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2008年2月17日 (日)

「空気」など読まなくていい

毎日新聞(1/13)から
ここ数年ほどのばか騒ぎの数は減ったようだが、今年の成人式も終わった。このような新成人が、これから社会に出て生きて行くのに必要なのは「(周囲の)空気を読む力」——。セイコーホルディングス(HD)が、成人式を前に、08年に新成人となる全国の男女を対象にしたアンケート調査を行なったが、次のような若者の姿が浮かび上がった。『「空気(K)が読(Y)めない」との言葉をもじった「KY」が流行語となった07年だったが、若者は社会の空気を敏感にとらえ、したたかに生き抜こうとしているようだ』と。

新成人に「社会に出て必要だと思うのは『◯◯力』?」と聞いたところ、
 ▽「洞察(空気を読む)力」・・17・1%
 ▽「忍耐力」・・・・・・・・・10・9%
 ▽「適応力」・・・・・・・・・ 8・9% 
 ほか、だった。

セイコーHDは新成人について、「意外と堅実で、積極的というよりも周囲に同調しやすい傾向があるのではないか」と分析している。

《この程度のまとめでよしとするのなら、わざわざアンケートを取る必要はないだろう。日ごろの若者の言動を見聞きしていれば、空気を読みながら生きていることぐらい分かるというものだ。KYなる言葉が飛び交うことからしても、大勢(たいせい)におもねる風潮は、明確に読み取れる。これは今に始まったことではない。日本人が古来から好む集団心理は空気を読むことから派生し、『付和雷同』となって簡単にメディアの筆先に踊らされてきた。その空気の流れの中で体制や大勢や態勢に従って右に左に揺れながら、連綿と続いている自我を持たない日本人の気質のようなものだ。太平洋戦争で初期の勝利に酔って提灯行列を作って喜んだのも、敗戦の憂き目から昔をすべて悪と断じ、過去の歴史を否定したのも皆、空気を読んだ大勢順応の結果でしかなかった。

それは時代が変っても、現在に続く空気を読むことで出来上がった成人式の、判で捺したような女性たちの和服姿につながるものだ。和服姿には似合わない鬱陶しいだけのぼさぼさの茶髪を積み上げた髪型、顔に掛かるまとまりなく垂らした髪、首に巻く真っ白の肩掛けや襟巻き、など皆が皆、没個性のみっともない姿が出来上がる。これすべて空気を読んだ結果だ。「成人式」とはこのような空気のもの、これ以外の姿で参加することは空気を乱すことになる。空気を読むとは味方が多くいる側に組みするということになる。生きることの自信がないことで、仲間はずれにならないための知恵から出たものだ。先に日本人に多い情けない心根を「付和雷同」と書いたが、そこに到達するまでの空気を読むことに係わる言葉が多くある。曰く、風見鶏、日和見、右顧左眄(うこさべん)、右往左往、以心伝心、目は口ほどにものを言い、腹芸、内股の膏薬などなど次々に出てくる。内股の膏薬といえば、政権を分担して担うことになる前の公明党が左を見、右を見て遂には権力の側におもねる党になったのなんか、空気を読むことのいい例だ。》

ほぼ1ヶ月前、精神科医の斎藤環が毎日新聞(1/13)に書いている。「空気」より「文脈」を読め、と。長いので要約するが、彼は、場の状況や雰囲気を「空気」と呼ぶ表現は、最近のもではない。いまから30年以上も前に出版された山本七平「『空気』の研究」は、まさにこの「空気」を分析して今に通ずる。山本によれば「空気」という表現は明治以前にまで遡れるという。《私は上に書いたように山本よりも古く、遠く古来まで遡ることができると考えている。》

そして、斎藤は、山本が「空気」に支配された結果の歴史的な失敗事例として挙げた「戦艦大和」の特攻出撃で説明する。山本によれば、われわれの判断は常に論理的判断と空気的判断のダブルスタンダードであり、しばしば決断は後者、すなわち「空気が許さない」という判断(太平洋戦争末期、あらゆるデータがその無謀さを示唆していたにも拘わらず、決定に関わったのは戦争を知り尽くしたエリート集団であった。そして、出撃の決定は実に「全体の空気」という曖昧な根拠によってくだされた)にしたがう。山本は「空気」の本質をアニミズム(「空気」主義)に見ていた。空気に逆らえば「抗空気罪」で「村八分」の刑に処せられる。

斎藤は山本の説に付け加えて次のようにいう。「空気」の組成は極めてシンプルである。それは90%の「味方」と10%の「敵(異物)」から成っている。善悪の対立に見えることもあるが、「空気」の本質がいかなる道徳とも無関係であることは「大和」の例が示すとおりだ。この比率が壊れると、いかなる「空気」も雲散霧消する。ひとたびこの組成を感知してしまうと、人は「空気」にとことん縛られる。とりわけ「味方(多数)の側でありたい」という強烈な感覚に。

空気は人を健忘症にする。人は自分がなぜその時、その空気に支配されたか、後になって説明できない。それゆえ「空気」とは無根拠さの別名でもある、と言う。「空気」的判断の問題は、それが常に「与えられた問題」に対する「イエスかノーか」という二者択一でしかあり得ないことだ。空気に感染した瞬間、あらゆる問題は単純化されてしまう。これを繰り返すと、単純な空気を醸成しやすい「問題」設定(ごく最近のスポーツ選手やタレントたちへのバッシング報道など)にしか、人々の関心が向かわなくなってしまう、と。

メディアはそこに偽りの市場原理を見い出し、せっせと「空気」の増幅に勤しむ。これに拍車をかけるのが最近ではインターネットということになる。ネットの特徴でもある過剰な同期生は、かつてない規模での「空気の醸成」を可能にし始めている。先ずは誰もが「空気」感染を免れ得ないことの自覚が必要になる。そのうえで「空気」に対するメタ.ポジション*を確保する必要がある。そのためには「これ以外ありえない」という判断の背景にある「文脈」を理解することだ。

 * メタ・ポジション ‥ 自分と相手を観察できる第三者。自分と相手と第三者‘すべて’を見ることのできるメタ・ポジションの観点。《神経言語プログラミング専門用語:難しいが、神の観点だろうか?》

そして斎藤は次のように結ぶ。「それには成熟だけでは足りない。空気による支配に甘んずることは、成熟による弊害の一つだ。空気よりも文脈を読むためには、敢えて「王様は裸だ」と叫ぶ子どもを演ずるような一種の未熟さが必要なのかもしれない」と。

《私は空気を読んでも多数派の味方に加わったりはしない。疑った上で必ずと言えるほど逆を言い、逆をする。或いはアンチテーゼ**を持ち出す。決して朱には染まらない。だから流行とは無縁で生きてきた。

 ** アンチテーゼ ‥ 命題(テーゼ)に対する矛盾する命題、若しくは、それを否定する命題

今年も成人式の和服と白い襟巻きは終わった。続くバレンタインのチョコレートも終わった。次は何だろう、年の瀬のクリスマスまで人たちはどんな「空気」を読んで過ごすのだろうか。》

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