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2010年6月14日 (月)

友だちって本当に必要?

 毎日新聞(6/12)から、要約と 《 》内は私見。
 《海外も含め、小説を読まなくなって久しい。数年前、たまたま新聞記事で目にしたが、若い女性の妙にエロチックな題名の「蛇にピアス」(金原ひとみ)が芥川賞を受賞したことだけは知っていた。ただそれだけのことで読むこともなく終わっていた。その彼女の写真入りでタイトルの内容でのインタビュー記事が載った。》

 ▼東京都文京区の公園で今年5月、中学3年の女子生徒が自ら命を絶った。自宅には「友人がいない」と書かれたノートが残されていたという。友だちをうまくつくれない。そんな悩みを抱え込んだ子どもたちへのメッセージを、不登校を経験した芥川作家の金原ひとみ(26)に語ってもらった。

 私《金原》は小学校の途中から中学を卒業するまで学校に行きませんでした。時間に縛られるのが嫌で、学校自体あまり肌に合わなかったので。中2の時、もしかしたら中学校は面白いかも、と思って4日くらい登校しましたが、やっぱり合わないと思いました。

 毎日同じ時間に同じところに行って、同じ人と肩を並べて皆と同じことをして、っていうのがとても憂鬱なことに思えました。でも、不登校は一般に否定されていることなので、自信たっぷりに私は行かない、と言い張っていたわけではなかったです。

 母は「学校に行かなきゃ仕事に就けない、ロクな人生送れない」と言っていましたが、私は割と楽観的に「そんなことないんじゃない?」と思っていましたね。世間的に褒められるような人生は送れないにしても、自分的に面白い人生は送れるんじゃないかと思っていました。確かに、今の私を見ても、母親はロクな人生をおくっていないという感想を抱くと思います。

 反対に父は「行きたくないなら行かなくていい」と言っていました。「学校に行け」という父だったら行かないという道を選ぶのは難しかったと思います。世間の一般論と家庭内のそれが一致してしまったら、子どもには居場所がなくなってしまう。もちろ親は子どもに対してある種の強制力を持つべきだと思いますが、行きたくない気持ちをはなから否定されるのは、子どもには耐え難いことです。

《子どもの側からの意見はそれでもいいのだろうが、日本国民として、親は子どもに小・中学教育は受けさせる義務を負っているのだ。身体的に、或いは精神発達上、また、苛めや暴力によるなどの理由があれば不登校も選択肢としてあり得るだろうが、子どもの勝手では理由にならない。金原本人も分かっているようだが、私もこれまで機会があれば書いてきた。保護下にある子どもへの親の強制力は必要なものだ。たまたま金原は芥川賞をも受けるほどの大人にはなったが、まだまだ人生はこれからの青二才だ。》

 友だちをつくらなきゃいけない、たくさんいないといけない、というのは一般論です。一般論に身を委ねると生きやすくなるときもありますが、生きづらくなることも多いと思います。身を委ねるかどうかの選択肢は全ての人に与えられるべきだと思いますが、プレッシャーの中で選択肢を見失うこともあります。

《金原の言う一般論とは、それこそ一般的には「常識」というやつだ。その代表が昔からある言葉「竹馬の友」という友だち関係だ。26年生きてきた金原の、友だちがたくさんいることで将来生きづらくなることが多いこと、とはどのようなことを想像してのことだろうか。そして、子どもたちには何を伝えたいのだろうか。》

 私も選択肢を見失って思い詰め、手首をざくざく切っていたときがありました。一般的に自傷行為は悪いこととされていますが、私にとっては思い詰めたときに飲む薬のようなものでした。今思えば、自傷で自分を救っていたのかもしれません。

《私は、自傷行為を悪い以上に莫迦な行為だと思う。金原の言うように、手首を「ざくざく」切れば出血多量で今頃はこの世にいなかったに違いない。事を大げさに表現してみせて同情を呼ぶ魂胆がありありだ。「そんなに辛いことがあったの」「可哀そうに死ぬほど辛かったのね」と。》

 学校に行かなきゃいけない、友だちをつくらなきゃいけない、いい成績を取らなきゃいけない、いい大学に入らなきゃいけない、家族とは仲良くしなきゃいけない、それらはすべて外から押し付けられるルールだと私は思います。

《彼女が列記する・・・しなきゃいけない、でルールなのは最初の『学校(小・中学)に行かなきゃいけない』(親が行かせなきゃいけないのだ)ただ一つだけだ。あとはルールではなく誰も押し付けてもいない、その個人、その本人の選択肢の範疇にあるものだ。これこそ日本人の好きな「皆がするから、言うから」の強迫観念に過ぎないものだ。》

《私が友だちを作る必要を認めないのは金原以上だ。学生時代を通じて友だちと呼べる人間は敢えて持たなかった。軍国少年であった小・中学生時代には既に死について思いを巡らせ、生きるということと死について思索することの多い少年だった。敗戦で一転して価値観を変えさせられ、信ずるもののすべてを見失っていた。同時に信ずるものを失った代わりに疑うことを教えられた。生徒たちに名誉の戦死を教えていた教師は、同じ口で戦勝国の民主主義を説いた。「同期の桜」の友情を学ぶ前のことだった。これ以上の疑うことのないことを学び、それからは、何事をも疑うことで生きることを貫いている。「われ疑う、ゆえにわれあり」と。これが私のブログの立脚点でもある。その後の一生も、友だちを持たないことで不自由したことは何もない。》

 自分にとって重要なことが、本当に学校に行って友だちを作って勉強をして円満な家庭の中で生きていくことなのか、なぜ彼らがそうすべきだと言うのか、彼らは本当に自分のためを思ってそう言っているのか、一度疑ってみることは需要だと思います。過剰に押し付けられるルールは、大抵の場合押しつける側にとって都合のいいルールであるものです、と。

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