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2007年8月15日 (水)

続 硫黄島 1、

今日、62年目の敗戦の記念日だ。政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で天皇、皇后も参列して開かれた。式辞を述べた安倍の言葉は、今では何を言ってもうさんくさく、心には届かない。何人かの式辞でも河野衆議院議長の追悼の辞は、従軍慰安婦問題で、しばしば93年の談話が「余計なことを口走って」とも聞こえる取扱いを受けたこともあったせいか、安倍批判とも取れる内容の発言をまじえた。「(日本国民は)海外での武力行使を自ら禁じた『日本国憲法』に象徴される新しいレジームを選択して、今日まで歩んできた」との見解を表明した。

同じ日の毎日新聞紙上に、大阪学芸部の若い記者が記事を書いている。硫黄島に残る1万柱の遺骨の置き去りは許されない。硫黄島は首都の一部である、国は収集を急げ と。

硫黄島がどのような島であるかは映画でも紹介され、若い年齢層にも少しは理解されるようなっている。しかし、激戦の地であったことは知っても、今もなおそこに1万柱以上の遺骨が取り残されていることは殆ど知らないだろう。記者はこの戦の取材を続けている、という。昨年12月に、島に渡って火山島の地熱で40度以上にもなる元日本軍の壕に入っている。澱んだ空気と硫黄の臭い、暑さのため数分で気分が悪くなっている。だが、日本兵はそこに、1カ月以上もこもっていたのだ。しかも大本営は武器や食糧の補給をせず、見捨てていた。

日本軍の死者約2万人。厚生省(当時)による遺骨収集は52年度に始まった。厚生労働省はここ数年、1回に2〜3週間程度で年3〜4回、遺族や生還者で構成する硫黄島協会の協力を得て収集に当っている。06年度までに帰った遺骨は約8600柱だ。硫黄島には今もなお1万柱以上が捨て置かれている。自身奇跡的に生還した同協会事務局長・金井啓(83)によれば米軍の激しい攻撃に曝され、目の前で倒れた戦友さえ埋葬できず、野ざらしにせざるを得なかった。「せめて遺骨を遺族のもとに」というのは、凄惨な戦場を知る生還者の強い願いだという。

1年で2937柱を収集したこともある(69年度)。だが最近の10年間は1柱の年もあり、多くても164柱、平均で57柱に止どまっている。厚労省は「一柱も残さない」と遺族らに約束している。しかし、今のペースでは、すべて収集するまでには200年かかることになる。生還者は勿論、遺族もいなくなる。

「時間切れ」を待っているのではないかという声もある。02年度の「厚生労働白書」は、南方地域での遺骨について「おおむね収集は終えた」と宣言した。05年度、尾辻秀久厚労相(当時)は「何処かで幕を引くべきだ」と表明した。遺族たちは「遺骨収集が中止されてしまうのではないか」と恐れている。

しかし、記者の目には、島内にはまだ調べる余地がある、と映った。これまでの収集は、地下壕やトーチカ(コンクリートなどで作られた陣地)を探し当て、その周辺を掘削する方法が主だった。金井事務局長は「壕の中で死んだ兵士は少ない。苦しいから、動けるものは外に出て死んだ」という。数回遺骨収集に参加した遺族も「島全体を調べるべきだ」と訴えている。

激戦からすでに62年、遺骨も触れば崩れるほど風化しているだろう、一刻も早い大規模な収集を行なう必要があるのではないか。私も同じ思いを昨年書いた。 硫黄島 06/11/18
                 
                 - つづく -

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