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2010年7月10日 (土)

ドイツで原爆論争 再燃

 毎日新聞(7/9)から、要約と、《 》内は私見。
 ドイツ・ポツダム市で、日本の原子爆弾による被爆者のための追悼碑を建立する計画が持ち上がり、地元紙で賛否の議論が起きているという。
 広島・長崎(1945年8月7日、同8月9日)への原爆投下を了承した米トルーマン大統領(1884〜1972年)の当時の滞在地であった同市の「トルーマン邸」前に被爆者追悼碑を建立する計画だ。原爆投下の過ちを問いかけようとする同市に対して、在住米国人が「原爆投下は戦争終結に重要な役割を果たした」などと論争を挑んでいる。

《米国人の誰もが口にする「原爆投下は戦争終結に重要な役割を果たした」は、別の言い方「原爆投下は終戦を早め、長引けば広がる被害を少なくとどめた」ともいうが、いずれにしても後ろめたさを隠すための詭弁でしかない。原爆投下を遡ること40数日の6月25日、9万人以上の住民、10万人を超す軍人を犠牲にして、沖縄の日本軍守備隊は壊滅していた。日ならずして連合軍は日本本土や東都に攻め入ることは必至の状況にあった。確かに日本は爆弾(科学者以外、日本人の多くがこの爆弾を原子爆弾と知るのはむごい被害の実態が明るみに出た後になってからだった。)の落ちたことであたふたし、終戦に向かって動き出したことは間違いない。》

《原爆について私の考えは次の参照2題ほかで述べた。
 1、久間「しょうがない」辞任 07/07
 2、久間前防衛相「しょうがない」の釈明について 07/08 》

《今、ポツダムの人たちが原爆投下の過ちを問いかけようとすることを、いけないこととは言わないが、殺し合うことを目的とした過去の戦争の価値観を、65年経った現在の価値観で問いかけることは、交わらない論戦となるだけだろう。殺し合うための(少なくとも日本は米・英を鬼畜といい、撃滅、殲滅するまでは止めないといった)戦争に、お互い相手国よりも殺戮効果の優れた武器を使用することは当然のことだった。時が経った現在、第二次大戦での原爆被害、ヴェトナム戦のナパーム弾の被害などから、やっと、一般市民を巻き添えにする地雷、クラスターなどの非人間的兵器の使用禁止運動につながってきたのだ。》

 議論のきっかけは、ターゲス・シュピゲール紙(7月1日付)など2紙に掲載された「ポツダム市は日本の歴史歪曲を助けている」と題する手記が載ったことからだ。筆者の米国人事業家、ロバート・マーキー氏は「日本人は広島の悲劇を訴えることで、自らを犠牲者としている」などと碑建立に反対した。

 同紙は4日付投書欄で、手記に対するベルリンの学者2人の反論も紹介。歴史学者クレプス氏は「米国は核攻撃なしで日本を降伏させられるか、十分調べるべきだった」と米政府の決断を非難。教育学者のガウリッタ氏も「(原爆投下という)野蛮な犯罪を米国が謝罪するのを世界は耳にしたことがあるか?」と原爆を正当化するモラルのなさに疑問を投げかけた。

 碑は地元政治家らの提唱を受け、市が建立を計画。広島から取り寄せた「被爆石」を組み込み、7月25日に完成式が行われる。碑文には、ポツダムにトルーマン大統領が滞在していた45年7月25日、大統領の了承のもと、ワシントンから原爆投下命令が発令された史実などが刻まれている。同大統領は当時、敗戦したドイツの処遇を協議するため当地に滞在し、日本に無条件降伏を求める「ポツダム宣言」もここで米国人同行記者団に発表された。

 紙上論争について、碑建立を推進してきた市当局者は「碑建立は原爆廃絶の呼びかけであり、戦争犯罪の追究から日本人を逃れさせる意図はない」などとしている。

《直接戦争を仕掛けたのは日本からであり、敗戦確実な戦況を無視し、降伏勧告を拒否して「最後の一人になっても戦え」と戦争を継続させたことが、全国への空襲の激化、原爆投下の引き金になったのも事実だ。戦勝国からの戦争犯罪の追究は行われたが、ドイツが自身で行ったような、日本人自身による戦争犯罪の追究は全く行われないままで現在まで来た。》

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