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2008年11月 3日 (月)

フランク永井死す

 彼が私生活上の問題で首吊り自殺を図り一命を取り留めてから早23年、事件直後の様子から、もうこの世にはいないもの、と思っていたが突如死(10月27日)が報道された。享年76歳、私より1歳若い年齢だ。彼がリハビリに励んでいた様子は今日のテレビで初めて報道された。最近では介助の助けもなく1人で公園をにこやかに周りに挨拶しながら歩いている姿だ。

また、報道によると、そごう百貨店開店のイメージ曲として制作された彼の大ヒット曲“有楽町で逢いましょう”の歌碑が今年7月、有楽町マリオン(元「日劇」跡)前に立てられたという。

私が関西から東京へ東下りしたのは1954(昭和29)年、東京は戦後の復興で沸き返っているころだった。「君の名は」で有名になった数寄屋橋はまだ川に架かっており、傍に建つ朝日新聞社は真っ黒な廃液を垂れ流していた。水質汚濁法が完備される前だ。その頃渋谷〜浅草間(現浅草線、当時は銀座線)以外に、地下鉄が計画され、丸の内線が1957(同32)年12月15日に開業、西銀座駅ができる。続いて1963年日比谷線が開通し、銀座に乗り入れ、銀座線銀座、丸の内線西銀座、日比谷線銀座3駅を総合して今の銀座駅となった。西銀座駅は57年〜63年まで存在した駅名ということになる。

このころ、57年に関西からそごう百貨店が現読売会館(ビックカメラ有楽町店)の場所にそごう有楽町店として進出。原宿も六本木もないころだ。有楽町にできたそうごうは格好の若者の待合場所になった。そごうの出入り口には当時の先端技術の幅広いエアカーテンが付き、外気と建物の中のを遮り、店内への埃や店内の湿度調整をコントロールしていた。そのデート風景を歌ったのがその年のフランク永井のヒット曲“有楽町で逢いましょう”だった。つづいて“西銀座駅前”がヒットする。

現在西銀座駅の名はなくなったが、その当時東京オリンピックに向けて首都高速1号線の建設が進められており、数寄屋川を埋めてその上を高速道がはしることになった。その高速道の下をショッピングセンターに利用し、今に残る西銀座デパートとして西銀座の駅名の名残となっている。

最近はポップスも歌謡曲も女も男も気持ちの悪い裏声ばかりの歌謡界だが、フランク永井の声は謂われるように、低音の魅力だった。といって高音が出ないわけではない。現在の歌い手もどきたちが裏声で出す音域も、フランク永井は問題なく歌えて音楽になっていた。なによりの強みは進駐軍相手に歌っていたポップスの下地があり、そのリズム感は抜群だった。昭和初期の流行歌“君恋し”をジャズアレンジしたものを61年にリリースし、第3回日本レコード大賞を受賞。独特のバイブレーション(後期に目立ったが、半音上げた)が魅力ともなった。メディアによると、71年には芸術祭優秀賞、歌謡曲歌手としては初めての芸術選奨文部大臣賞を受賞している。

数年前に同じく低音の歌手三船浩が世を去り、歌唱力のある歌手が姿を消していく。裏声は美しいヨーデルで聴くことができれば十分だ。特に男なら、バリトン、バスバリトンの歌声で聞きたい。三船浩、フランク永井の歌は手元のレコードやCDで折に触れて聴くことができる。 合掌。

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