標準化などが論じられている中、入試の現状が先送りできない問題であることは明らかだろう。

《現状、中・高生程度で大量卒業してくる大学生を、「高大接続テスト」の導入の効果で、どれだけ減らすことができるのか、先ずは試してみることだ。》

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