首相の伊勢神宮参拝
何するでもなく、紅白も関係なく、初詣にも行かず、録りだめたクラシックのCD化、DVD化三昧に明け暮れるだけで無策に過ごした年末年始であった。小学生の頃、歯の健康優良児であったため、自信過剰で大人になり、日常の手入れも怠りがちだったせいで、今になって虫歯も増え、固い物が噛み砕けず、暮れから通い始めた歯の治療中で、折角のおせちも味気ないものになり、散々な正月を過ごしていた。
さて、正月らしい話題もないままに、ブログが疎かになっていた。そろそろ始めないと・・・・。
毎日新聞(1/5)「なるほドリ」から、要約と《 》私見。
鳩山由紀夫首相が昨年、伊勢神宮(三重県伊勢市)に行った。政権交代前から毎年行っているようだが、決まりなんだろうか。
決まりごとではないが、慣例になっているようだ。戦後初めて伊勢神宮参拝をした首相は、1955年に訪れた鳩山首相の祖父・鳩山一郎だ。佐藤栄作元首相が65年のお正月に参拝してからは、ほぼ毎年歴代の首相が伊勢神宮を参拝している。東海道新幹線が開通したため、東京から日帰りで訪れることができるようになり、他の公務に支障が出にくくなったからだと言われてる。
Q 東京にも神社はいっぱいあるのに、どうして伊勢神宮に?
A 伊勢神宮には皇室の先祖とされる「天照大神(あまてらすおおみかみ)」が祭られており、日本の神社の中で最も格の高い神社とされている。神社の大半が加盟する神社本庁でも、「本宗」という特別な位置づけになっている。また、日本を代表する神社として国民に親しまれ、古くから「お伊勢参り」が盛んだった。国民を代表する首相の参拝先としても、伊勢神宮がふさわしいとの判断もあるようだ。
《内宮や外宮の境内から出土した遺物から、古くからの祭祀の場であったことが推定されているが、現在、内、外と呼ばれる神宮は、元々は別々の祭殿であったろうとの説もある。672年(壬申の乱)の混乱の後、律令国家を目指す日本としても、日本の天皇家にも中国の祖霊廟のような風格のあるものが必要と考えられ、元々の祭祀の場に、祖霊廟、神宮の創建に着手、内宮(690年)、外宮が現在の位置に建立されたとされる。「あまてらすおおみかみ」を祖とすることについては後々明治維新を経て、西洋列強との関係から天皇家格付けの必要性があったものと推量する。そもそも皇室の先祖とされながら明治になるまで、持統天皇(天皇在位、690〜697年「女帝」)の参拝以降、伊勢神宮を全く無視したように参拝はしていないのだ。》
《また、「お伊勢参り」が国民に親しまれていたとの指摘だが、ただのお祭り騒ぎのようなもので、囃し立て、おちゃらかすだけのことで、天皇家の祖とは何の関係もないことだろう。天皇家に近いと言えば、世界遺産にもなった熊野神社の方が余程近しいものだ。熊野への行幸は1090年の白川上皇からと言われているが、彼は9回、後白河上皇に至っては33回の行幸(熊野詣で)を行っているのだ。天皇家が伊勢神宮よりも熊野神社を如何に大切に考えていたか分かろうというものだ。》
Q 参拝は、首相としての仕事なのか
A それは違う。政教分離の観点から、首相の伊勢神宮参拝はあくまで「私人」として行われることになっている。たとえば「玉串料」は公費ではなく、首相のポケットマネーから支払われるなどしている。ただ、例年閣僚を伴って参拝している点などに対し、私人とは言えないとの指摘もある。
Q 同じ神社でも、靖国神社に行くとたくさんの人が抗議するのに、伊勢神宮だとそんなことはないのは
A 小泉純一郎元首相はかつて靖国参拝を批判されたとき、「伊勢神宮はよくて、なぜ靖国はダメなんだ」と開き直った。伊勢神宮についても、政教分離の観点から首相の参拝を批判する声はある。ただ、靖国神社は戦前、国として戦死者をまつり、戦後もA級戦犯が合祀されるなど、特殊な性格を持ち合わせている。だからこそ、首相の参拝に賛否が沸き起るのであって、この点は伊勢神宮には当てはまらない。
《小泉の開き直りは歴史に疎く、ものの道理が理解できない無知からくるもので、怒る気にもならない。》
《正月ついでに。神社や仏閣の参拝客数を競うような数字が発表されるが、例年全国トップの数を誇る明治神宮。300万人以上の善男?善女?が集まる。明治神宮のこと分かっているのかな。私は東京、東京近辺の地でかれこれ半世紀以上生活しているが、そこに行ったのは初めて上京した年に、どんな所なのかと、1度っきり。参拝は勿論、初詣にも行かない。だいたい祭られている明治天皇や后を神とは思っていないからだ。彼は遺言によって京都市伏見に、后であった昭憲皇太后と伏見桃山陵で眠っている。明治天皇は、明治45(1912)年7月30日、后は遅れて大正3(1914)年死去後、ともに神として、大正4(1915)年に工事着工、9年11月1日完成した明治神宮に祀られているのだ。》
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
失礼致しますが、小言こうべい様は政治家が伊勢神宮や明治神宮、そして靖国神社などに参拝することを過剰的に反応し、また、批判的な抵抗感があるように伺い感じられます。しかし、小言こうべい様自身にとっては、戦前・戦時中・戦後と云う昭和の時代に辛い思いの中を生き抜けて今日を過ごされて来た人間である事は若輩者の私自身も理解している限りです。それから、小言こうべい様自身の主観的?立場から重視すれば伊勢神宮や明治神宮等は天皇制との関連性があること確かでしょう!。靖国神社は戦前・戦時中からの軍国主義体制を戦後の今も護持していると連想を持ち続けているのでしょう!。しかしながら、それ所以に大切なことは人間としてこの世に生まれて来た以上は神仏を敬い奉る役目と義務があるからです。それが国家を代表する時世の内閣総理大臣で有ろう!と無かろう!とも、人間の遣るべき行為であり任務にあるでしょう!。それが例え、公的や私的の立場に関係無く…です!。それにですが、様々な人間に各々の見解や感情等の度合いと相違点があるように、小言こうべい様の見解等に対しては否定も肯定もしません!。簡単に申し上げれば、社会全体や全世界的な規模範囲の視野は針の穴よりも小さく狭い事柄に過ぎないからです。つまり早い話しを言えば、鳩ポッポは神社や寺の境内にいるので…!。ところで、失礼なことで恐縮致しますが、小言こうべい様は無神論者でしょうか!?、神仏否定論者でしょうか!?、それとも、何処かの特殊的な宗教団体の信者でしょうか!?。また、ジャーナリストを生業としている御方でしょうか!?。因みに、政治家の政とは、即ち政のマツリゴトは祭事のマツリゴトとは本来としては同質的な意味合いになっているようです。即ち!、古代からの日本は、その祭事のマツリゴトは神や仏を至上最上の存在理念とし、その下で古代の日本の国家的存在である朝廷を統治していたことでしょう!。それにまた、仏教伝来以前の古代の日本には神代の頃より神道と云う日本独自?(古代イスラエルのユダヤ教や古代インドのヒンドゥー教等の様々な外国の大陸方面から色々な古代宗教が伝来し今現在の神道が形成された説?)の宗教理念が既に存在していたことは歴史上の中に認識されています。また、最初の天皇であり天皇の始祖とされ、『古事記』では神倭伊波礼琵古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)と称され、『日本書紀』では神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)と呼ばれている神武天皇自身は古代ユダヤからの渡来された人物説等もあるそうです。因みに、何々の命のミコトの本来の語源は御言葉が転訛し御言のミコトになったようです。即ち、命のミコトとは神の命に於いて神の言葉を伝え治める為の神の代理人的な存在者であったでしょう!。最後に、小言こうべい様に質問致しますが、正月元旦の日に浅草へ初詣に行ったところ、アチラコチラに黄色のプラカードに「キリストは永遠なり!」とか「神は永遠なり!」とか聖書の中に記されている文字等を引用され、その挙げ句に日本古来から歴然として存在する神社仏閣等の神仏を糞味噌のように否定し、まるで、盲信狂信的な要素が人間の様な感じがしました。この様な他の宗このをする人間達に対して、どの様に感じていますか?。社会全体や全世界規模からの視野からすれば滑稽なことでしょうね!。
投稿: 間吊田和志輿為 | 2010年1月 7日 (木) 05時11分
書き込みの文面の中に誤字や脱字等があり誠に申し訳ございません。ところで、私自身の意見としてですが、もし!、政治家が私利私欲の為に形式的な見せ掛けだけで神社仏閣に参拝し、神や仏を自己中心的な価値観だけの道具扱いにしているようで有れば、これこそ神仏を冒涜した行為になるでしょう!。何よりも神仏を政治や経済の道具的存在にしないことだけです!。それに、お正月に神社仏閣に初詣する個々の参拝者は神社行けば神が居られると想い、また、お寺に行けば仏が居られると心の底から想い信ずることによって家内安全・無病息災・商売繁盛などを祈願する為に参拝される風習が日本古来からの伝統行事として受け継がれているでしょう!。それにまた、何処其処の神社には戦犯者が英霊として祀られているから「怪しからん!」と避難中傷する『世間の善人面(ゼンニンヅラ)』をする方達が多く存在していることでしょう!。しかし、初詣に行く参拝者の殆どは誰が祀られて居るのか?と気にする人間は余り少ないと想像出来るでしょう!。つまり、神は神として!、仏は仏として!敬い奉る以外に人間としての心の拠り所を求める為に神社仏閣に参拝する理由があるのでしょう!。小言こうべい様、アレコレと余り神経質にならないことが何よりかと思います。「水は方円の器の如く…」の諺があるように自身の心の在り方や形を方円の水のように物事を丸く納めることが何より大事だからです!。
投稿: 間吊田和志輿為 | 2010年1月 7日 (木) 14時31分
新年のご挨拶有り難うございました。返事が遅くなり申し訳ありませんでした。
早速ですが、ご返事いたします。
その前に、ブログを開いたのは討論をするためではないので今回、これ切りにしたいと思います。
最初にお訊ねの、私が無神論者か、神仏否定論者か、はたまたジャーナリストか?ですが、そのいずれでもありません。全員が揃って誰かの考えと同じなら、それは最早意見ではなくなります。古来日本の「八百万の神」は森羅万象生きとし生けるものを指していると考えています。道ばたの草や目にもとまらないような小さな虫けらにも、或いは世の中が闇と化し、恐れ戦いた日蝕にも、そこに生きて働きかける何者かを訊ね当て、神なるものに辿り着いたのでしょう。私が信じるのは、そのような人間の心の動きです。それを神の仕業と考える人がいることに何の抵抗もありません。次に神仏否定論者か、ですが、否定するということは、そこには否定する対象物の存在を認めて、ということになります。世の中で俗に言う、そのような否定論者ではありません。そしてジャーナリストでは勿論ありません。ただ、神は、一神教、多神教を問わず、信じる人には存在しているのでしょう。そして、そこにお互いの神の優劣を競うことから人類は繰り返し争いや戦争を続け、21世紀の現在も止むことがないのです。
敗戦後、教師の背反(君に忠たれを教えた同じ教師の口から、多感な少年たちに、敵国からの借りものの民主主義が語られたのです。そして又、天皇も自らの口で天皇は神ではなく、同じ人間であること『人間天皇』を宣言したのです。現在の教師たちとは比べようもない価値基準の喪失でした)は、その後の私の人生に“疑うことで生きる”こと以外の生き方を教えてはくれませんでした。私の独断と偏見の拠ってくる基となっているのです。当然ですが、ブログにも、来ては去り、寄っては散る、或いは罵倒で応える人も、いらっしゃいます。
以上で、最後のご質問にも触れたようです。
投稿: 小言こうべい | 2010年1月 7日 (木) 17時03分
小言こうべい様、誠に有り難うございます。貴方様に対しアレコレと伺い訪ねると言うよりも疑い掛けるような質問的な書き込みをしてしまい本当に申し訳ございません。何卒ご容赦下さい。ところで、これは明くまでも私個人の独断的な意見としてですが、今の世の中に生きている人間達の殆どは「灯台下暗し」のようであり、また、「井の中の蛙」のような気が致します。即ち、自己中心的で居ながら自分自身の心の在り方が全く不明瞭で不明確でいることが多く感じます。それにまた、何事に於いても他人事のようで他人任せです。その全ての原因は無関心で無感動でしょう。そうして、その挙げ句には言い逃れをして他人の所為にしてしまうのがアダムとエバの原罪にも似たようなことを今も相変わらずに同じ繰り返しをしてしまうのは呆れるほど仕方が無く感じられるからです。アダムとエバが禁断の樹の果実を食べてしまったことによりエデンの楽園から追放されてしまい、受難の世界の中へと放り出されているのが今の人間達の姿でしょう!。そうしてまた、今の人間達は他人(相手)を避難中傷することによって自身の立場を正当化し自己の主張を維持してしまうでしょう。そのような人間のことを私は『世間の善人』と読んでいるのです。しかし、人間がこの三次元であり現象界であるこの世に肉体を持って生まれ、死を迎える迄の間に自身の心の原因を見詰め直すことがどれだけ出来るか…です。また、何よりなことは、人間の最大の目的であり最終目標は自身の心の中ある霊魂の在処を悟りの境地の中へ入ることにあるでしょう!。つまり、神の国であるエデンの楽園と云う場所に自身の霊魂の依り処に帰ることが肉体を持った人間の役目でしょう!。これは出家者だけでは無く在家者にも是としても同様です。その目標や目的の為に、この現象界である地上の中に太古の時代より世界中に神殿を建造し、古代からの日本には神社仏閣を建立し神や仏の存在を忘れ去ることが無いように様々な宗教が存在していることでしょう!。また、無神論者で有ろうとも神仏否定論者で有ろうとも、自身の生命を創造することも、何より、自身の心臓を自由に動かすことが出来無いように全てに限界があるからです。それにより、この地上にある全ては神が創造し為せる業だからでしょう。また、この世は現象界は物質中心の世界である為、肉眼で確認出来無いモノは対しては信じるだけの価値が無く否定されるでしょう!。その為に仏像を造作して、これが仏様の姿であると信じ込み、その仏像に手を合わせて拝むでしょう。また、十字架の前に膝を付いて神に祈る姿が神への証となることでしょう。しかし、人間本来の姿も神の為せる業によって創造されたモノでしょう!。つまり、人間自身の身体は御神殿であり、自身の心や霊魂そのモノ自体は本来の御神体であり御神霊と云うことが出来るでしょう!。因みとして、殆どの神社の拝殿や神棚などに鏡を供え置かれているでしょう。鏡は天照大御神を象徴されたモノとされている説があるようですが、鏡の本来の意味合いは人(=霊止ヒト)の姿を映し現す為にあるようです。つまり、神社の拝殿や神棚に供え置かれた鏡に礼拝する自身の姿が映し現れることになるので、人間は神に似せた創造の証明となるようです。最後に、神への最大の冒涜は自身の生命を断ち切り霊魂を見失うことになるからです。それに尚、尊厳死も安楽死も同様にです。長文にて澄みません。では心身を大切に!。
投稿: 間吊田和志輿為 | 2010年1月 8日 (金) 21時09分