続・大学生
80年代以降、義務教育過程で進められた「ゆとり教育」。生きる力の育成を掲げて、従来の学習内容が削減された。「ゆとり世代」にはいくつか定義があるが、今年大学を卒業した新社会人は、高校時代に内容を削減した学習指導要領で学んだ「第一世代」といわれる。今、キャンパスで学ぶ大学生たちはその下の、「ゆとり教育」が更に進んだ世代に重なる。
呉は言う。「ゆとり教育の影響は、大いにありますよ。ただ、文部官僚の言い分にも一理ある。詰め込み教育はいけない、子どもの個性を尊重しろと言ったのはマスコミで、国民の多くがそれに賛成したじゃないか、と。『公僕である自分たちはそれに従うのが当然だった』と言われれば、その点は確かにその通りだよね」
《無責任はマスコミの常だ。思い返しても第2次世界大戦、緒戦の勝利に酔う国民に向けて、一層好戦熱を煽ったのもマスコミだった。「鬼畜米英」「一億一心火の玉だ」「撃ちてし止まん」「欲しがりません勝つまでは」の言葉もマスコミは挙(こぞ)って宣伝したものだ。しかし、敗戦で終わってみれば、その総括もしないまま反省もなく同じ轍を踏む。違った意味でもペンは剣よりも強し、なんだ。》
変化は学力に関してのみ表れたわけではない。プライベートを尊重し、失敗を恐れ、競争を好まない、などと指摘されているゆとり時代の学生気質を、呉は「知的虚栄心がなくなった」と表現した。これは、いわゆる「偏差値の高い」大学の学生にも見られる傾向だという。呉は続ける「僕らの頃は、仲間の間で『この本呼んだか』なんて言う話があると、読んでいないというのが恥ずかしいから、読んだような振りして慌てて買った。それから2、3日で読んで『あれはつまんない本だ』なんて言ったものだった。その裏にあるのは知的好奇心だけど、これが、この10年、20年で学生の間から消えていってる」。70年代ごろまで、大手出版社はこうした知的好奇心に応えるかのように「世界文学全集」「世界の名著」などのシリーズを競うように刊行していた。
今、本格的な全集は殆ど見られず、古典も「超訳」などの、手軽で実用的なスタイルが受けている。隣のテーブルには大学生らしい男女4人組。バイトの話題や、仲間のうわさ話で盛り上がり始めた。
《「超訳」も今に始まったことではない。敗戦後間もなくアメリカから『リーダーズダイジェスト』なる便利な月刊誌が入ってきた。アメリカで、いや世界で話題になっている書物を簡単にダイジェストして読ませるものだ。どんな長い小説でも論文でも、要点を数ページにまとめたものだ。この雑誌のお陰で読みもしない小説や論文を解説し、論評を文字化した著名人も何人もいた噂が流れたこともあった程だ。》
《ご多分に漏れず若い頃、薄給の中から大部分を割いて、片っ端から書物を買って読み漁った。どれだけ身についたか自信はないが、筑摩書房の世界文学全集、難解なサルトル全集、ドストエフスキーにトルストイ全集、アンドレ・ジードにロマン・ローランなど。国内では岩波の古事記から始まる日本思想大系全67巻や日本文学全集に夏目漱石全集などなど。今ある書架には梅原猛全集や美術書が収まっている。》
日本が物質的な豊かさを獲得した結果、社会をどうする、歴史とどうかかわる、というグランドデザインは語られにくくなった。「理想」を求める大きな物語が成立しなくなり、若者の知的エネルギーは、身近な「実務」へと向かった。「実務の時代っていうのは、つまり、金を儲けて何が悪い、っていうことだよね。それも何か寂しくないかい、と思うんだけれども」
「封建主義者」を自認する呉が講じてきた「論語」から引くとすれば -----
〈子曰く、群居終日、言、義に及ばず、好んで小慧を行う。難いかな=衛霊公篇15-17〉(終日仲間で群れていて、話すことといったらつまらぬ世間話ばかり、義についての話など一言も出ない。そのくせ小賢しい知恵だけはすぐ働かせる。全く度し難いことだ)=「現代人の論語」より ---- この辺りだろうか。(記者:井田純)
呉は答える。「いや、それがいいか悪いか一概には言えない。おれたちが学生のころは、たかだか18,19歳の子どもが、一知半解*の知識で、世界と、歴史とかかわりたいと考えた。
* (いっちはんかい)知ることの極めて浅薄なこと。なまわかり。
それによって頭が鍛えられる、ということも確実にあった。けれども、若者が抽象的な理想論を振り回した挙げ句、連合赤軍のように陰惨なことが起きた、とも言えるわけだし」。武装闘争による共産主義革命を目的に71年に結成された連合赤軍。同志へのリンチ殺人で14人が死亡した。全容は72年の浅間山荘事件で組織が壊滅した後、発覚した。
呉も自身も、65年大学入学の全共闘世代である。早大在学中は非セクト系活動家として学生運動に身を投じ、スチライキ闘争に係わって刑事訴追された経歴を持つ。
学生運動の季節は遠く去り、世界では80年代末から社会主義体制の崩壊が続いた。日本ではオウム事件が起きた。理想を追うことへの挫折感が共有され、価値観の相対化が進んだ。これからの大学生は何を目指し、どこに向かうべきなのだろうか。
「大学生へのメッセージ? 難しいねえ。若者気質や大学だけの問題じゃなく、時代全体、社会全体が反映されているわけだから」。大げさに言えば、と前置きして、呉はローマ帝国の崩壊を引き合いに出した。「あの何々帝さえいなければ、という次元の問題じゃなくて、全体が必然的に動いて行くんだよね。今の状況は、社会が豊かになり、ある良識が社会を支配した結果、日本人と日本国全体のメンタリティーの中で起きてきたものだから。簡単に処方箋が出たり、何かのマイナーチェンジで対応できるものじゃない」と言う。
答えは、これからの世代自身の中にある、ということか。
《とはいいながら、携帯とゲームに明け暮れる若者たちを見ていると、何かと虚しさを感じることが多いのだが。》
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