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2007年9月27日 (木)

纒向(まきむく)遺跡から木製仮面出土

毎日新聞(9/27)から
奈良県桜井市教育委員会は26日、同市内の纒向遺跡から、国内最古の木製仮面(3世紀前半)が出土したと発表した。縄文時代の土製仮面は確認されているが、弥生・古墳時代は、土製を含め仮面の実物がない。同遺跡は邪馬台国の最有力候補地で、仮面の時期は卑弥呼の時代にも合致。市教委は、当時の日本の中心地である遺跡の農耕祭祀の実態を示す、貴重な発見としている。

《考古学の世界では珍しいことではないが、何か発見があると、先入見から、我田引水の恣意的な権威づけをしたがる傾向がある。特に今度のように纒向遺跡からの出土となれば、土地柄からも「邪馬台国」を九州説を意識した大和と結び付けて大向こう受けを狙った発表になる。そして、市教委のように無理にも卑弥呼の名前までも利用することになる。記事を読む人の頭にはすんなりと邪馬台国、卑弥呼がインプットされる。

だが、邪馬台国が大和であることの確証は未だにないのだ。1986(昭和61)年から3カ年の計画で実施された工業団地開発に伴う文化財発掘調査によって発見された九州・佐賀県の吉野ケ里遺跡こそ卑弥呼の国、邪馬台国である、との説が有力になってもいるのだ。

それには学術的にも裏付けがあり、『魏志倭人伝』では邪馬(臺)台国とは何処にも書かれてはいない。邪馬壹(壱)国とすべて壹(いち)で書かれているのだ。我が国で邪馬台国を最初に研究対象にしたのは新井白石で、当初邪馬台国は大和であるとしながらも、後には筑後の国とする九州説に転じたりしており(逆に九州説から大和説の意見もある)、今に続く論争の火種を作った張本人なのだ。

続いて後世の人間が金科玉条とたてまつることになる本居宣長が主張する説が出て、ご無理ご尤もで反論することがタブーとまでなるようになる。彼は魏志倭人伝を信用せず、多くの疑念を抱き自説に都合よい解釈を加えていった。その代表的なものが、本来、邪馬壹国の(壹)は魏志倭人伝を書いた人間が(臺)の字を間違ったのであろう、としてその字をすべて臺(台)にしてしまったのだ。また、ここは「一月ではなくて一日の誤りだ」とするように、自説に都合良く改竄し、帳尻を合わせて行くことをしているのだ。その結果、宣長は自説では、邪馬臺(台)国は筑紫にあるとした。

現在でも、歴史学、国学、考古学などに頻繁に見られることだが、学者たちは先人をバカ扱いにし、「これは間違い」「知らなかったのだろう」など、自説に都合良く改竄したりしながら利用する。》

今年4〜6月に同市太田の溜め池を調査し、仮面は素掘り井戸から見つかった。長さ26センチ、幅21・5センチ、厚さ0・6センチ。赤樫の鍬を利用したとみられ、鍬の頭部側を顎にし、柄をつける穴を口に利用。両目の穴を開け、眉毛は線刻で表現、周辺には赤い顔料がついていた。紐穴はなく目や口の位置が正確なため、市教委は「手に持って顔を覆っていた」と想定している。

従来の最古の木製仮面は7世紀初頭のもので、今回はそれを約400年遡る。纒向遺跡では祭祀で使ったとみられる木製品を埋めた穴が多数確認されており、今回の仮面が鍬からの転用であることから、市教委は農耕祭祀に使われたと判断した。

《どんどん自分達に都合良い解釈をし、決定事項であるような進め方だ。仮面の材質が硬質の赤樫であるとはいえ、たった0・6センチ(6ミリ)の厚さの木が荒っぽい農耕に絶えられると考えるには無理がある。それに写真で見る限り、口として利用されている穴は、農耕に使用して土をこねたり、耕したりしてできる弛み(傷み)が全く見えない。同じ鍬を作り、土を耕してみてからの結論でよいのではないか。とても鍬の再利用には見えないのだが。時代が同じなら、何でも邪馬壱国や邪馬台国と結び付けてみたり、勝手な解釈を加えるのも早とちりではなかろうか。》

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