チャイコフスキー・コンクールと 拍手
6月13日のブログで書いたばかりだ。同月8日、ルーマニアで行われたバルトーク国際オペラ指揮者コンクールで入賞した(1位と3位)2人の日本人指揮者(橘真貴、菅野宏一郎)のことを。
今回は4年に1度モスクワで行われるチャイコフスキー・コンクール*(ヴァイオリン、チェロ、ピアノ、声楽など)の29日のヴァイオリン部門の最終選考で神尾真由子(21)が優勝したと伝えられた。小学校4年生だった96年に第50回全日本学生音楽コンクールで全国大会小学校の部で1位になっている。98年のメニューイン国際ヴァイオリンコンクールのジュニア部門では最年少の11歳で入賞している。その後、米国、英国、フランス、ロシアなど世界各地で演奏活動を重ね、国際的にも高い評価を受けている若手の逸材だという(スイス在住)。
*チャイコフスキー国際コンクール—作曲家チャイコフスキーを記念して1958年に創設され、4年に1度モスクワで開催される。ベルギーのエリーザベト・コンクール、ポーランドのショパン・コンクールと並ぶクラシック界の登竜門。
29日で演奏したのはチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲、シベリウスのヴァイオリン協奏曲と報じられているが、どちらも大曲だ、最終選考では当然時間をおいてのことだったと思われるが、演奏が終わってしばらくは拍手が鳴り止まなかったと伝えられた。《残念ながら、私はまだ聴く機会がない》
チャイコフスキー・コンクールといえばもう1人、1990年、当時最年少で優勝した諏訪内晶子(1972)がいる。彼女も又コンクールでは負けていない。
1981年 全日本学生音楽コンクール(小学校の部)第1位
1985年 〃 〃 (中学校の部)第1位
1987年 日本音楽コンクール 第1位
1988年 パガニーニ国際コンクール 第2位
1989年 エリーザベト王妃音楽コンクール 第2位
そして1990年18歳でのチャイコフスキー・コンの 優勝と続く
彼女はそこから演奏活動には入らず、1991年から1995年までの間ジュリアード音楽院に留学、コロンビア大学では政治思想史を履修する。1995年、アンドレ・プレヴィン指揮NHK交響楽団定期演奏会で日本での演奏活動を再開する。その後は世界のオーケストラ、ニューヨークフィル、ピッツバーグ、パリ、ブタペスト祝祭管弦楽団、バイエルン、ベルリン・フィル、などと共演が続く。一方、CDへの録音も重ね、シャルル・デュトワ指揮フィルハーモニア管弦楽団でショーソンの「詩曲」を含む1枚をリリース(2004年2月)。夭逝したフランスの女流ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴーの古い録音(1946年)と聴き比べた。どうしてもモノーラルのヌヴーに軍配が上がる。これ以上のものはちょっと出ないかもしれない。58年の時間の差を越えて、ヌヴーのヴァイオリンが光る。‘おそく神秘的に’の指定を持つこの曲を、深い憂愁で包んでくれる。
古いところを思い出したついでに、日本が戦前に世界に送りだした女流ヴァイオリニスト諏訪根自子のことを語っておきたい。現在でこそ日本の女性の海外クラシック界への進出は珍しくもないことだが、戦前海外で活躍した器楽奏者は彼女ひとりであった。彼女が生まれたのは1920(大正9)年、今も変らない幼少(4歳)からの習い事でヴァイオリンを持つことになる。1932(昭和7)年、12歳で日本青年会館で初リサイタルを開いた。36年にベルギーのブリュッセルに留学。37年にパリに移り、パリを拠点にヨーロッパでのリサイタルを開く。42年にはクナッパーブッシュ指揮ベルリン・フィル、ウィーン・フィルなどと共演、フランス、ドイツ、オーストリア、ベルギー、スイスなど各国にわたる。日本人としてこれだけ世界的に活躍したヴァイオリン奏者は諏訪根自子が初めてであり、名実ともに当時の第一人者であったといえる。《この頃のことだろう、天才少女、スワネジコの風評は小学生の私の耳にも伝わっていて、今に頭の片隅に余韻として残っている。》
彼女がヨーロッパで大きく活躍しようとした頃はちょうど、第2次世界大戦と重なる。パリの小村で休暇を楽しんでいた1939年9月1日、突然大音声の太鼓の音を聞く。ドイツ軍がポーランドに電撃侵攻したことを知らせる太鼓だったという。第2次世界大戦の勃発だった。英仏両国はドイツに宣戦布告する。諏訪は勉強を続ける予定で日本へ帰国せず、パリにとどまる。諏訪は日本の対独親善政策でベルリンに移る。さらにドイツ軍占領下のパリとの間を往き来しながらリサイタルを続ける。日本は1940(昭和15)年9月27日、日独伊3国同盟を締結する。1944年6月連合軍のノルマンディー上陸とともに諏訪は在留邦人たちとともにパリからベルリンに避難する。
1945年4月30日、ヒトラーのピストル自殺でドイツは5月7日、無条件降伏する。諏訪は米軍に抑留され、米国船に乗せられ、ペンシルバニアへ運ばれる大西洋の船上で広島への原爆投下と終戦を知った。同年12月日本への帰国を果たす。彼女25歳の時である。《因に彼女の愛器ストラディバリウスは戦時中のドイツ宣伝相ゲッペルスが贈呈したものといわれる》
諏訪は翌46年からリサイタルを再開する。44年ジュネーブ、ローザンヌで催したコンサートで「輝かしいテクニックと音響の美しさ」「軽妙にして情熱の技量」「オルフェのごとく、諏訪根自子は音楽の平和で崇高な魔術を展開した」といわれた音楽を日本に持帰り、55〜60年ころまで各地でコンサートを開いたが、結婚、夫の海外転勤で演奏活動から離れていった。その後日本に戻った諏訪は、日に3時間は欠かさなかったという練習の成果をアルバムにまとめた。諏訪(58歳になっていた)の芸術家としての集大成となる78〜80年にかけて出したLP3枚のアルバムだ。バッハの『無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ、BWV1001/6』全6曲である。私の手元にあってヘンリク・シェリングの3枚と、時に聴き比べて楽しんでいる。
諏訪根自子(中央LP)
諏訪内晶子(右)
五嶋みどり(左)
現在、世界で活躍する日本の女流ヴァイオリン奏者は当時と比べ遥かに多くなっている。諏訪が学んだ小野アンナ、彼女が桐朋学園で教えた前橋汀子、潮田益子たち、漆原啓子、諏訪内晶子、千住真理子、竹澤恭子、藤川真弓、堀米ゆず子、と次々に出てくる。意識して1人飛ばした。そう、天才の名を恣(ほしいまま)にしてきた五嶋みどり(1971)がいる。彼女はコンクールとは無縁の人だ。彼女もやはり4歳から、バイオリン奏者の母から手ほどきを受け、1982年アメリカに渡りジュリアード音楽院で学ぶ。10歳の時その天才的な才能をズービン・メータに認められ、彼の指揮でニューヨーク・フィルと共演、15歳でジュリアードを自らの意志で中退した後、早くから社会事業に関心を持っていて1992年、教育環境が行き届かない都市部の公立学校の生徒を対象に音楽の楽しさを教える活動を進める非営利団体「ミドリ&フレンズ」を設立した。2001年には心理学を専攻していたニューヨーク大学ガラティン校を最優等で卒業している。
ヴァイオリン曲の殆どを演奏、録音しているが、私が謎と思えるのは未だに、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のCD化がされていないことだ。ただ1998年5月24日、NHK FMで放送したことがある。(ヒュー・ウルフ指揮:フランクフルト放送交響楽団、1997/9/19フランクフルト・アルテオパー大ホールで)幸いその時エアチェックしたからメタル・テープで聴くことは可能だが、この音源をミドリがCD化することを許可していないことが考えられる。
さて、チャイコフスキー・コンクールからどんどん逸れて行くが、逸れ序でにもう一歩逸れてみよう。毎日新聞6月30日の記事からだが、クラシック音楽会での拍手の仕方が分からない。それがクラシックコンサートの敷居を高く感じさせているのではないか。ということで悩んでいる人へ。
私は今まで幾度も書いて来た。同じように気にする人が多いからだが、誰が考えても同じだが、日本の御詠歌を聴いて拍手する人がいないのと同じこと、宗教曲を聴いてそうは拍手をする人はいないだろう。ましてそれが教会の中で行われるミサ曲のようなコンサートともなれば拍手などしない方がいいのに決まっている。
ドイツ歌曲、例えばシューベルトの場合、歌曲集も全曲で24、20、16曲、シューマンにも全曲で26、16、12、9、8曲などがある。新聞では一曲一曲の拍手はしない、それは曲の並べ方には作曲家の配慮があり、調性効果を狙って並べていることも多く、転調でその世界に導いたりしており、また同じ作曲家のものが連続して歌われる場合にはその途中に拍手を入れない、などと書いているが、クラシックを聴きに集まるファンの皆が、ドイツ語を理解し、それを熟知していると思っているのだろうか、また、逆に云えばそこまで専門知識を持たないと、或いは知らないと、ドイツ歌曲のコンサートの会場には来るな、ということだろうか。
これもまた何度も書いて来た。何も畏まって聴く必要はない。自分の琴線に触れれば、どこで拍手しようが声上げようが構わない。逆に聴いていて何も感じなければ拍手することもいらない。周りに釣られてお世辞で拍手する必要はさらさらない。憮然としていればよいことだ。
拍手の問題はヨーロッパでも歴史的に長い間議論されてきた。北ドイツでは拍手を一切しない時期もあったらしい。ピアニストのクララ・シューマン(古い話だ)は「よりどころがなく、つらい」と、その「冷たい演奏会」を嘆いたと云われる。それでも良いことだ。戦後、その昔名が高かった人たちが何人も来日した。昔日の面影をなくした人が何人も来た。哀れな演奏だった。拍手などしなかった。名前だけでは芸術ではない。入場料の多寡では芸は計れない。その芸に値すれば手が痛くなるほどの拍手を返す。
新聞の記事で納得できる内容があった。間違っていなくても《どういう意味だ》、迷惑な拍手もある。曲が終わるや否や「私はこの曲を熟知しています」とでも言いたげにすぐ、パーンと入る拍手だ。《或いは、これも書き疲れるほど書いてきた。例の気狂いたちの大声で叫ぶ『ブラボー』だ。銃でもあれば撃ち殺したくなる。》余韻をぶち壊し! 曲によっては作曲家が最後に休止符をつけその上にフェルマータ(延長させること)の記号を付けていることもある。無音の響きを味わって下さいということだ。そんなところで拍手(ブラボー)が入ったら台無しだ。
拍手の仕方は、聴衆と演奏者が曲をよりよく味わうために決められている。《それは可笑しい、拍手は誰もが揃って手を打つことではないはずだ。そんな拍手ならしない方がよほど良い。》分からない場合は、周りが拍手し始めてからやおら拍手をするのが無難だ。(記事:梅津時比古)《バカをいうんじゃない、拍手は人につられてするものか、面白くなければしない方が礼に叶ってる。もっとしっかり歌え、もっとしっかり演奏しろ、の無言の励ましとなる。お情けの拍手をもらって喜んでいるようじゃ芸術家じゃないと思え!だ。》
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