子どもは減っていくのだろうか?
毎日新聞(1/29)から、《 》内は私見。
先月発表された内閣府の「男女共同参画社会に関する世論調査」*で「結婚しても必ずしも子どもを持つ必要はない」と考える人が42・8%に上り、92年の調査開始以来、最高になった。この結果をどのように受け止めるかを、元お茶の水女子大学長・本田和子(79)に尋ねた。
《 * 私のブログでは、少子化と女たちが子どもを生むことを止めたことによって、遠くない将来の日本は国力が衰え、やがて衰退し国家は消滅するだろう、と書いた。今は、もっと悲観的に中国に吸収されて、一つの州になることだってないことはない、と考える。》
が、本田の考えを聞いてみよう。
▼ある意味、当然の結果だと思います。子どもを産むか産まないかが、国家や家の意思ではなく,夫婦の選択の範囲内になったことが非常に大きい。子どもが労働力だった時代には、たくさんいた方が助けになったし、家名を継承したり、老後の保障のためにも必要だった。第二次世界大戦のころは、国力として多くの子どもが要求され、結婚したら4,5人産むのが当たり前、という規範ができあがっていた。いま、子どもがいなくて困ることがなくなり、家族にとって絶対の存在ではなくなりました。
選択の対象となった時点で、少子化は必然の流れということか。
▼もちろん、子どもを持つことに喜びを感じ、子育てに充実感もあると、2人。3人生む人もいます。でも、子どもを持つことが自分にとってふさわしい生き方かどうか迷うような場合には、産まない選択をする女性も出て来た。高学歴化し、仕事もある程度できるようになり、1人でも生きられるというロールモデルがあると、結婚や出産をためらったり、先送りしたりする人の層が増え、少子化が進んだということでしょう。
少子化は止められないのだろうか。
▼子どもはいなくていい、と若い男女に選択をさせるような状況は、ここ100年くらいかかって形成されて来たと思います。子どもを産むのも育てるのも、女性の肉体的負担が大きく、子どもをたくさん持つのは大変だ、という意識はずっと前からあった。戦前、日本に「産児制限」の相談所ができると、引きも切らず相談者が訪れたという記録があるくらいです。だから、政府があわてて少子化対策を講じても、どんどん産むことにはならないでしょう。
少子化対策は無駄なのか。
▼子どもを増やすこととは関係なく重要です。数が少なく、子ども同士の接触が乏しい中で育つ子どもたちのために、保育所や学童保育はもっと充実させるべきです。経済低支援も必要です。現行の保育や教育計画は、子どもの数が多かった時代のままなので、見直しが必要でしょう。年金などの社会保障も、子どもを増やさないと維持できない、と言うのではなく、少なくなる若い世代に、過剰な負担をかけるような仕組みを改めないといけません。
公園で騒ぐ声をうるさいと感じるのか、滑り台の横に「騒音禁止」と書いてあるのを見かけます。子ども的なことに我慢できず、子ども嫌いの社会になってきていると感じます。そういう社会では子どもは生活しにくいでしょうから、別の意味の少子化対策が必要でしょう。
《ここら当りで本田のいうことに裏付けのないあやふやなものが現れる。社会が子ども嫌いになっているというのは、当たらない。放漫で無責任な育児が愛情と勘違いしている親の下で、何一つ社会規範を身につけない子どもたちが増え過ぎ、ところ構わずの傍若無人な振る舞いに我慢ならない大人たちがいるということだ。「子どもが可哀そう」と言えば何事もまかり通ると思っている親が、多くなり過ぎたこともある。また、本田がいう「別の意味の対策」とは一体何だろう。まさか「騒いではいけない」と注意してくれる人も寄せつけな『親と子の無菌室』でも作れ。ということなのか。》
「子どもはいらない」。そんな社会でいいのか。
▼子どもはいた方がいいと思いますよ。社会に活気が出ますから。子どもが厄介なのは日々変化することです。昨日できなかったことができるようになり、昨日とは違うことを言って、大人の落ち着いた生活をかく乱する。でもそのかく乱がなくなると、老人の世界のように何の刺激も変化もなく、欲求も衰えて、静かに眠るような社会になってしまいます。子どもの存在意義を認め、大人である私たちと共生できるよう、さまざまな支援をすべきです。
《まったく当たり障りのない考えだ。「何の刺激も変化もない」老人とは誰を指しているのだろうか、ご自分のことなのか。老人だって世の中の移り変わりには毎日毎日刺激を受け、変化している。その変化に対応していかなければ残りの年月生きては行けないのだ。親からは、ただ甘やかされ、社会の規律も教えてもらえずに、ただ大きくなっただけの末と思われる犯罪が多発しているのが今の日本の現実だ。
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