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2010年5月19日 (水)

大学生

 毎日新聞(5/13,4)から、要約と《 》内は私見。
 大学は望めば誰でも入れる全入時代に突入した。学力低下は言うに及ばず、時代の波を受けて、学生気質も様変わりした。社会の未来を担う大学生たちの、現状はどうなっているのか。

 「大学生の学力が低下している、ってそういう言い方は基本的に間違ってる。僕はそう思いますよ」と言うのは、日本私立大学連盟会長でもある白井克彦・早稲田大総長(70)。「人間の能力には、残念ながらある種の差がある。上位1割ぐらいの人はやっぱり相当優れた人たちだが、じゃあ東京大学を出た人が全員、世の中の中枢を占めるのか、というとそんなこともない。現実にはペーパーテストだけで測れない能力や人間の持ち味がいろいろある」。名前さえ書ければ入れるとわれるような大学でも「僕はあった方がいいと思うな。だって、学生が来たいって言うんだから」「大学が果たすべき役割が昔とは全く違ってきているんだ」。もはや、知的エリートや指導者の養成機関とみるのは時代遅れ。単純労働よりも、高等教育を受けた労働者を求める産業界のニーズに応えるのが現在の役割だと言うのだ。

《なんだか狐に摘まれたような論理だ。名前しか書けないような大学生が受ける高等教育、そして卒業できる学問ってどの程度のもの? 企業は大学に通ったって肩書きさえあればそれでいいってこと? それが企業のニーズというわけ? それで単純労働以上の仕事が勤まると言えるわけ?》

 「今の大学生は変わっている」というエピソードもメディアで報じられる。学生食堂で1人で昼食をとることができずに、トイレの個室で食べる「便所飯」。新入生がキャンパスで孤立しないよう、入学前に友だちづくりを目的としたオリエンテーションの機会を設ける大学も珍しくない。

 「確かに今の学生は、昔に比べたらものすごく受け身ですよ。待っていれば、何かいいことが向こうからやって来てくれると思っている。これも大学が変えていかなきゃならないと思うんだよね」。決められたことには真面目に取り組むが、基本的には受け身。こういうところが現代学生気質そのもののようにも読めてしまう。

 一方で、評論家の呉智英(63)の学生評は辛辣だ。「ひところ、大学生なのに分数ができないとか何とかいう話があったけど、今はもうそんなもんじゃない。すごいことが起きている」と語り始めた。「現代大学生論」を伺うと、まず披露してくれたのは、大学教育の現場で呉自身の体験したことだ。

 かつて講義を持っていた愛知県内のある私立大学での話だ。アルファベット26文字を全部書ける学生はゼロ。九九ができないばかりか、それを指摘されるとむくれてしまう女子学生。99年に刊行された宮崎哲弥との対談集「放談の王道」では、講義中に大学生の携帯電話がしきりに鳴ることを嘆いていた呉だが、もうそんな事態ではないらしい。

 講義は「名古屋学」と題した地域文化論。学生には、日付、名前などとともに講義名を記入した出席カードを提出させる。「ところが、何と、『名古屋』の『屋』を書けない学生がいるんだよね。別の字を充てているんじゃなく、『屋』の途中で終わってて、最後の『土』の部分がない。しかも2人も。名古屋の大学で、名古屋学の授業に、なんで『屋』が書けない学生がいるんだっ!」どん、どん、どんどんどん! 勢い込んで叩いた喫茶店のテーブルが揺れ、声のトーンも高くなっていく。

                  ----- つづく

 

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