調査捕鯨って?
毎日新聞(5/2)に読者からの質問に記者が答える「なるほドリ」という欄がある。たまたま私もよく取り上げる(ほぼ10本の記事がある)捕鯨に関する標題の質問と回答が載った。
今度また、宇宙に出かける日本人飛行士のことをテレビでみたが、前回の土井氏のおり書いたように私は、特に宇宙の日本ハウスに興味はない。日本人ばかりではなく、宇宙での長期間滞在中の飛行士たちの排便後の処理をどうしているのか、の方が余程関心がある。
同じように捕鯨問題の記事を書きながら、その“調査”に書かれたことのないある事が常に頭の片隅にあって、気になっていたことがあった。あれほどの大きな動物だ、一体どこでその一生を終えるのだろうか、そして、その死体はどこかで見つかったことがあるのだろうか、ということだ。調査にはくじらの一生は含まれないのだろうか。
迷い込んだ入り江の砂浜で海へ帰ることができず、波打ち際で死ぬくじらの姿は報道で見る事はあるが、一生を無事に終え、或いは病死でもしたくじらは海底深く沈んで、人間の死体がガスを充満させて浮き上がるように、海面に浮かぶことはないのだろうか。以下は記事の全文だ。
【閑話休題】
質問:調査捕鯨ってどんな経緯で始まったの?
回答:国際捕鯨委員会(IWC)が1982年、くじらの保護が必要だとして商業捕鯨を全面的に禁止したのが発端です。ただ、日本など「鯨食文化」を持つ国々は、この決定に反発し、「妥協の産物」として、科学的な資源評価を目的にした調査捕鯨を認めさせたのです。
質問:調査捕鯨が批判されるのはなぜ?
回答:欧州や豪州などの反捕鯨国は「調査に名を借りた商業捕鯨だ」と考えているからです。「知能の高い哺乳類だから殺すな」などと主張する欧米と、「鯨食は伝統文化であり、くじらの資源管理は可能」と反論する日本とは、根本的に考え方が違います。
質問:実際にはどんなことを調べるの?
回答:くじらがどの海域に、どれくらい生息し、何を食べているかなどです。船の上から目で見て生息域を確認するだけではなく、くじらを捕獲し、解体後に耳あかの量や胃の内容物、内蔵の状態などを調べます。耳あかの量からはくじらの年齢が、胃の内容物からはくじらの捕食実態が分かります。さらに内蔵に汚染物質が蓄積されている場合は、海洋汚染の状況を知ることができます。
質問:解体後のくじらはどうなるの?
回答:捕鯨は、大手水産会社の捕鯨部門を統合した民間企業「共同船舶」が担当していて、この会社が全国の卸売市場などに鯨肉を販売しています。06年度に捕獲されたのはミンククジラなど合計859頭。その後、平均1キロ1390円で合計4154トンが販売されました。価格は水産庁が日本鯨類研究所と協議して決め、鯨肉の販売代金は調査捕鯨の費用に充てられます。
質問:やっぱり販売が目的なんじゃないの?
回答:調査捕鯨があるから、日本国内で鯨肉が流通しているのは事実です。しかし、日本は「ミンククジラは増えている。食文化の尊重と水産資源の有効利用は両立する」と訴えています。もし調査捕鯨をやめてしまったら、鯨食そのものが衰え、捕鯨再開の機運が薄れてしまうことを、水産庁は恐れています。(以上)
《アラスカ・エスキモーやデンマーク・グリーンランドなど先住民生存捕鯨として捕鯨が認められているもの、IWC非加盟国のフィリピン・インドネシア・カナダなどの少量の捕鯨を行っている国々とは別に、商業捕鯨を行っている国にノルウェーと06年10月強行に商業捕鯨に踏み切ったアイスランドがある。
日本の場合は調査捕鯨という名目だが、実際は食文化を楯に鯨肉を食するための捕鯨なのだ。敗戦後の食糧難時代、特に底辺の生活を強いられた人々たちには脂身だらけのクジラベーコンでも、食べないよりはましと呼べるほどの食い物であった。しかし、時代は飽食の世を迎え、くじらに代わる肉類は潤沢に食卓に溢れ、現代の日本人にはくじらでなければならない必要性は徐々に薄れつつあるのが実情だ。安くて食べられる肉だった鯨肉も、需給バランスの崩れから今では懐かしさだけで高級肉なみの値がついているのも変な話だ。食文化だけで捕鯨の根拠とするには弱すぎる。過去において欧米が鯨油を取るためだけにくじらを殺戮してきた歴史が存在するにせよ、代わりに牛を屠殺して食する異なる食文化を持つ欧米人とのギャップを埋めるのは至難のことだろう。
どちらも命をもらって人間は生かされていることに変わりはないのだが、くじらが知能が高いというだけで牛は殺してもよい動物に分類される。シーシェパードの捕鯨妨害も論拠はそのようなものだ。そうそう、オーストラリアの増えすぎた野生のカンガルーを殺そうとしたことなど、命の重さに順番でもあるのかと思う。
日本は、鯨肉を食することがなによりも守らなければならない文化なら、調査捕鯨などと臆病な行動など取らないで、正々堂々、真正面から商業捕鯨の再開を宣言すればよい。》
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