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2008年8月24日 (日)

「いじめを許さない教師の会」 - 2 -

6月5日の毎日新聞の読者欄から
群馬県太田市にお住まいの50歳の男性が次のように書いている。(全文)
『学校でのいじめを、単なる教育問題ととらえるべきではない。
 「被害者を守る目的で、加害者を出席停止にするのは排除の論理であり、教育現場になじまない」とか、「加害者の多くは、まだ成長過程にあるのだから、いじめの原因を探り、教育的、福祉的な対応を優先すべきだ」という意見がある。つまり、加害者を教育によって立ち直らせることを重んじた考え方である。
 学校現場では、この意見が支配的だ。しかし残念ながら、いじめが起こった後、学校を去ることを余儀なくされているのは、加害者ではなく被害者だ。
 加害者への教育に即効性はない。他人の痛みがわかるまでには長い時間が必要だ。その間に、いじめという名の犯罪が放置される。これでは、いじめの被害者は救済されない。』

毎日、読売両紙とも23日に埼玉会館(さいたま市浦和区)で開かれた、小、中、高校の教師らによる「いじめを許さない教師の会」(山県の小学校教師でもある後藤克彦代表、約80人)の初の全国大会(県教委、県PTA連合会など後援)をレポートした。(8/24)

会場は北海道から福岡まで120人以上の教育関係者らで埋まった。後藤代表は冒頭、「教師の言葉がいじめを誘発したり、対応によっては加害者を後押ししているかもしれない」と注意を促し、いじめの予防や対処法を研究するのが会の狙いであることを説明。続いて、いじめられた子を持つ親たちの非営利組織(NPO)「いじめから子供を守ろう!ネットワーク」の代表者が、「いじめられる子は罵詈雑言を受けるうち『自分は生きるに値しない』と一種の洗礼を受け、人格を破壊される」と述べ、「いじめは暴行や名誉毀損にあたる犯罪と認識すべき」と指摘した(読売)。

また、教師が見て見ぬ振りや隠蔽するケースが少なくないことが報告され、「いじめと闘うべきは大人の私たち」など、自戒を込めた声が上がった。いじめを苦にした自殺は後を絶たず、教育現場の課題であり続けている(毎日)。

後半のパネルディスカッションでは、基調講演したジャーナリストの矢部武げ米国で運用されているいじめ防止プログラムを紹介。「いじめの発生と放置は別。発生後の対応が分からない日本の教職員を訓練し、被害者をまず救えるようにしなければ」と訴えた。別のパネリストからは「先生は優しいだけじゃだめ。いじめを止めるために加害者をしっかり叱らないと」との意見も出された(読売)。

出席した男性教師は「弱者を守らなければならないという教育の原点を改めて勉強した」、小学校の女性教師は「子供の中の宝物をなくさないために、私にできる限りのことをしたい」と話した(読売)。

教師像を議論するパネルディスカッションでは、保護者から「学校で善悪の価値判断を明確に教えない風潮がある」と批判も上がっていた(毎日)。

 <私見>
《18日に今回の大会の予定を取り上げた時、教師たちが、「いじめ」をどのように把握しているのかを危惧したことがそのまま表われた。私の見解も投書の男性の側にある。冒頭の読者の言葉は、大会の教師たちの耳には、届きそうにない隔たりがある。投書はいじめの核心を「加害者」と明確に認識してその対策の必要性を指摘しているのだ。ところが教師たちは一体何を考えているのか。目の前にあるいじめの現実に振り回されるだけで、いじめの本質を見ていないのだ。だからいじめの原因に、自分たちの落ち度があるかもしれないとの自虐的な反省の弁が先ずは口から飛び出した。“いじめは犯罪”、とお念仏のように何度繰り返していても「いじめ」の本質を理解していなければ解決はしない。

《カテゴリーを「日記・コラム・つぶやき」としたが、「いじめ」は本質的には「親の責任」に入れるべきだ。ところがこともあろうにその保護者が学校に責任転嫁して、ものの善悪は教師が教えるものと詰め寄る。いってみれば「いじめ」という低次元での善悪は、学校に上げる前に家庭で徹底的に躾けるべきものなのに。この基礎的な家庭教育の喪失が、長じては成人してまでも‘職場でのいじめ’まで引きずることになるのだ。

《投書の男性もいうように、いじめは学校教育の問題ではない。人間の子どもも猿や犬、猫の子も同じ動物の子だ。人間の子だからって、猿や犬と変らない。善悪を理解する能力を持っては生まれて来ない。同じ動物の犬や猫の躾はどうするのか考えてみれば理解も早い。犬の子も悪戯をすれば叱られる。人間の子も保護者から可愛がられ、時に叱られて善悪を学んでいくことができる。ところが現在は、その家庭教育も他人に預けることで目が届かない。他人では厳しい躾は御法度だ。叱責しようものならすぐにモンスターが駆けつける。「いじめ」だ「暴力だ」と。このような親の下で育って善悪の判断が身につくはずはない。

《これまで何度も触れてきた。間違いは叱られて、これはやってはいけないこと、ここまでは許されるんだ、悪戯は諭され叩かれることもあって身の痛さを知ることができる。叩けば相手も痛かろう、と躾は身についていく。現代子育てでは「人格」「人間」が叫ばれ、善悪の判断もつかない子の「動物」の部分が置き去りにされているのが実態だ。母親が甘やかし、優しいだけになった父親も輪をかけて甘やかす。悪戯をしても叱ってもらえない。何が良くて何が悪いのか知りようもない。このように無責任に放置されたまま小学生になり、中学生となっていく。しかし、優しいだけでは子どもは大人にはなれない。自由(とは責任のこと)の窮屈さや、厳しい強制がなければ大人には育たない。

《教師が幾ら時間をかけても、自嘲気味に傷の舐め合をやっているようではいじめはなくならないだろう。現時点ではどうすれば教師たちの気持ちを加害者の保護者たちに伝え、理解させ目覚めさせることが可能なのかを話し合うべきではないか。それと併行して、道のりは遠いだろうが、加害者の親や保護者とならないための家庭教育の重要性を説いていくべきだろう。いじめは学校でも教育の問題でもなく、親の責任であることをしっかり認識させるべきだ。》

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コメント

《加害者の親や保護者とならないための
家庭教育の重要性を説いていくべきだろう。
いじめは学校でも教育の問題でもなく、
親の責任であることをしっかり認識させるべきだ。》

まさしく同感です。
ただ、親がよかれと思ってやっている事でも
子供にとって本当に良いのか?と
常に、子供の気持ちになって考えるように
した方が良いと思います。

でないと、親子の心の交流に、ひずみが生じ、
親の一方的な押し付けでは、子供は心を
開きません。
それこそ、いじめに発展していくと思います。

子供を甘やかすのではなく、子供の気持ちを
聞き、子供の気持ちを考えるのです。

親もかつては子供時代があったのですから、
子供の気持ちは理解しようと思えばできる
のではないでしょうか?

ただ、自分の子供時代と同じ環境ではないの
ですから、「自分は子供時こうだったから」と
いって、子供に同じような事を押し付けるのも
良くないと思います。

子供は、まず自分の気持ちを理解してくれる
大人を信用します。
その信用が芽生えれば、他人に対する思いやりも生じてきます。

子供を思いやりのある人間に育てたいと思うなら、
まず、親が子供の気持ちを理解しようと考える
ことだと思います。

投稿: つぼね | 2008年8月26日 (火) 12時49分

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