世界で活躍する日本のヴィオラ奏者
江藤俊哉の死去の折、彼に学んだ安永徹を取り上げたが、安永がコンサートマスターを務めるベルリンフィルに、もう一人2001年から日本人女性の首席奏者がいることを知らなかった。受け持つパートはヴィオラだ。この楽団が首席に女性を置くことは極めて異例のことだが、彼女が帰国して今月、日本でヴィオラ・リサイタルを開く。その名を清水直子(39)という。
桐朋学園大学で、先ほど亡くなった江藤俊哉にバイオリンを学んだ後、ヴィオラに転向し1993年に修了した。翌94年ドイツに渡り、ドイツ・デトモルト音楽大学に教授として招かれていた今井信子にヴィオラを師事する。
左、ヴァイオリン
右、ヴィオラ
長い間独奏楽器としては無視された存在だったが、近代以降では独奏曲も数多く作られるようになった。
(Wikipedia より)
1996年、ジュネーブ国際コンクールで最高位(1位なし2位)
1997年、ミュンヘン国際音楽コンクールで第1位
その後ソリストとして各国のオーケストラと競演。1年の試用期間を経て2001年2月からベルリン・フィルの首席ビオラ奏者に就く。
ビオラとくれば、清水も教えを受けた今井信子を語らない訳にはいかない。現在世界でも超一流の一人に数えられるヴィオラ奏者だ。06年1月の“小澤征爾”で触れたが、1984年9月『斎藤秀雄先生を偲ぶコンサート』に世界の第1線で活躍する教え子たちが、急遽帰国して、桐朋学園の恩師を忍ぶためのバッハの曲の練習風景をNHKが放映した。当然今井もいた。サイトウ記念オーケストラの母体だ。
今井も最初はヴァイオリンだった。桐朋在学中、アメリカ演奏ツアーで小澤の指揮するボストン響の「ドン・キホーテ」を聴いたことが切っ掛けになりヴィオラに転向する。
1965年、イェール大学大学院に入学
1966年、ジュリアード音楽院に移り、ワルター・トランプラーに師事
1967年、ミュンヘン国際音楽コンクール最高位
1968年、ジュネーブ国際音楽コンクール最高位
1973〜78年、フェルメール弦楽四重奏団で活躍
1978年、ヨーロッパに渡りソリストとしての活動を行う
〜2003年、デトモルト音楽大学教授
その後、アムステルダム音楽院、ジュネーブ音楽院の教授として現在も教育に携わる
1992年からは東京で教育的音楽祭「ヴィオラスペース」を指導、後進の指導に取り組む
1994年、芸術選奨文部大臣賞
1995年、サントリー賞、モービル音楽賞受賞
1995年、東京、ニューヨーク、ロンドン3都市に亙って開催される「インターナショナル・ヒンデミット・ヴィオラ・フェスティバル」の音楽監督を務める
1996年、毎日芸術賞を受賞
ヴィオラはヴァイオリンと比べ、低い音域を出すために全体がひと回りほど大きくなっていて、共鳴箱の容積を多くとるために厚みを増して作られている。ヴァイオリンよりも音域が5度下がりしっとりと艶やかな音色を奏でる。合奏や重奏の中では中音部を受け持つ。
どれくらい前になるか、東京文化会館の小ホールで始めて今井のソロを聴いた。恐らく現在の清水の年齢よりも若かったはずだ。曲目はすべて忘れているが、ヴァイオリンよりも重いヴィオラの音色、それでいて柔らかな情感に包まれた時間を過ごして以来、今井信子の名を忘れたことはない。
世界のヴィオラ奏者はヴァイオリンやチェロのように協奏曲や独奏曲に恵まれていない。そのような環境の中で今井は他の楽器からの編曲作品も積極的に取り上げて演奏し、ヴィオラのレパートリーの開拓に大きく貢献している。
その今井をジュリアード音楽院で指導したのが1997年に亡くなったドイツのヴィオラ奏者、ワルター・トランプラー(82歳)だ。他にも有名な演奏家としてはシュロモ・ミンツやヨゼフ・スーク、ピンカス・ズッカーマンらがいるが、彼らはまたヴァイオリン演奏家としても一流で通っている人たちだ。他にも日本人女性ビオラ奏者には今井に師事するために1978年、英国王立ノーザン音楽大学に留学。在学中に第17回ブタペスト国際音楽コンクールでヴィオラ部門第1位、特別賞を受賞し、翌年ノーザン音楽大学を首席で卒業した井上裕子がいる。また、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で1992年より第1首席奏者を務める波木井賢がいる。
世界にも知られた武満徹の形見ともなったが、Personal Giftとして今井に贈った《鳥が道に降りてきた》。中の14曲の殆どが世界初演となる曲が集められている。バッハの無伴奏チェロ組曲全6曲のヴィオラ版など。
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