武道の質とは、
毎日新聞(8/22)から、要約と《 》内は私見。
《気になる記事だ。剣道は世界に門戸を開いているが、オリンピック競技として参加する意志はない、というものだ。ゴルフのようにゲームのようなものまでオリンピック、オリンピックと騒いでいる中で、孤高の高みを目指していくという些か時代錯誤の感なきにしもあらずの趣旨だ。》
全日本剣道連盟は外国に指導者を派遣するなど、積極的に国際化を進めたきた。ただ、目指すのは日本に軸足を置いた「国際的な発展」と表現し、同連盟の井上茂明理事は「剣道の質を変えてまで普及を望んでいない。良い剣道を広めたい。だから、剣道は五輪競技となることを目指さない」と言う。
井上常任理事は「力、スピードを重視した剣道が見受けられるが、力で勝つだけではスポーツとしての剣道になってしまう。正しい技や間合いの取り方、心構えを学んでほしい」と話す。日本が優勝を決めた03年の第12回大会では、整列している日本の選手に向かって対戦相手の韓国の関係者から意義申し立て用の旗が投げつけられるなど、マナーの点でも日本のトップレベルの試合では見られない場面があったという。
剣道が五輪を目指さない理由の一つは、外国の意見が大きくなれば武道の枠を外れてしまう懸念が大きいからだ。全剣連の試合審判規則によると、面、小手、胴、突きの打突きの部位に当たっただけでは一本とならない。充実した気勢と適正な姿勢で、竹刀の打突き部位刃筋が正しく、残心(打った後まで気持ちを緩めない)を取るという条件が揃って有効打突きとなる。
間違った方向に国際化が進めば、剣道としてこれまで守ってきた一本の要素が崩れてしまう。例えば、打突きが不十分でも柔道の「有効」のようなポイント制を求めるケースも想定される。
97年の第10回大会から3度の世界選手権に出場し、第12回大会で主将を務め、現在は警視庁で剣道指導室のコーチを務めている平尾泰(42)は「剣道はスポーツでありながら、武道の枠組を持っている。スポーツはルールの中でいかに勝てるかを考えて戦うが、武道はルールの基本にできるだけ忠実に戦おうとする。本質的な武道の特性を見失わないでほしい」と話す。
《「剣道はスポーツでありながら、武道の枠組を持っている」という枠組って何をいうのだろう。「精神」を別の言葉でいうのだろうか。精神をいうのなら、戦中派としては少し恐ろしいことになる。この「武道」には「武術」を言い換えた頃から、『大和心』や『大和魂』などの精神修養のために、学校の体育教育に「剣道」として採用し、富国強兵の軍国主義に向かう道をつくったものだった》。
《柔道も同じだ。日本には体重別のクラス分けなどはなかったが、1961年に国際柔道連盟が4階級制を導入。当初は「小よく大を倒す」と豪語していた日本だったが、柔道を習った大男の外国人選手には叶わないことが分かった。同じ西洋の剣術のフェンシングについては、ブログでも書いたが、確かに勝ち負けだけを争うルールになっていて、電気が通じたかどうかが勝負の分かれ目になっており、剣先がしなって相手の背後に回り込んで点灯しても勝ち点となる。これでは後ろを突くことになり、西洋にもあったはずの武士道など疾うに失われていると見ていいスポーツになっている。
《井上や平尾が日本の剣道がこのようになるのを嫌がっていても世界のスポーツ界の趨勢、時代の変化に組み込まれて行くだろう。》
平尾が対戦した時から韓国のレベルは高く、何度も日本と決勝戦で接戦を演じたが、徐々に欧米も力をつけ、日本との差が縮まってきたという。「レベルの差は縮まっていても勝って当たり前と思われる。これほど、苦しいものはない。ただ、日本が勝たないと主導権は取れない。剣道の本質、規範を示して勝って世界の剣道界のリーダーとして維持していかないといけない」と話す。
《最後の砦は守らないと、といった悲愴感だろうか。だが、時は宮本武蔵の時代ではない。孤高を極めようとしても自己満足になって孤立しては元も子もない。競技人口も結構揃っているだろう、狭い世界観は捨てて、ゴルフなどより先に五輪に参加すればいい。》
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コメント
何故!?、日本人よりも身体が大きく、体力も強い外国人に空手や柔道を教え、その挙げ句には、日本はオリンピックとか世界選手権大会に参加し、結局は苦戦を虐げられた末の勝敗に左右されてしまいます。また、試合形式のルール内容も外国人選手が優位のルールになっている所為で、日本の選手には殆ど勝ち目の無い大会に参加して、外国人選手のパワーに圧倒され、唖然の顔をした後に「あれは試合じゃ無い!」と抗議をしても、結果的には外国人の審判団の委員に門前払いの様に無視された後のインタビューで悔し涙を流する日本人の選手が「負けは負けですから仕方がありません!」と悔し涙を流している場面をテレビで視たり、また、新聞で読んだことが私に限らず、他の皆さんもあるでしょう!!。最後の柔道の試合ルール内容も多少なりに改善されたようですが、所詮、外国人のパワーの強さには相変わらずにお手上げ状態が今後も続くことでしょう!!。また、前田光世と云う柔道(術)家が南米のブラジルへ単身で柔道(術)を広め、今日のグレイシー柔術と、それに、オランダの金メダルを取ったオリンピックチャンピオンで、柔道界の実力者と言われた有名なウィリアム ルスカと壮絶な試合をしたブラジルの『バルツーズ』(ポントガル語で全有効の総合格闘技のこと。本来は日本古来の柔術が『コンデ コマ』の愛称でブラジルの人達に親しまれていた柔道(術)家の前田光世が広め、その後に、後継者が独自的な改良をして完成された総合格闘技の説とされている)の柔術家のイワン ゴメスが昭和50年代の初期頃に当時のアントニオ猪木が主催者兼取締役社長をしていた新日本プロレスに一時期の間だけ所属し、その当時の初代タイガーマスクの佐山サトル、そして、前田日明・高田延彦・船木誠勝・藤原喜明等と言った若手選手達がイワン ゴメスの試合の戦い方に感銘を受け、当時のアクロバット的やアクション的な試合では無く、『一撃必殺』・『秒殺』等と言った打撃技・足蹴技・間接技・絞抑技等で一瞬の間に勝負が決着してしまう試合が現在ではプロレス以上の大人気となり、去年の北京オリンピックで金メダルを取った石井慧が総合格闘技に転向したことは有名です。その前には、小川直也・吉田秀彦等がいます。それに対して、空手も同様に寸止め形式の試合と相手の選手に実際にダメージを与える実戦形式の試合があります。その試合形式によってルール内容が様々な空手協会の組織がある為に異なっていることは言う迄も無く本当に難しいことでしょう。しかし、それ以上に難題なのは剣道でしょう。最近と言うより、数年以上も前から外国でも剣道の人口が増え、実力的や技術的にも日本人の選手よりも上達しています。剣道の国際試合を色々な国で何度も試合していますが、最近の試合では個人戦や団体戦で日本は優勝を逃しています。またそれに、割合として、日本の剣道人口より海外での剣道の人口の人数が多いことです。特に、剣道は柔道や空手とは全く違い、一番お金が掛かってしまう武道です。柔道や空手の様に道着だけで試合が出来ればよいが、剣道には道着の他に面・胴・小手・垂等の四つの防具を身に付けて試合をしなくては成らないからです。その防具の値段も馬鹿に出来ない値段はします。有段者に成れば、最低でも防具の金額が50万円以上はしています。それに、有段者の殆どは練習用と試合用の防具を持ち、また、試合用の防具は基より、練習用の防具等の管理や手入れも大変で練習用の防具を二つ以上も練習に利用する有段者も中にはいるようです。その為、剣道は柔道や空手とは違って贅沢な武道とされているでしょう。しかし、その反面、剣道は柔道と空手みたいに怪我は余り少ないが、時々、踏み込みをした時にアキレス腱を切ってしまったり、剣道の下手な者と組み手をすると必ず防具の隙間の身体にミミズ腫れや青アザが出来たり、竹刀の手入れをしていないと面を打ち込んだ時に竹刀の竹が割れ、その割れ竹が目に刺さる危険性があるようです。剣道の場合は、年齢層の幅が柔道や空手よりも広く、特に中年以上の年齢層が多いでしょう。最後に、剣道の試合形式(国内の場合)には主審は一人だけで無く主審は三人で副審四人が紅白の旗を持ちながら試合の勝敗を判断をしているでしょう(尚、試合会場や場所によっては主審と副審の人数が異なっているようです)。そ理由については、主審が一人の場合では誤審される可能性があったり、公平な試合が出来ない理由があるからです。また何よりも、そうした問題点を解消する目的として、主審と副審を複数の人数で行っている理由でしょう。但し、剣道の場合は、柔道の『一本勝ち』・『ワザあり』・『有効』・『指導』等と言った判定方法が無く、空手の場合は(空手協会の主旨によって異なる)、『型の演武』の点数評価と板や瓦(セメントブロック)等の『試し割り』と、試合中の『優勢(積極的な印象)』等を如何に審判にアピールをするかの試合形式となるでしょう。しかし、剣道自体が特有の試合形式があります。特に、剣道は『三本勝負』が主に基準で、その内の『二本』を先に先取した方が『勝ち』となる試合形式です。また、本来の剣道の場合は柔道や空手の試合の様に『ワザあり』・『有効』・『指導』・『優勢』等と言った余計で無駄な動きをする必要性が無く、『面』・『小手』・『胴の』の位置(場所)へ正確に打ち込むだけで『三本』の内、どちらかが先に『二本』を先取した方が決定しる迄の間は時間の限定を無制限になるからです。そうした状況を考慮した場合に於いて、国際剣道連盟や全日本剣道連盟等はオリンピックの試合形式の内容に対して疑問点があるので容認することが出来ず、また、オリンピックに対して消極的な立場を考えている理由があるのです。尚、書き込みが長文の為、書き込みの中の箇所に誤字や脱字等があると思いますが何卒ご理解の上お赦し下さいませ。以上。
投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月29日 (土) 07時52分
改めて、剣道の試合内容を説明をしたいと思います。前回の試合形式として、審判員に於いては、主審3名位に副審4名の計7名位で試合が行われると書き込みをしてしまいましたが、全日本剣道連盟が主旨する通常一般的な規定(基準)には、主審1名に副審2~4名位で行われるようです。そして、審判内容については、審判1名だけが試合を立ち合うのでは無く、他の副審も試合内容を主審と同様に紅白の旗を持ちながら同時に主審と一緒に勝敗の判定を行います。その為、正確には(試合大会の指向によって主審員の人数は異なりますが)、主審1名とし、副審が2名無いし4名の計3名、または、5名の奇数の人数によって試合の審判を行うようです。また、試合時間は、全日本剣道連盟の規定を主に基準とし、試合時間を5分間以内で『三本勝負』の試合を行い、その試合時間以内の間に、どちらかの選手が先に『一本』を先取するか、また、『二本』を連取して『勝ち』の判定を受けます。尚、時間以内に両者共に決着が無い場合に於いては3分間の延長戦を行い、それでも勝負の判定が着かない場合には、再延長戦をするか、若しくは、どちらかの選手の正確な『打ち込み』方の試合内容によって、『優勢勝ち』になる判定をする場合があります。但し、団体戦(勝ち抜き戦は別として)の場合に於いて、『引き分け』の判定があります。次に、『剣道の質』について一言だけ申し上げたいと思います。ところで、大正時代の中頃(1920年代)に『高野佐三郎』と言う剣道の創始者と言われ人物が「剣道は神の教えの道なれば、大和心を研く、この技」と謂う教訓を発したことにより、『剣術』が『剣道』と呼ぶ様にに改められた説があるようです(ある説によると『剣道』は江戸時代前期頃、すでに呼ばれていた説もあるそうです)。ところで、太古の昔から続いた『剣術』や『柔術』等の総称名である『武術』が『武道』と呼ばれる様に成ったのは、明治時代の『日清戦争』や『日露戦争』の頃に『富国強兵』を全面的にクローズアップする目的として『武士道精神』を植え付ける為に学校教育の一貫として、『剣術』・『柔術』・『空手術(古式拳法)』等の『武術』を日本全国に奨励したことにより、その『武術』が『武士道』の精神に共通するので、『武士道』が『武道』として、今現在に受け継がれているでしょう。そして、『剣術』の道を極める目的として『剣道』が誕生し、それに、『柔術』の道を極める目的として『柔道』が誕生したのが説のようです。因みとして、『武士道』の原点である『武士』の起源(由来)は、素も素も『武士』は鎌倉時代に成立されたことは日本の歴史の中に証明されているでしょう。しかし、それ以前の『武士』については色々な諸説がありますが、ある一説として、平安時代初期頃に『検非違使(ケビイシ・ケンビイシ)』と言われる当時の律令制度の組織下にあった令外官の一つとされ、役職は主に非違を検察を行い、特に、当時の中央政権の拠点であった京都(朝廷平安京)の治安維持と民政等に所管の任務を担当し、また、その当時の皇族や貴族等の身分階級の人間を警護する下級官職者が『武士』の起源(由来)とされているようです。そして、『武士』の原点とされる『検非遺使』は平安時代中期頃になると中央政権の朝廷からの律令制度により、地方を統治支配をする目的の為に『検非遺使』を全国の地に配置されたようです。そして、鎌倉幕府が成立した時代に、『検非遺使』が『武士』として実権を持つようになり、鎌倉幕府の誕生から江戸幕末の『大政奉還』までの約700有余年間も『武士』の政権が続いたことは歴史の中で証明されているのは云うまでもありません。以上の歴史的観念の立場で考えた場合、明治時代以降に誕生した『武道』の本質は如何にも「天皇を尊重し、国家万民を守護すること」を前提にした勇者的存在と感じ取ることができます。それにより、特にですが、『武道』の中でも『剣道』の現役者や経験者の中には『武士道』の精神を重んじている者が他の『柔道』や『空手』等よりも多く、その為、物事に対して余りにも保守的で、考え方が固縮している頑固者が多いようです。そうした頑固者が全日本剣道連盟や国際剣道連盟等の様々な『連盟』や『協会』と呼ばれる団体に居座り、いつまでも、その上に我が者顔で安具楽をかいている次第です。そして、相変わらず、『戦前』や『戦中』の『軍事教育』の思想を持ち続ける者が今現在も多いだけのことです。オリンピックどころの次元では無いだけです。
投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月30日 (日) 02時59分
誠に申し訳ありません。前々回の書き込みが途中で切れていましたので、その続きを書き込みを致します。途中から。空手の場合は(空手協会の主旨によって異なる)、『型の演武』の点数評価と板や瓦(セメントブロック等)による『試し割り』の割れた枚数と、『組み手』の試合(寸止め、若しくは、直接の打撃)方法で行い勝敗を判定する形式があるでしょう。但し、空手の場合も様々な連盟や協会等が存在しているので試合の形式と審判方法をオリンピック競技で統一することは難点とされています。剣道も同じく、色々な連盟や協会が存在しているので、オリンピックの競技に対して試合形式を一つにすることは難しいでしょう。何故なら、オリンピックの競技自体は欧米諸国と言った西洋を中心にしたスポーツの祭典としているので、日本古来からの伝統として継承されている武道を西洋の伝統的文化を優先したオリンピック競技に改善することは当然として問題にも理由にもも為し得ることが出来ない原因になっているのが現在の日本の武道の在り方でしょう。オリンピック競技の柔道はJUDOになってしまい、空手もKARATEになり、やがては、剣道もKENDOと呼ばれる時代になることでしょう。しかし、もう、すでにKENDOと呼ばれているかも知れません。その所為で、オリンピック競技のJUDOになってしまった日本の柔道が西洋の伝統的文化であるスポーツに及び腰になってしまったことが本当に残念で仕方がありません。以上。
投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月30日 (日) 06時05分