高校の英語での会話授業、実施率2割足らず
毎日新聞(12/4)から、《 》内は私見。
2013年度から授業中の会話を英語だけに限定することが決まっている高校の教科「オーラルコミュニケーション(OC)」を、10年度に大筋で実施している高校が19・6%(速報値)にとどまっていることが、文部科学省の調査で分かった。07年度の前回調査20・7%を下回る数値で、文科省は約2年後に迫った「英語限定授業」の実施に向けて危機感を強めている。
《私の世代が英語は敵国語として学ばず、英語に盲目なのは当然として、小学校からの英語授業や、高校の授業中は英語以外使えない会話授業までして、英語を学ばなければならない理由が未だに理解できない。英語が使えないと国際人ではない、ような劣等意識をベースにした授業など何の益も無い。サンフランシスコ条約締結の折り、時の総理吉田茂は、駐英大使まで勤めた英語には不自由しない人間でありながら、国連の会議場では堂々と日本古来の巻物状の原稿を、日本語で読み上げた。英語を喋ることができるから国際人とはお笑いのセンスだ。百歩譲ってもいい。高校での会話で取り上げるテーマは何を目的としているのか。まさか、おはよう、こんにちは、わたしの名前は、あなたのお名前は、で済ますつもりか。少なくとも文科省がいう国際人に値するためには、例えば自国の歴史でもいい。対等に海外の人たちと、特に近現代史が話し合える力を持たなければ却って蔑まれるだけで終わるのがおちだろう。》
《しかし、悲しいかな日本の学校教育は自国の歴史を教えないことでは世界でも例がないほどだ。単純な語呂合わせの時系列での事件、人物、出来事は唱えられても、それが日本の歴史のうえでどのような役割を果たし、どのように日本を動かしてきたのかを他国の人と自国語でさえ論じ合えるレベルに到底太刀打ちできないのが実態だろう。大学を出ても小中学レベルが多い現実では多くを求めるのは無理としても、せめて高校英語で何かを学ぶのなら、自国の歴史が語れるぐらいのテーマに取り組んでほしいものだ。》
OCは、英語の文法が理解できても会話が苦手とされる日本の学生のコミュニケーション能力を培うために1994年度から高校で導入された。09年の改定学習指導要領では、更に英会話能力を高めることを目的に「13年度からOCを必須単位とし、授業はすべて英語で行なう」と明記された。
文科省が全国約3600校の公立高校を対象に実施したOCについての調査(国際関係の学科以外)では、07年度の授業を「大半は英語で行なった」が20・7%、「半分以上は英語で行なった」が33/9%だったが、学習要領改定後の10年度の速報値では19・6%と32・8%となり、いずれも前回調査を下回る見込みとなった。
また、OCを担当できる英語力として文科省が設定した「英語検定準一級もしくはTOEIC730点以上など」の資格を持っている教員も、08年度の50・6%から10年度は48・9%に落ち込んだ。文科省はOC英語化を視野に08年、都道府県教育委員会に「英語教諭の採用試験では英語などの成績も考慮すること」との通知を出したが、義務化しなかったこともあり、有資格者が増加する兆しは見えていない。
文科省国際教育課は「13年度からのOC英語化の導入を危惧する声はあるが、学習指導要領は守らなければならない。モデル授業などを通じて英語化と英語教諭の能力向上を進めるよう各教委に要望するしかない」としている。
《卑近な例だが、私たち世代の英語嫌いはさておいて、敗戦後、海外からの映画や音楽(特にジャズは敵国の音楽)の輸入が解禁され、次々に目や耳にする海外の文化から受けるカルチャーショックは現在の若者たちには想像もできないだろう。ジャズもそうだったが,それ以上に私はシャンソンに惹かれた。最初に手にしたのが、当時まだ新人だったジュリエット・グレコのSPレコードだった。蓄音機から流れ出た女性らしからぬ声の魅力に取り憑かれ、どうしても歌詞を原語で歌いたくて、たまらず書店に飛び込み仏語辞典と手引き書を買い求め、フランス語に取り組んだ。外国語なんて学校で習わなくても、興味が湧けば独学でも取りかかる。すでに何度も書いてきたが、真っ先に西洋史の教科書からカルチャーショックを受けたのがギリシャの文化だった。こちらは退職後の楽しみに、現地を踏むためにも、引退時までにギリシャ語を覚えることを心に決めた。実際に退職前5年間、週1で語学学校に学び、現地で死なないで済む程度の力をつけた。》
《必要があればだれでも勉学心は生まれる。日本語もままならない人間が、無理に国際人にならなくてもいいし、なれっこない。》
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