戦争はまだ終わってはいない—、 放置されたままの「英霊」
老いの手でブログを開き、2005年5月16日、初めて初稿の“おかあさん”の1文を載せてから、今日で丁度1000件目になった。その間、本文記事のみで21・5万強、マイフォトを含むと30万を超えるカウントを数える方々が寄り道をして下さる幸運に恵まれた。その数は、自身の呼び出しで加算もされるのでほぼ1割は割り引いてとらえる必要はあるのだろうけれど、それにしても恵まれ充実した数年を送ることができた。また、ココログ出版から05年度の掲載分が選ばれて1冊に纏まり、生まれて初めて本を出版するという経験も味わった。これからも老いの一徹で好き勝手なことを文章にして行くことは変わらない。気が向いたおりには再び寄り道して下さることを期待するのみだ。
なお、Googleが、何時のまにかコメントも含めて私のブログを全面英訳したページを用意してくれている。今、日本文で投稿を終えたばかりの記事が、瞬時に英訳されて日本文のこのブログと同じデザインで出来上がっている。積算されるカウントの数字には英語圏、ドイツ語圏、韓国語圏からの閲覧も増えている。心配は、外国語圏からのコメントが飛び込んできた時、全くコミュニケーションができないことだ。
毎日新聞(10/1)から 要約と(《》内は私見)
《先の第2次世界大戦で身内の人間を失ったこともあって、「後に続くぞ」との軍国少年であったからこそ、その反動としての反戦への思いは人一倍強い。失った人は、海軍の軍人として乗り込んだ巡洋艦がフィリピン沖海戦で撃沈されたため、海の藻屑となってその遺骨は戻ってくることはなかった。》
《硫黄島を始め、南の玉砕の島々に置き去りにされた日本軍兵士の遺骨収集に関する記事は何度も取り上げ書いてきた。そして、私がサイパンやグアムなどの南の島々に観光の旅をしない理由もそこにあることを繰り返し書いてきた。》
《そして今回、南太平洋の激戦の島々で国のためにと戦い、力及ばずも戦死した兵士たちの多くが、敗戦の年から数えて63年の歳月を経過しながら未だに日本に帰ることもできず、白骨の残骸になったままで放置された「英霊」がいることを伝えた記者(沢田 猛:東京社会部)のレポートを目にして、再び書かずにはいられなくなった。》
【閑話休題】
戦争体験者が急速に減少する中、「戦争の記録」にこだわるようになった。戦後生まれの私(記者)はここ10年余り、休暇を利用して海外の戦場跡や関係者を訪ねている、今年の夏は太平洋戦争だ最大の激戦地の一つだった赤道直下のニューギニア島に足を運んだ。NPO法人「大平洋戦史館」(岩手県奥州市)によるニューギニア未帰還日本兵遺体捜索調査団に同行、その現状を見てきた。日本軍の相次ぐ玉砕で日本兵の白骨遺体は今なおジャングルに眠っている。置き去りにされた未帰還兵からすれば、戦後はいまなお終わってはいない。
《上にも書いた、「未帰還兵からすれば」だけではない。還らぬわが子、わが夫、許婚を待ちながら、生きて会うこともできないまま、すでに他界した母や妻であった人をも失った遺族のものにとっても、また、海の底深く沈み、遺骨も遺品も戻らない遺族にとっても、彼等が生きている限り戦争はまだ終わってはいないのだ。》
《それにつけても、天皇に名を借りて死地に行くことを命じた最高責任者たちが、なぜ、靖国に祀られることになったのだろうか。》
まず訪ねたのはニューギニア北西の太平洋側に浮かぶビアク島*。島の南部のある遺体収容作業現場には白骨遺体が7カ所に散在していた。
* ビアク島(インドネシア) -- 周囲400キロ、東京都の面積よりやや大きい隆起サンゴの島。敗色濃い日本軍が絶対に確保すべき「絶対国防圏」の最前線の一つだった。米軍上陸は44(昭和19)年5月。日本軍守備隊約1万2000人は死闘の末玉砕、生還者は5%に満たない。いまも1万体以上の日本兵の白骨遺体が放置されているという。
錆びて穴の開いた鉄兜、赤茶けた手投げ弾や歩兵銃の弾丸に混じってセルロイド製の石鹸箱が土の中から出てきた。色褪せたカーキ色の箱の表面には、彫刻刀のようなもので刻み込んだ「岡村貞夫」という文字が読み取れた。
大平洋戦史館の会長理事、岩渕宣輝(67)は「応援部隊として派遣された歩兵219連隊所属の兵士のものとみられる。付近からこの連隊の日本兵の遺品が以前にも出てきた」と話した。
長兄(当時24歳)がビアク島で戦死した理事の田中幸雄(75)は現場に佇み、「私の兄もどこで死んだか正確には分からない。増援部隊もないまま、野垂れ死にした。これが“棄兵”の現実」と語気を強めた。「英霊」とは裏腹に、現地に見る放置遺体のむごい現実がある。
厚生労働省によると、軍人、軍属などの海外戦没者概数は約240万人で、未送還遺骨概数は約115万人。うち遺骨収集対象は約60万人に上る。厚労省の遺骨収集事業は「75年度で計画的遺骨収集は終了。以降は補完的遺骨収集を継続して実施する」(「引き揚げと援護三十年の歩み」厚生省援護局屁編)との方針を打ち出し、この方針は踏襲され、06年以降は、民間団体の協力を得て集中的な遺骨残存情報の収集を行なっているとしている。収集されるべき遺骨がまだ60万人も残されているのにである。
《人の命を使い捨てにしてきた国の責任は、最後まで無責任のままだ。》
ニューギニアは東経141度を境に西半分がインドネシアのパプア州。州都ジャヤプラ(旧ホーランジャ)から西75キロのベラップ村も訪ねた。この村は米軍の上陸で、敗走する日本軍の撤退路の一つだった。米軍との銃撃戦で、多数の日本兵が撃ち殺され埋められた。その発掘確認調査にも立ち会った。面積にして約40平方メートル。大腿骨をはじめ、多くの骨片と銀歯が1本出てきた。そこには現在は鋪装された生活道路が走る。本格的な遺体発掘作業には多額の資金と現地住民の協力が欠かせない。
戦史館は開館後の99年以降、ビアク島やジャヤプラなど西部ニューギニアに放置された日本兵の白骨遺体480人分を収容、厚労省が行なう遺骨収集事業に協力してきたが、民間の努力には限界がある。
一方、ニューギニアで攻防戦を繰り広げた米国の場合はどうか。米国防総省の調査機関「統合戦時捕虜行方不明者司令部」(JPAC)は第二時世界大戦以降、行方不明の米国人の調査を実施。遺体が埋葬されていると思われる世界各地で発掘作業を行ない、確認されれば、遺骨を遺族に返還している。軍人など約400人で構成され、捜索は今も粘り強く続けられている。遺骨収集に戦勝国も敗戦国もない。日本政府も見習うべきではないのか。
《A級の戦争犯罪者を靖国に合祀し、生きて還るなと命じられて戦死した未帰還遺骨の収集を、途中で投げ出した国の責任者が靖国に参拝する。このような国の歴史を知れば、その国を愛する心など生まれようもないのではないか。》
今回の同行取材で岩渕さんが繰り返し訴えたのは「死者の人権」だった。岩渕さんもジャヤプラで戦死した父(当時34歳)を持つ。「死者は還りたくても、帰れない。生きている私たちが捜索に行くしかない。しかし、国の命令で送りだされた兵士を国の事業として最後まで捜索し続けるのが本来のあるべき姿だ。捜索に『時効』はない。
遺骨収集も国が本腰を入れ、継続して取り組むべき戦後処理の一つだと思う。むせ返るジャングルの中で見た白骨遺体からは「早く日本に帰してほしい」という叫びが聞こえてくるようだった、とレポートを結んでいる。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
この2月1日~10日に日本遺族会主催の西部ニューギニア慰霊親善事業があり,参加して、ホーランジャ、サルミ、ビアク島の戦没者慰霊追悼をしてきました。もちろん私も戦争孤児で、父はシアラ地区にて、マラニアもしくは餓死で戦死したものです。当然ですが、遺骨も帰らず、ただ戦死の通知のみが、あっただけと母から聞いています。戦後65年とあまりにも年月が過ぎ、現地に行くと、戦争そのものこの地であったことが信じられないほど風化しております。残された時間が少ないこの時、多くの遺児が、亡き父の元に1度でも行ける様に政府に援助していただけたらと思います。
投稿: 浅野 忠男 | 2010年2月14日 (日) 11時23分