広島原爆の日
1947年に第1回「広島平和祭」が行われて今年で60回目、原爆投下の日から62年目に当る。
NHKの式典の中継を見た。黙祷の後広島市長・秋葉忠利(64)の平和宣言を聞いた。
宣言文を読み始めて直ぐに「これは何か違うぞ」と頭に引っ掛かった。1945年8月6日午前8時15分、日本全土がアメリカ軍の爆撃機B-29の空襲の恐怖に曝され、誰もが戦時下を疲弊し切っていながらも朝を迎えて1日の生活を始めたばかりだった。
広島の町は一瞬にして放射能の熱に焼き尽くされ、熱風に吹き飛ばされていた。生き残ったものが見たのは空中にもくもくと盛り上がるきのこ雲だった。爆発から20〜30分後、爆心地から北西部11〜19キロあたりには放射性物質を含んだ大粒の黒い雨が1、2時間以上も降った。粘り気のあるタール状の黒い雨は爆弾の炸裂時の泥やほこり、破壊された建物の破砕粉、などを含んでいた。
私が広島市長の宣言の読み上げが始まるやいら立ちのようなものを覚えたのは、いかにも作文らしい手が加わっている綺麗ごとの嘘を感じたからだ。さすが東大出らしく、書き出しには美辞麗句を並べた。「運命の夏、8時15分、朝凪を破るB29の爆音、青空に開く落下傘、そして閃光、轟音、阿鼻叫喚。落下傘を見た少女たちの目は焼かれ、顔はただれ、助けを求める人々の皮膚は爪から垂れ下がり・・・」若い頃からの速筆を武器にここまで追いかけて綴ったが止めた。
青い空に舞う落下傘(原子爆弾が落下傘にぶら下げられて投下されたような錯覚を抱かせるが、こちらは情報収拾のための測定機器をつけたもの)、その落下傘を見た少女の目は焼かれ、って何故少女でなければならないの?、悲しさを強要するためか。それに続く細かな被災状況はどれも、この62年の間に出版され、描かれたものの単なるコピーではないか。秋葉市長が生まれたのは1942年、それも東京荒川だ。原子爆弾を知ろうはずはない。写真以外には知りようはなかった。毎年何か表現しなければならない手前、苦し紛れにこしらえた作文で、心に訴えるものはなく空虚なだけだ。久間元防衛相の発言もあったため、ことさらに被害を強調することになったのだろうが、過ぎたるは及ばざるが如しだ。
核保有国が存在する限り、これからも広島原爆の日は続けて行くことになるだろう。そして世界でも最大の核保有国に守られている日本は、何をどのように訴えて行くのか、改めて考える必要がありそうだ。別には原水禁、原水協もある、お互いに手を取り合うことは不可能なことなのだろうか。(やはり離合集散の繰り返しになるだけだろうか)。
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