神奈川と東京の公立高校不正入試
毎日新聞(1/23)から、 要約と 《 》内は私見
神奈川県立神田高校で、入試の成績が合格基準に達した22人を、だらしない服装や態度を理由に不合格としていたことが発覚した。東京都立日本橋高校も、暴力事件を起した生徒の入試得点を改竄(かいざん)し、落としていた。課題を抱えた生徒の集まる「指導困難校」をどう改革すべきだろうか。
同紙は3人(戸田忠雄:政策研究大学院客員教授=教育政策・学校論、水谷修:元横浜市立定時制高校教諭、比嘉昇:特定非営利活動法人・夢街道国際交流子ども館理事長)の有識者の意見を取り上げた。
戸田は、見た目の「ウラ基準」を作るなら公表が必要であった。指導困難校として「見た目」に問題のある生徒を入れたくないのなら、面接も行ない選抜基準に一筆付け加え(社会的相当性があること)公表しておけばよい。その基準に学校の特色や、来てもらいたい生徒へのメッセージを込めるのは、志願制の高校なのだから受験しても不合格とするのも当然のことだ、とした上で、教育に当たる側には、改正学校教育法や関連法令で義務化された「保護者その他の学校関係者による評価」により、教育委員会はこの制度を校長・教員の勤務評定にも活用し、人材の適材適所の配置に努めるべきだ。指導困難校に転勤したがらない現実があるとすれば、そこで成果を上げた校長・教員には何らかの報奨をつければよい。この問題を契機に全国の自治体教委は、校長・教員の評価と人事政策に真剣に取り組んでもらいたい、と述べている。
《戸田は中で次のように触れている。「保護者と生徒による教員評価によって、教師側はより緊張感を持って授業や生徒指導にあたるようになり、生徒の問題行動も減少し学力も向上した」と。改正教育基本法の中の親、生徒による評価については06年11月、そんなこと 出来るの?で、それが無理であること、不可能性を詳しく書いた。ウラ取引の好きな教委、常識も智恵もないモンスターペアレント、甘やかすだけのヘリコプターペアレントに悪ガキが跋扈する世の中だ。ますます荒廃する親世代に公平な相対評価のできよう筈はない。それに教える側の校長・教師の鼻面に、「何らかの」人参をぶら下げて見せ、牙を抜くことを提案するなど、論外なことだ》。
次いで水谷も、両校とも、入学後に問題行動を起こし、生徒指導が大変だと勝手に推測した生徒を、事前に排除したという面では同じだが、やってしまったことは、全く同次元ではない、という。
▽神田高校の場合は、学校の健全化や入学後の生徒指導の困難さをそれまでの事例から判断して、職員会議で学校独自の判定基準として、服装や化粧についての基準を設け、すべての受験者にたいして等しく判定している。これが正しいとはいえないが、教育に対する考え方の問題だ。事前にその理由を公表質していれば、少なくとも問題はなかった、と戸田とほぼ同じだ。
▽一方、日本橋高校の場合は、ある特定の生徒の入学試験の点数を改竄して、不合格にしたものだ。これは、昨年の大分県の教員採用試験での不正合格の事件と同じ公文書偽造という犯罪だ。水谷は、04年までの12年間、横浜の定時制高校2校に勤務していた。在勤時、過去の問題行動や当日の外見、態度を、入試の判定資料としようという教員も管理職もたくさんいた、という。
でも、水谷は加わらなかったし、多くの教員に「過去は過去。少なくとも、受験してくれたこと、その生徒たちをどう育てるかが、自分たちに問われていること」という共通認識があったからだという。問題行動や法に触れることも、刑法事件も少なからず発生したが、教師とともに学ぶことを通じて、一人の人間として成長し巣立って行った。
教育に携わるものが忘れてはいけないことがある。生徒たちがどんなに問題を起こそうと、どんな格好をしようと、その生徒たちが、それまで生きてきた環境やさまざまなつまずきを反映したものだということだ。その生徒たちを育て直すこと、それが本当の教育だ、という。
《奇麗ごとで教育は成功しないだろう。性善説を前提にした考え方で矯正を考えても無理だ。“学級崩壊”は親の責任 06/06で書いたような家庭教育を何一つ受けていない子どもたちが、そのまま成長した姿で受験してくるのだ、遅すぎる。中には水谷がいうように軌道修正が利くものもいようが、掬う指の間から落ちていくものの方が圧倒的に多いだろう。親たちの意識改革がなされない限り繰り返される業(ごう)のようなものだ》。
そして比嘉、彼も性善説を信じ切っているようだ。問題は所詮一過性のものだ、という。異質を拒めば人間らしい感性が磨けないと。素行が少々粗雑だろうが、服装が乱れていようが、成績が芳しくなくても、「ありのままの俺を認めてくれ」「見てくれだけで人を区別せんといてくれ」との意思表示の一つが茶髪であるということだったという。そして特殊なケースの幾つかの例をあげる。
教育委員会に評価される校長は、教員を評価する。校長が教育委員会の動向に敏感になる。教育の場に競争原理が持ち込まれ、異質なものを拒むことで一定の水準を保ちたいとうこともあるだろう。しかし、自分たちの価値観に沿う子どものみを教育することは、ともに学ぶ子どもたちの発達を阻害し、まともな成長を歪めるという。
世間から白眼視されがちな不登校の小中学生が13万人もいるという事実の持つ意味は深く大きい。荒々しい表現であっても「まっとうに生きたい」と叫んでいるヤンチャ坊主たち、家庭に引きこもって登校を拒んでいる子たちの裏腹な想いを本気で丁寧にすくい取る大人たちがもっともっと増えなければならない。とりわけ教員こそが、と結んでいる。
《教師の思い上がりだ。「まっとうに生きたい」と叫ぶ子を救わなければならないのは教師ではないし、大人一般のものたちでもない。叫んでいる子の親であり、それまで放任してきた保護者なのだ。生み落とすだけで、わが子に日本国民として親の義務である小中学教育を受けさせるための家庭内教育の躾けの一つもせず、好き勝手に、野方図に甘えさせてきた結果の問題児であることを、親に自覚させることが教育における最重要なことなのだ。高校を受験する年令になってからでは手遅れだ。「まっとうに生きたい」というのも、甘えて育った彼らの甘えの言葉に過ぎない》。
参照:改正教育基本法成立 06/12/17
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