遺骨収集
敗戦後もうすぐ65年目が来る。戦死者の、浮かばれないままの命が北の島や南の島々に敗残の遺骨となって取り残されている。日本の、戦後の復興を祈念して命を懸けて戦った戦没者たちだ。
2005年12月1日に最初の遺骨収集(「戦争は終わっていない」)に触れてから、何回か打ち捨てられた兵たちのことに触れてきた。硫黄島については3回(硫黄島、続硫黄島1、続硫黄島2)に亙って、昨年は、戦争はまだ終わってはいない、放置されたままの「英霊」も書いた。
これまでの遺骨収集は、国家事業は別として、戦争で夫や兄弟らを亡くした遺族や生き残ってきた戦友たちが中心となって引き継いできた。日本の近・現代史を教えない学校教育は、若者たちに南の島は新婚旅行や観光の「楽園」にしか映っていない。その彼らが踏むその地には、野ざらしになったままの未だ還らぬ遺骨が埋もれていることなど考えようともしない。
今まで若い世代が収集に触れたのは、上の(戦争はまだ終わってはいない・・「英霊」)でニューギニで遺骨収集団を支えている79歳の男性をレポートしたことぐらいだ。彼(戦後生まれの記者)は英霊が放置されたことへの国家の責任を強く批判した。
【閑話休題】
毎日新聞(3/21)から、《 》内は私見。
アルピニストの野口健さん(35)がNPO法人の一員として、海外戦没者の遺骨収集を始めた。17日からは太平洋戦争の激戦地だったフィリピンのレイテ島で活動し、25日に帰国する。海外戦没者約240万人。約115万柱もの遺骨が今も海外に眠る。野口さんは「国家の犠牲になった人たちの遺骨を野ざらしにはできない」と訴える。
《一口に115万柱といっても分かりにくいが、分かりやすく例えれば、宮崎県内に1人の人間もいないのと同じことだ。宮崎県の人口が115万人、他に115万に満たないところは秋田県の114万人、富山県の103万人から一番少ない鳥取県の60万人まで11県もあるほどの数なのだ。》
7大陸最高峰への世界最年少登頂記録を樹立し、清掃登山などの環境活動で知られる野口さんが、遺骨収集を思い立ったのは4年前だという。ヒマラヤの8000メートル級の「シシャパンマ」山頂近くで遭難しかけた時だった。猛吹雪の中で酸素ボンベが残り少なくなり、テントの裏地に遺書を綴った。死の恐怖に直面した時、旧日本軍の参謀だった祖父から、たびたび聞かされていた海外の戦没者のことが頭に浮かんだ。祖父はビルマ(現ミャンマー)で部下が次々に飢えやマラリアで倒れ、死んでいくのを目の当たりにしたという。
「自分の意思とかかわりなく戦地へ送られ、犠牲になった人の無念さは計り知れない」。衛星電話で「無事に下山できたら遺骨収集を始める」とスタッフに伝えた。
《野口さんのいう無念さについては注釈がいる。当時の日本人戦没者たちは、戦争で死ぬことは無念なことではなかった。死は、軍人ならば靖国神社に神として祀られる名誉なことと信じていた。半世紀以上も経った現在の価値観では、戦争への反省から死が無念と捉えられがちだが、死んだことが無念なのではなく、野ざらしにされた半世紀以上の年月が無念なのだ。》
フィリピンで遺骨の調査・収集を続ける京都市のNPO法人「空援隊」(杉若恵亮理事長)に理事として加わった。昨年3月と10月、セブ島とレイテ島の洞窟では、骨片が足の踏み場もないほど散乱していた。
遺骨調査・収集は厚生労働省が主導し、遺族会やNPOなどの民間団体が担ってきたが、持ち帰りには厚労省の許可が必要だ。約50万人が戦死したフィリピンでこれまでに収集できた遺骨は約13万柱に過ぎない。情報提供は年々少なくなり、厳格な手続きも壁となってきた。厚労省は昨年11月、フィリピンでの遺骨収集に限り、住民の証言だけで持ち帰れるよう手続きを緩和した。
今回の調査・収集には野口さんら空援隊の6人が参加。「遺骨収集は国の事業」が厚労省の建前だが、空援隊は民間主導を訴えている。野口さんは「海外戦没者は国家の犠牲なのに帰国のハードルが高すぎる」と話している。
《有言実行の野口という青年、振り返って自分も少しは見習うべきとは思うが・・、》
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