とんだ失礼をしました
夕刊(毎日(11/6)を見て驚いた。ピアノに向かって座る老ピアニストが写っている。題して「心優しい別世界のピアノ」とある。スコダのピアノ・リサイタルの論評だ。
‘とんだ失礼’とは私の思い違いである。パウル・バドゥラ=スコダ、は疾うに物故したピアニストと思い込んでいた。何故だろうかを考えてみた。バドゥラ=スコダはフルトヴェングラーと重なって知った名前だった。フルトヴェングラーは戦時中ナチスに協力した廉(かど)でニュールンベルク裁判に掛けられたが無罪となり、演奏活動を再開したのが1947年4月。ちょうどその頃、バドゥラ=スコダは1947年のオーストリア音楽賞首位入賞に続いて1948年にはブタペストのベラ・バルトーク賞を獲得した新進気鋭のピアニスト(当時20歳)だった。ザルツブルクの夏期講習会ではフルトヴェングラーともたびたび共演し、当時のモーツアルト演奏の第一人者であった。
そのバドゥラ=スコダ、彼の演奏を録音で知ったのは、もう随分昔の事になる。1977(昭和52)年に出版された国内始めての「フルトヴェングラーの名盤」(芸術現代社:宇野功芳著)にはまだ未発見であった録音盤が、79年に発掘されて市販された。モーツアルトの『2台のピアノのための協奏曲(第10番)変ホ長調、K.365』*と『ピアノ協奏曲第22番変ホ長調、K.482』**のカップリングのLPレコードだった。2曲ともウィーンフィルハーモニーとの共演になるものだ。K365のバドゥラ=スコダとピアノ(第2)を競演したのはダグマール・ベッラなる名前の女性。彼女はこのレコード1枚だけのピアニスト(?)で他にはない。それもそのはずで、彼女はフルトヴェングラーの娘だったのだ。こんなところで何枚もの写真で見る限りは、いかめしい父親像のフルトヴェングラーの親ばか振りが見て取れるとは愉快だが、気鋭のピアニストと競わせた腕は、決して侮れない技術、音楽性で飽きさせないで聴かせてくれる。
* 1949年2月8日。ウィーン・グローサー・ムジークフェラインザール/ウィーン・フィルハーモニー
オールセンの記録ではベッラは第1ピアノとなっている。フルトヴェングラーはこの時のバドゥーラ=スコダの演奏が気に入ったらしく、3年後に共演することになる
** 1952年1月27日。モーツアルト生誕記念/ウィーン・シェーンブルンナー・シュロス劇場/ウィン・フィルハーモニー
フルトヴェングラーと初めて共演した時の様子を後(1975年)にバドゥラ=スコダは書いている。「私がウィルヘルム・フルトヴェングラーと初めて共演したのは、1949年2月8日、ウィーンのグローサー・ムジークフェラインザールでの演奏会だった。曲目はすべてモーツアルトで、フルトヴェングラーの希望により、彼の娘で立派なピアニストであるダグマール・ベッラと、ウィーン出身のもう1人の若いピアニストである私とが、K.365の2台のピアノのための協奏曲を弾くことになった。(中略)われわれ2人のピアニストは申し分なく統一されたスタイルをまとめ上げることができた。フルトヴェングラーは私の演奏を認めてくれ、そのおかげで続いてウィーン・モーツアルト協会による別の演奏会に出演することになった。しかし、この時は実現せず、3年後の1952年に実現したのがモーツアルトのピアノ協奏曲第22番となった。フルトヴェングラー死の2年前のことだ。演奏活動を再開した偉大な指揮者・フルトヴェングラーに望まれてピアノを弾いた新進気鋭のピアニストは、大指揮者の気に入られて、次の共演を依頼されて有頂天になったその時の嬉しさを回想し、書きとめている。
フルトヴェングラーがこの世を去ったのは1954年11月30日。バドゥラ=スコダはたびたび来日し、演奏もしていたようだが何故か私の耳目に触れることがなかった。レコードはCDの世にになったが彼の録音が、80歳を超えてなおベートーベンに挑み続けたアラウのような、華々しい宣伝もないままに、何時の間にか私の記憶からは消えた人になっていた。それが突然目の前に現れたのだから驚いた。アラウのような人は希有の人だ。戦後ぞろぞろと老体を下げて来日してきた音楽家はいたが、無惨な姿を曝すのがおちであった。
今回のバドゥラ=スコダも褒めるのが難しいような論評(大木正純)だ。20歳でバルトーク賞をとった彼も、鋭角的・打楽器的なイメージとは打って変わった、豊かな緩急と音色に溢れるバルトークと評され、ベートーベンも「飄々としたタッチ」になり、バッハはリズムが甘く流れがぎくしゃく、技術的に非の打ちどころないというわけではない。だが、あくせくした俗世間を尻目に、お気に入りの曲を思いのままの流儀で弾くバドゥラ=スコダの姿は、みるからに幸せそう。いまや我が道を行く自由を許された、数少ない名ピアニストのひとりではないか。とは御老体に同情を禁じ得ない、といった論評になったようだ。
いずれにしても、この世にはもういないと信じていたことに対し、深く失礼を詫びておきたい。
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