シベリア抑留、国による兵の遺棄とは認められない
毎日新聞(1/19)から、
第二次世界大戦後、シベリアに抑留されたのは国の責任として、旧日本兵と遺族の計70人が国に総額6億5000万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が18日、大阪高裁であった。「国による兵の遺棄とは認められない」として、1審・京都地裁判決(09年10月)を支持し、原告の控訴を棄却した。
原告側は「軍上層部は抑留を了承し、ソ連に労務提供をした」と主張。さらに「終戦後も早期帰国させる義務や補償立法を怠った」と訴えていた。判決後会見した林明治・原告団長(86)は「納得できない判決。戦争の生き証人として最後の1人になるまで闘いたい」と述べ、上告する意向を明らかにした。
渡辺裁判長は「抑留はソ連による国際法規違反。ソ連に使役させるため国が兵を遺棄したとは認められない」と判断。救済の不作為についても、「大戦ではほぼすべての国民が深刻な被害を受けた。補償のあり方は国会の裁量に委ねられている」として退けた。シベリア抑留を巡る同種の訴訟は全国で3回あったが、いずれも元抑留者側の敗訴で確定している。
シベリア抑留では、旧日本兵約60万人が最長11年間抑留され、約6万人が死亡したとされる。
現在生存する元抑留者は7万〜8万人と推定され、昨年6月に抑留期間に応じて1人当たり25万〜150万円の特別給付金を支給する特別措置法(シベリア特措法)が成立している。
《日本が中立国を通して降伏を声明したのが1945年8月14日。ソ連は8月16日にはサハリン(当時日本領・南樺太)へ、18日には千島列島へ侵攻、占領した。日本は22日になって樺太、千島に停戦命令を発し、降伏した。同時に16日、大本営は即時停戦を発令、関東軍総司令部は停戦と降伏を決定する。18日には満州帝国が滅亡する。8月19日、東部ソ満国境ハンカ湖の近くで停戦交渉に入り、8月26日ごろにはソ連軍とのすべての戦闘が終わった。
ソ連の行動は、ヤルタ協定で取り交わされたものだったが、後に公開されたヤルタ秘密協定で、アメリカ、イギリスはソ連の対日参戦の見返りとしてサハリン返還、クリル諸島(千島列島)の引き渡し、満州における優先的権利の認定が記されていた。
8月23日、ソ連首相スターリンは、日本軍捕虜50万人のソ連移送と強制労働利用の命令を下した。日本人捕虜は内地への帰還を望んだが、ソ連軍は復員を認めず、すでに離隊していたものも強引に連行した。ソ連は、日本人捕虜を満州の産業施設の工作機械の撤去作業に使役し、 のちにソ連領内に移送された。9月5日、関東軍総司令官山田乙三大将ら関東軍首脳を手始めに、将兵、在満州民間人、満蒙開拓移民団の男性がハバロフスクに集められた。ソ連は捕虜を1000名程度の作業大隊に編成した後、貨車に詰め込んでシベリア(帝政ロシア時代から流刑の地として使用されていた)に移送した。移送された捕虜の人数は、57万5000〜65万或いは70万人といわれ、最高数としては200万人以上との説もある。
スターリンの間、髪を容れない手の打ちようは、米英との密約の後押しとも相俟って敗戦国日本には成すすべのない展開だったと見るのが妥当だ。それは、古今東西、歴史における敗戦国の惨めな結末の例を挙げるのに困らないほどだ。まして当時の日本政府の戦後処理の最大関心事は、国体(天皇)を守ること以上の重大事はなかったのだし、無条件降伏とは戦勝国の言い分には原則一切異議申し立ては致しません、ということでもあったのだ。ただ、大阪高裁の裁判長の「大戦ではほぼ全ての日本国民が深刻な被害を受けたことだから、抑留者が特別なものではない」という意味の発言は、比較してその軽重を問うには妥当なコメントではない、》
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