「主婦の友」休刊
毎日新聞(5/7)から
91年の歴史を持つ女性雑誌「主婦の友」が休刊する。それも『苦渋の』休刊という。美容から料理、家計、生活情報を提供し、文字通り“主婦の友”であり続けた雑誌の休刊は、一体何を意味するのか。
記事を読んで行けばその理由が時代の世相を写して暗然となる。「主婦という言葉が、もう読者に響かなくなったんです。『新しく生活誌を作り直そう』としても『主婦の友』という看板雑誌がある限り、それに引きずられる。思い切って休刊するしかない、と考えました」かつて同誌の編集長を務めた村田耕一・主婦の友社取締役はそう語る。「苦痛の決断でした」と。
女性とメディアについて研究する諸橋泰樹・フェリス女学院大学教授は「タイトルの変化は時代の前触れ。今回の休刊は『主婦』という言葉の終わりの始まりだと思います」と話す。
1917(大正6)年に創刊された『主婦の友」は、インテリのイメージのある「婦人」に対し、主婦は「おかみさん」的な言葉だった。(中略)戦中、戦後は出版統制を受けるが、46(昭和21)年に復刊。翌年には、男女平等を定めた新憲法が施行。洋服の型紙や付録の家計簿も人気で、69年2月号は戦後最多となる72万8000部を記録した。
「戦後生まれの女性が25歳になり、新しい生き方を模索し始めた。仕事も持ち、電化も進み、洋裁もしなくなるなど、生活も大きく変った」(村田取締役)70年代が曲り角だったという。諸橋さんは「60年前後、『週間女性』など女性週刊誌が誕生しましたが、いずれも『女性』がタイトルでした。婦人や主婦が新鮮さを失い、『女性の時代』が来ていた」と指摘する。米国からの始まったウーマンリブ運動が、70年前後には日本でも広まり、「女は子を産んで一人前」つまり「女はこう生きろ」という考えに女性たちが異議申立てを始める。この時期創刊されたのが「an・an(アンアン)」や「non—no(ノンノ)」。一人旅や女性ヌードを取り上げ、若年女性が自らの人生を楽しむことを応援した。
80年代は、男女雇用機会均等法施行など女性の社会進出がさらに進んだ。4大誌のうち「主婦の友」を除く3誌(婦人倶楽部・主婦と生活・婦人生活)は86〜93年に休刊した。この頃「主婦の友」も10万部を割る状態になっていた。
当時編集長だった村田氏は「80年代は、家庭より仕事、家族より自分だったが、92年以降のバブル経済崩壊でその反動が来た。『家庭もしっかりさせ、家も建てたい。私がしかりしなくちゃ』というような。主婦が再発見されたんです」という。狙いを30代の子持ち主婦に絞り、ファッションから財テクまでと幅広かった内容を「パートタイムをマイペースで続けている人の家事のコツを知りたい!」などの徹底的な実用情報に切り替えた。95年には60万部にまで回復したが、それが限界だった。
得に03年以降減少が大きく、最近は7万部台にまで落ちていた。ノンフィクション作家の沖藤典子(39)は「編集内容はとてもよく、他誌に見劣りしません。なのに休刊とは、やはりタイトルが問題なのでしょう」、「50年代、60年代は、農家や自営業で休日もない女性にとって『主婦』は憧れでした。しかし今や、既婚女性であることを強調する『主婦』に、多くの女性が違和感を感じている。専業主婦、パート主婦、セレブ主婦など多様化もした」と話す。
30代前半の女性の3分の1は未婚だ。子どもを持たない人も増えた。主婦の存在は、性別役割分業と不可分だったが、諸橋は「もはや夫の終身雇用も期待できず、老後のために女性も仕事を持って自分の年金を確保する必要がある。家事を中心にする主婦は減少していくのは間違いない。タイトルが消えて行くのはその前兆」という。
その一方で、既婚、未婚、子持ちか否かを問わない、現代の女性を代表する言葉はまだ生まれていない。「キャリアウーマンという言葉も定着はしていない」(諸橋)。「an・an」から「オレンジページ」まで、代表的な女性誌のタイトルから意味が失われているのは象徴的だ。
沖藤さんは、家族関係をあらわす日本語が機能不全を起している、と指摘する。「例えば『きょうだい』。話し言葉ならいいが、書き言葉になると困ってしまう。姉と弟と妹がいる人も、『兄弟』。主婦の対になる『主人』もそう。女友だちの夫を『ご主人』と呼ぶのはちょっと気が引ける。必要以上に尊敬の意味が入っていて、若い人ほどしくりこない」。さらに「主婦という言葉には、家庭運営の中心人物の意味もあった。今、そういう自覚が失われつつあり、男女を問わず、家庭の中心的人物を尊敬を持って表わす新しい言葉を必死に探すべき時期です。発見できなければ、家庭は崩壊してしまうかも」と話す。
《敗戦後、進歩的を名乗る学者たちによって戦前の価値基準の全てが否定され、家族制度が破壊されて60年以上が過ぎた。民主主義が中途半端に根づいて責任の伴わない自由、無責任、自分勝手が横行している。記事には雑誌のタイトルのことが云々されているが、取り上げられた横文字タイトルにはもともと意味などない。横文字に対する劣等感、耳に響きがよい、語呂もいい、ただそれだけのものでしかなかった。最近では今まで以上に意味のない省略単語がはびこり、常識顔して居座る有り様だ。言葉は変化もし、進化もするものではあるが、時代を写すというその意味では、将に変動しいる最中と言えるのだろう。沖藤は、言葉が見つからなければ家庭は崩壊するかも、というが、それは逆で、現在すでに崩壊された家族制度(ブログで再三再四取り上げてきた)を再構築することで、新しい相応しい言葉は自然に生まれてくると思うのだが間違っているのだろうか。》
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