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2009年6月19日 (金)

“お涙ちょうだい”の勝ち、臓器移植法改正

Ascf0031Dscf0033 昨年
 ご近所から頂いた
 アガパンサスの花

参照 続「長期脳死児」(診断後1カ月以上)60人 07/10

 心配していたことが実際に起った。「この子を哀れと思(おぼ)し召して、死んだも同然のあの子を早く料理して下さいな!」が衆院で可決となった。脳死が人の死ではないことは多くの事例で確認されていることを無視した結論だ。ただ、参院でこのような馬鹿げた採決は否決されるのを祈るばかりだ。待つ身も人(いのち)なら逝くのも人(いのち)だ。逝く子の親とてわが子のいのちを勝手に料理していいと、簡単に決める権利はないだろう。そうすれば医師の我がままな自己満足の判断が基準になる危険性が高まっていくことが懸念される。

 毎日新聞(5/19)社説 から、《 》内は私見。
 脳死を人の死とする法案「A案」があっさりと可決された。臓器移植法改正4法案をめぐる衆院本会議の採決に、戸惑いを感じる人は多いのではないか。

《まったくその通りだ。あっけにとられた感がある。前から申し合わせたようなスピード解決だ。報道は以前から、しきりに「救える命」を強調し、「与える命」の側のレポートには比重を掛けて来なかった。常にお涙頂戴ばなしが先行していた。その結果でもあるまいが、かわいそうにかわいそうにが、ろくに議論もしない今回の結論になった。》

 長年たなざらしにされてきた法案である。各案が十分に検討されたとはいえず、議員や国民の間に理解が行き渡っているとは思えない。参院は課題を改めて整理し、議論を尽くしてほしい。

 現行法では、本人と家族の両方の同意がある時に限り、脳死となった人を死者とみなし、臓器を摘出できる。移植を前提とする場合だけ、「脳死は人の死」としたもので、15歳未満の子どもからは臓器摘出できない。

 長い議論を経て成立した法律だが、脳死移植を推進する人々は、現行法の厳しさが臓器提供を妨げていると指摘してきた。小さい臓器を必要とする子どもは国内移植ができず、海外に渡る人も多い。そこへ、世界保健機関(WHO)が国内移植の拡大を求める指針策定の動きを見せたことが法改正の動きを後押しした。

《切り刻む死体が足りないから法改正をするというのなら、議論を尽くしてからすればいい。現行法の精神を踏みにじるような法に作り替えるのは、改正ではなく、全く異なる法を作るのと同じことだ。》

 A案はこの流れに乗ったもので、本人が拒否していなければ家族の同意で提供できる。大人の臓器提供を増やし、子どもの国内移植を可能にすることを目指した内容だ。

《大人には判断の上決められても、A案でいけば、「いのち」が十分理解できない下方制限もない年齢の子に、前持って臓器移植の可否が判断できるのだろうか。ここに懸念される虐待児の危険性も含まれた議論が繰り返されてもきたのだ。》

 ただ、本人同意を条件からはずしたといっても、提供が確実に増えるとは限らない。家族が判断する際には本人の意思を推し量ろうとするはずで、それには前もって脳死や移植について話し合っておく必要があるだろう。これは、現行法の元でも、移植をすすめようと思えば欠かせなかったことだ。しかし、現実には、国民の関心を高める努力は不十分なままだ。

 子どもの場合には、脳死判定の難しさや、親の虐待による脳死を見逃さないようにすっるという課題もある。子どもに限らず、提供者の死因をきちんと確かめる体制を確保しておくことは、脳死移植への信頼性を確保するために不可欠だ。

 親族に優先的に臓器提供できる規定についても、現行法が原則とする「公平性」の変更による弊害はないか。親族の範囲をどう限定するか。さらに慎重に検討すべきだ。

《A案は「本人が親族に優先的に臓器を提供することを、書面で意思表示することを認める」とある。子のため、親のため、妻や夫のためなど、自分の命と引き換えても助けたい最優先の提供が許されないのなら、ただ少量の献血するのではない、なんで他人にいのちが提供できるものか。聖人でもない私には、それほど立派な博愛の精神の持ち合わせはない。》

 現行法にせよ、A案にせよ、生体移植の規定がないことも問題だ。日本で多数実施されている生体移植では、臓器提供者に後遺症が残るなど、不利益が及ぶ場合がある。今は学会レベルの規定があるだけだが、提供者保護は法律で規定すべきではないか。

 移植を待つ患者側はA案を歓迎すると思われるが、脳死移植でも生体移植でも、提供者側への配慮を忘れてはならない。WHOの指針案の全体像を、きちんと把握した上での議論も欠かせない。

《同情論が招いた愚かな決定だ。》

 

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コメント

突然、この場所に出現して誠に失礼します。ところで、『例えば』として、私の意見を述べてみたいと思います。先ず初めにですが、今後に於いて、人間の死の基準が脳機能停止による脳死であるのか、それとも、心臓機能停止による心臓死の二つの『死』の在り方を天秤計量り(テンビンバカリ)に掛けて、脳死や心臓死の人間の臓器を量り売りを勝手にしているようなに感じ方をされる読者も多分いると思います。また、自身の臓器を菩薩行と言う自己犠牲的行為で布施と言う提供をして下さる御方は「博愛と仁愛に満ちた『神仏』(カミホトケ)のような心の持ち主」と社会の風潮から尊敬されるかも知れません。しかし、その人間自身が生存中に本心から自覚が出来る年齢に達していて、常に臓器移植が出来るように日々の健康管理に注意して生活をしなければならないでしょう。そうして、生存中に「もし、自身が突然の脳死か心臓死した場合は自身の臓器を必ず他人の為に提供し再利用して下さい!。」と自らの遺言を臓器移植を希望する医学協会(学会)?と言う組織団体に誓約を提出しなければならないでしょう。でも、移植の出来る臓器自体に対しては、ある程度の年齢的による制限があるようです。その為、臓器提供が出来る一定の年齢制限を超えてしまうと臓器移植が出来なくなるからです。建前論的には臓器提供者は慈善事業のように想われるかも知れませんが、本音論的に申せば、自らの意思で臓器提供をする為に『突然死』や『早死に』を目指して健康管理に注意しながら社会生活をしている愚か者はいないでしょう。それから、話しは変わりますが、脳死状態の幼い子供を持つ親の立場の心情を考えた時に親なら誰でも皆、「我が子が明日の朝になれば眼を開けてくれる!!」と『万が一』の奇蹟を信じ、その奇蹟の為に神や仏に祈り続けながら生命維持装置が取り付かれた脳死状態の幼い我が子を懸命に介護する親の有り様の姿をテレビのドキュメンタリー番組で見た時、何故か深く考え込んでしまったことはありません。それから、脳死状態の幼い子供が、この世に生を受けてベッドに横たわり、心臓の鼓動がしている我が子の姿が目の前にあれば、いつまでも親の手元に置いて上げたいのは人としての『情』でしょう。そのような脳死状態の子供を介護する親達の心情を考えると脳死の認定よりも是として奇蹟を求めながら日々介護していることは言うまでもないでしょう!!。また、それに対し、神や仏をすがる思いで我が子の生命を救う為にも他人からの臓器移植を希望する親も数多く存在しています。それに、臓器移植の内容によっては異なりますが、移植手術には多額の金銭が架かります。その為に全国から善意の人達から募金活動が行われて、その募金活動の多額の金銭で臓器移植の手術を受けられる子供の親は皆無に等しいほどに、ほんの一握りの少人数だけです。最後に、フィクション的な見解として述べてみたいと思います。各々の人間の感情自体は千差万別で社会に対する見方も相違しているでしょう。つまり、例えばの話を致します。ある脳死状態の子供を持つ親が、いつまでも眠り続ける子供の姿を不敏に想い脳死認定をします。そして、その我が子の心臓の臓器を我が子と同じぐらいの年齢の子供の肉体の中に移植して他人の子供の生命を救います。しかし、心臓を提供した親の立場を考えた場合、肉体自体は我が子ではありません。しかしながら、心臓を提供した子供の親が、もし、我が子のように心臓移植された他人の子供を「抱き締めたい!!」と言う親が今後の社会の現象や風潮の中に現れた場合に現在の日本の法律ではどのように配慮するのでしょうか!?。また、現代の物事に対する見方は物質中心の見方です。即ち、唯物主義的な立場を優先にして物事を判断します。心臓と言う臓器自体は単なる物質です。しかし、心臓を動かしている原動力は人間の意思の力では絶対に動かすことは出来ません。その全ては生命の原点である『霊魂』と言う神の産物と、そして、何よりも、神の領域からのエネルギーパワーを霊子線を通して心臓が動いているのです。因みに、霊子線とは神の領域と人間の領域を結ぶ為に存在しているようです。肉眼では全く見ることは出来ませんが、霊視のある人には紫色していて、人間の脳天の中心から、やや左側の位置し心臓に霊子線を通じて生命のエネルギーパワーを送られいるらしいです。そして、人間の寿命は各個人によって異なりますが、長生きしても精々約百才位です。脳死とか心臓死の次元よりも、もっと大事で大切なことは『神』の存在を知ることです。『神』は宗教界だけではなく、様々な世界にも存在していることでしょう!!。医学や科学の中にも。以上、長文にてお許し下さい。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月20日 (土) 04時05分

改めて『脳死』の判断基準の是非について、私の個人的な意見を書き込みたいと思います。ところで、例えばとしてですが、脳機能が完全停止では無く、一時的に停止している状態の『仮脳死?』と言う仮称名があると思います。その『仮脳死?』と『脳死』との判断の見極めをどのようにして行うのでしょうか!?。その全ては医学の独自的な判断だけで決断を下すことが出来るのでしょうか!?。そして、それが『脳死』の状態であるのか?、それとも、『仮脳死?』の状態であるのか?を医師自身による個人的な感情論と言う見込みだけで『脳死』の決定をしたり、また、現代の科学水準の判断によって『脳死』と安易に決め付けるのは余りにも軽率過ぎるでしょう!!。例えば、99%の『脳死』状態であっても、その残りの『仮脳死?』状態に対して、その親や家族関係者なら誰でも残り1%の奇蹟に『希望の光!』を抱いて全てを託すでしょう。この社会の中にひ寝た切り状態の植物人間も数多く存在しているでしょう。ある角度からの見方をすれば『脳死』状態のように想像されるでしょう。でも、それ自体は完全な『脳死』では無いので『脳死』と決定付けることは余りにも危険な判断になるでしょう。また、何よりも危険で安易な問題は、その全てを政治的圧力で結論を急速されることです。『脳死』だけでは無く『尊厳死』の問題点も今後の論点となることは言うまでもないでしょう。また、『脳死の尊厳性』と言う極論に発展し、その全てが政治的圧力と法的な圧力によって『脳死』の判断が今後に於いて勝手に独り歩きして、この社会の中で『強要』されて行く現象を伺い知ることが出来るからです。最後に、これは明くまでも余談ですが、前回の書き込みの中に『神』や『仏』の文字を引用して私の個人的な意見を述べてみました。『神』とか『仏』と云う言葉を用いると読者の中には、この私に対して、何処かの教団に入信していると誤解される方もいるでしょう。しかしながら、私自身は現代の宗教の在り方に対しては否定している一人です。その理由については、『神主体』と『仏主体』の信仰や教義では無く、『人間主体』の御都合主義の信仰と教義になっているからです。即ち、言い方を変えれば、『神自体』と『仏自体』の存在を信じ尊敬していますが、現代の『宗教』の在り方を否定と言うより容認出来ないだけです。また、浅草の三社祭や鳥越祭などの神事祭礼に関しても同様の理由です。釈迦は信じ尊敬しますが、現代の仏教の在り方に対して容認することは出来ません。また、イエス・キリストは信じ尊敬しついますが、現代のキリスト教の在り方に対しても同じです。また、イスラム教やユダヤ教などの在り方も同様です。それ以上の私自身の意見を申せば、仏教以前の仏教・キリスト教以前のキリスト教・イスラム教以前のイスラム教・ユダヤ教以前のユダヤ教などと云う宗教以前の宗教を原点に立ち返ることを希望している者です。『脳死』や『尊厳死』よりも一番大事で大切なことは生命の根源である『霊魂』の存在を認識し、その『神』からの創造産物である『霊魂』によって人間は基より全ての生物が活かされているからです。即ち、『脳死』や『尊厳死』より、生命の根源である『霊魂』の尊厳性を知り再認識することが大事です。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月20日 (土) 15時19分

小言こうべい様へ。貴方様の『世相』に対し、私の勝手な意見や見解を書き込みをして本当に申し訳ございません。また、書き込みの文面の所々に誤字や脱字がありましたことをお詫び致します。誠に澄みません。それから、この『脳死』の題材に対し、宗教論と霊的論などの角度からも説明を致しました。その理由には、『脳死』や『尊厳死』などの『死』と云う観念と概念を政治論・法律論・科学論・物質論などの分野だけで極論を追究することに問題があると思うからです。その為にも、それ以外の分野として、倫理論・宗教論・精神論・霊的論などの角度からも『脳死』や『尊厳死』と云う『死』の在り方に対して、その是非を総合的視野で見詰め考え直す必要性があると私個人的には、そのように思い考え、『神』・『仏』・『霊子線』などの理解不明と感じ取られるような文字や言葉を書き込みの中に引用した次第です。理解の出来る許容範囲で構いませんので何卒お赦し下さい。本当に軽々しく安易な心情で『死』と云う観念や概念を政治的な抑圧や科学的な抑圧だけで法的処置を行うことにより、『脳死』や『尊厳死』などの『死』の認定を定義付けることは人間の身勝手で愚かしさを感じられます。即ち、『生』と『死』は人間が創造出来るような産物で無く、人間が『生』と『死』を管理することも所有する権限も権利が無いことを改めて知って頂きたく存知ます!!。それからまた、もしもの場合として、『脳死』の判断基準に関係無く完全に意識が不明な状態の人間に対しても生命維持の期限を確定する『生命限定論?』と言う言葉が世論の中に注目される時が必ず来るでしょう!!。最後に、霊的論の分野(立場)からの『死』の判断基準は『霊子線』が断絶した時に『死』が確定するようです。因みに、一時的に心肺停止の臨死状態した人間がAED(自動体外式除細動器=automated external defibrillator)などによって心肺臓器の機能の蘇生復活する現象があります。しかし、その場合の原因に於いては『霊子線』が継続状態になっている為とされている理由のようです。また、それに対し、AEDの装置を幾度も試して行って看ても心肺臓器機能の蘇生復活が出来ずに全く助からない場合もあります。その蘇生復活が出来ない場合は『霊子線』が断絶していることになるでしょう!!。ところで、改めて『霊子線』とは、神の領域からのエネルギーパワーを通して心臓の空間にある『霊魂』の存在を動いている説があるようです。現在ね科学に於いて、何故?心臓が動き人間などの動物が地上の中を生活することが可能であるのか?は具体的に解明されていません。それ以上に簡単に解明が出来ないのが科学の限界であり、解明の出来ない現象を否定する唯物論的主張をするのが科学者側の立場となるでしょう。詰まり、『霊子線』とは神の領域と人間や動物などの地上の領域を結ぶ為に存在する『生命の絆のパイプ』と想って下されば良いでしょう。他に、『霊子線』については色々と諸説があるようですが、明くまで私個人の自説論ですので理解出来る範囲内で構いませんので何卒宜しくお願い致します。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月28日 (日) 20時06分

いづれにしても。。。

被虐待児の死因は、いくら調べても正確に把握
しきれることはない。

どんなに懸命に究明しても、莫大な費用をかけ、調査したところで、そこにある真実は、目を覆うしかないような”あるいは?”という心理事実で残され置かれる。

それを、かつて被虐待児であった方々は、みな知っている。そしてまた・・その傷に再び触れる苦痛にも喘ぎ耐えているのである。

 あたかも何事もなかったような、安らかな死に顔の子供は、時にこれでやっと楽になったと
伝えて終われると・・・ある子供の虐待を支えるケースワーカーさんでも、そう漏らす。

 証拠が(見え)なければ。

 判る限度を極め続けて究極何が起きているのかフランケンに聞いてくれと言いたい。

笑う鬼のため人は生まれるのだろうか?

臓器提供を受ける子供は、
優しすぎるのだ。自分の親が嘆き苦しむので。
本当はどっちでもいい!本当はそんな思いまでして痛くて苦しい手術は怖いしもういいのに!

って言いたくとも言えない子供の事を思うと。
さらに耐え難いものがある。

これは子を病んだり、失う『親の辛さのケア対応の不足』を出口として求めなければならないのかも知れないと思います、、。
 

投稿: ハートロード | 2009年7月 1日 (水) 11時56分

「ある晴れた昼下がり、市場へ続く道、荷馬車がゴトゴト子牛を載せてゆく、可愛い子牛、売られてゆくよ、悲しそうな瞳で見ているよ、ドナ・ドナ・ドナ・ドーナード、子牛を載せて、ドナ・ドナ・ドナ・ドーナード、荷馬車が揺れる」の歌詞があります。この歌詞は1938年に『ドナ・ドナ(Dona・Dona)』と言う題名で、元々はイディッシュ語(ユダヤ人の言葉の一種とされ、第二次世界大戦時中に当時のナチス・ドイツから迫害を受けていたユダヤ人達が迫害から逃れる為に日常語であり近代ヘブライ語の代用語?とされる言語が説のようです)で書かれ、作詞者はシェルドン・セクンダと言う人物で現在のベラルーシ国生まれのユダヤ人。作曲者はアーロン・ゼイトリンと言われる人物で現在のウクライナ国生まれのユダヤ人の二人によって作られたようです。そして、この『ドナ・ドナ』が世界的に有名になったのは、アメリカの反戦フォーク女性シンガーと呼ばれていたジョーン・バエズが1960年代頃にリバイバルとして歌われ、その後は日本国内にも知れ渡り、1966年頃に安井かずみ(1939年1月12日~1994年3月17日。神奈川県横浜市出身の作詞家・訳詞家・エッセイスト。加藤和彦の妻)が日本語に訳詞したのが『ドナ・ドナ』の歌詞とされています。そうして、この『ドナ・ドナ』の歌詞本来の内容は第二次世界大戦時中に迫害されていたユダヤ人の子供がナチス・ドイツ強制収容所に連行されて行くときの様子を歌った説があるようです。つまり、子供は仔牛の意味で強制収容所は市場の意味とされているようです。そしてまた、この『ドナ・ドナ』の語源はユダヤ人が信仰しているユダヤ教の『アドナイ(haadonai=主の御名・神《ヤーウェ》の呼び名?)』が語源とされている説があるようです。この主の御名である『アドナイ(haadonai』の『ドナ(dona)』と臓器の提供者を意味する『ドナー(dono・donare)』を何故か連想をさせられるような感じがします。即ち、『脳死』の子供の運命が無理矢理の中で強制収容所と言う提供先の元へと犠牲になり売られ行く姿を想像します。また、人間ほど無情で非情な存在の生き物です。何故なら、人間は牛・豚・鳥・魚などを殺して、その肉類を食べて自己の生命を継続し維持させて生活をしています。つまり、『殺生』と言う犠牲の上に人間は胡座(アグラ)をしながら何事も無いような振りして図々しく生活しているからです。臓器を提供される子供の親や親族は「我が子の命さえ」と言う「身の程知らぬ」感情だけで臓器提供者である『ドナー』が一日でも早く現れ出ることだけを願っている親や親族(提供される側)は『ドナー』である臓器提供する『脳死』の子供の為に一生、否!!、七代に渡って子々孫々へと『供養』しなければ為らないでしょう!!。何故なら、『ドナー』と言う提供者(『脳死』の子供)の肉親や親族の「悲しみや辛さ」を受け継ぐことになるからです。人間は自己本意の感情で他からの献身的な『奉仕』と『提供』をした者の生命の根源である『霊魂』を粗末にしない為と、また、忘れ去ることが無いように『供養』する役目があるでしょう!!。『ドナ・ドナ』の語源とされる『アドナイ』の言う主の御名である神は提供者の『ドナー』のことを皮肉的に連想します。『脳死』の子供の肉親なら誰でも「我が子の命(意識の覚醒)が救われる」ことを主の御名である神にひたすら祈りつづけるのが本当の親の姿であり、腹を痛めて産んだ母親が我自分の子供の生命や存在が一日でも「より永く生きて貰いたい!!」と思い続けるのが親の心の表現であるからです。子供の『不敏』で『哀れ』な姿を目の当たりにする肉親の嘆き苦しむ心情は簡単安易な気持ちで『脳死』の判断を身勝手に認めてしまう馬鹿な親の方が不敏で哀れに思えてしまいます。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年7月 2日 (木) 04時42分

余りにも、現代の医学の在り方は移植手術に拘束し過ぎています。本来の医学の目的は如何なる場合に対しても患者の生命を救助し守ることが道理であり本質です。その為にも今後に於いて、脳死状態や意識不明の患者の意識を元通りに復活させる医療にも技術力を注ぐ必要が絶対にあるはずです。それが、医学の進歩であり、真実の生命医学の在り方であると思い考えています。これは明くまでも、私個人的な意見ですが「そんなに他の生命を犠牲にしてまでも助かりたいのか!?」と思ってしまいます。しかし、現在医学の状況段階が移植の方法に残念ながら片寄り過ぎていることは事実の見方として言うまでもありません!!。人間は誰しもが皆、五体満足に産まれて来て健康に生活をすることが出来れば嬉しく幸福に想うことでしょう!!。その五体である頭・胴体・両腕・両脚の中にある頭の部分だけを死の宣告と勝手にされてしまう屈辱的な判断をすることによって、単純で安易な医学の在り方だけで無く、何よりも生命の根源も本質も無知無能な政治の圧力の介入をすることに対して非情感と無情感が心の中で葛藤しています。そして、これも私個人的な想像事であり、また、予測事ではありますが、このままの状況の在り方で行くと、医学自体の倫理観を踏み弄るような行為、則ち、人智の枠を無視して神の領域の中までを入り込んでしまう無謀な医師が現れるかも知れません!!そのうち、臓器移植手術だけでは無く頭部の移植手術?と言った医療行為が行われる恐れが今後に於いて起こりうる可能性が充分にあるでしょう!!。建前論的には移植手術によって生命の救済と保護をすることにより医学の権威を保持することにあることでしょうが、本音を申せば、明くまでも移植手術は医療実験の段階過程として行われている状況でしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年7月15日 (水) 03時46分

間吊田和志輿為さま

15日のご依頼の対応、遅くなりました。本日、削除が終わりましたのでご連絡します。

ところで、私こと、80歳近い老人の単独でのブログ管理の身です。画面上の小さな字を追いかけるのも一苦労します。今後ともご依頼のお手伝いがお受けできればいいのですが、正直つらいです。今後は同様の作業のご依頼は、申し訳ありませんがお断りをさせて頂きたいと思います。

それは、間吊田和志輿為さんの寄稿の歴史として、ありのままの形で保存させて頂くことにしたいと思うからです。

勝手を言いますが、曲げてご承知下さるようお願いします。

投稿: 小言こうべい | 2009年7月19日 (日) 23時52分

小言こうべい様へ。暑中見舞申し上げます。いつも本当に御心配と御足労を掛けてしまい誠に申し訳無く存じています。また、小言こうべい様の『世相』に対し色々と勝手ながら書き込みをさせております。今後も色々とコメントを書き込みたいと思いますので何卒御容赦と御理解のほど宜しくお願い申し上げます。また、暑い日が続きますので心身ともに御注意して無理などせず頑張って下さいませ。ではいつまでも末永くお元気でいて下さい!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年7月20日 (月) 11時35分

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