続 硫黄島 2、
現在、自衛隊の滑走路がある付近は激戦地の一つで、その下には多くの遺骨がある可能性が高いと思われる。遺族らはそこでの調査、収集を強く望んでいる。
日本本土空襲に備え、基地としての硫黄島の奪取を計画したアメリカ軍は、1945年2月16日、硫黄島派遣軍を近海に集結させた。それからの3日間、打ち込まれた砲弾により、島の形が変わったとも言われる艦砲射撃が繰り返され、日本の硫黄島守備軍の主要な砲火の殆どが破壊された。19日早朝から艦砲射撃に続いて、空からB-29爆撃機120機が爆撃を交代し、再び艦砲射撃が引き継ぎ、アメリカ海兵隊が上陸を開始する。地下壕に潜んでいた日本軍守備隊が一斉に攻撃を開始、アメリカ軍の上陸を浜辺で釘付けにする。上陸作戦だけでアメリカ海兵隊が被った被害は戦死501名、戦傷死47名、負傷1755名を出した。夕方までに海兵隊30,000名が上陸。
3月26日、栗林中将が数百名の残存部隊を率いてアメリカ軍陣地へ攻撃を掛けて玉砕する。この戦いで日本軍の守備隊兵力20,933名のうち20,129名(軍属82)が戦死。捕虜となったもの200名。終戦までにあわせて10,23名であった。硫黄島の奪取によってアメリカ軍は日本本土空襲のための理想的な中継基地を入手することが出来た。アメリカ軍爆撃兵団は、東京大空襲(3月10日)、名古屋空襲(12日)、大阪空襲(13日)と続けさまに実施することになる。
アメリカ軍は硫黄島の完全占領を3月15日と発表した。
日本軍硫黄島守備隊長は3月17日、大本営へ向けて決別電報を打電している。
3月21日、大本営は硫黄島の玉砕を電報を受け取った17日に玉砕が敢行されたものとして発表。
実は守備隊長は打電の後、味方の軍と合流、26日に飛行場整備中のアメリカ軍を襲撃し、そこで戦死している。
大本営は、見捨てた硫黄島の実態の確認も把握せず、北方や南方で次々に起る玉砕と同様、硫黄島の玉砕を報道するだけの機関に成り下がっていた。
硫黄島の激戦で生き残った日本兵が地下陣地に潜伏し、一部は終戦を知らずに抵抗を続けた。敗戦から4年後の1949年1月2日、最後の日本兵2名がアメリカ軍に投降した。
硫黄島の戦に参加、或いは戦後に駐留したアメリカ兵によって、日本兵の遺体の一部が損壊され、記念品*として本国に持ち帰られていた。
*原子爆弾による被害の瓦や煉瓦、石なども、やはり記念品として持ち帰られている。
硫黄島で守備隊司令の任にあった天台宗の僧・和智(元海軍大佐)が、1952年、戦後始めて硫黄島を訪問したとき、約1000体の遺体から頭蓋骨が紛失していたという。その後、和智の運動によって米国でもメディアに紹介され、1985年、元兵士や市民から3体の頭蓋骨が硫黄島協会へ引き渡された。必ずしも和智が言外にいう1000体の頭蓋骨がすべて記念品になったわけではないだろう。死亡して打ち捨てられたままの日本軍兵士の遺体は、そのあとのアメリカ軍が飛行場の整備作業の際にブルドーザーなどによって破砕されたり、サイパンやグァムの海岸で戦死した兵士が大量に砂浜に掘った穴に中に埋め込まれたように、硫黄島では或いは破砕されないまでも、滑走路の下に敷き詰められている可能性は高い。また、戦闘後、遺体を隠すために米軍が種を蒔いたとされる木が生い茂り、密林のようになっているところもあるという。
航空自衛隊や米軍も使用することがある滑走路を掘り返すことは、米軍との交渉をはじめ、その間の代替滑走路を作るために膨大な予算を必要とする。防衛省は「厚労省から協力要請があれば検討する」というが、行政だけでは簡単に結論がだせるものではない。だが硫黄島は68年に日本に返還され、首都東京の一部となった。そこにまだ取り残されたままの遺骨が眠っている。ここで遺骨収集が進まなくて、どこでできるのか。硫黄島の遺骨収集は国が戦後処理にどう取組むかという試金石である、
首相も戦後レジームからの脱却を唱えるのもいいが、兵士たちは国が始めた戦争に召集され、倒れた。その遺骨を収集し、遺族のもとに届けるのは、国の債務ではないのか。使い古した兵器のように、戦場に置き去りにしていいはずがない。生還者と遺族に残された時間は長くはない。
今日16日の毎日新聞夕刊にも、写真家江成氏のレポートが掲載されている。激戦地であったインドネシアのビアク島には62年経った今も、50体にも余る遺骨が野ざらしになったままで発見された。数体がばらばらになった骨、銃弾の痕が残る錆びた鉄兜、頭蓋骨数体分も見える。私の目を釘付けにした写真からは、肉を失い眼をなくして空洞になった眼窩を空に向けて、迎えにきてくれる救いの手を待っている兵士の声が聞こえて来るかのようだ。使い捨てにされた日本兵たちの悲しい最後の姿だ。
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