書く
昔中国(東晋の政治家、生没年不祥、生年に303、307、321など諸説あり)に書のとっても上手い人がいた。名を王羲之(おうぎし)という。中国でも『書聖』の名が冠せられ、末子の王献之と併せて二王ともいわれる。
さて、明日から第一期(7月11〜16日)の第59回毎日書道展が国立新美術館で開かれる。第二期(7月18〜23日)第三期(7月25〜30日)第四期(8月1〜5日)東京都美術館=前期(7月8〜11日)後期(7月13〜16日)と右往左往しそうなスケジュールだ。
現地に行ったわけではない。毎日と冠する書道展らしく毎日新聞紙面には受賞作26人の書が2ページに亙って紹介されている。えっ!これが書? 私は少なくとも字は読むことも、書くことも、覚えることも誰よりも好きだと思っている。以前から不思議だったが、香典袋に書く字のような薄墨の頼りない印象の字が堂々と書の世界に仲間入りしている。少なくとも学校でならったレベルでは墨は硯でしっかりと摺ることを教えられた。なのに作品には多過ぎる筆に含ませた水がカンバスを滲ませ、書としては汚れとしか映らないものがある。かと思うと、カンバスに殆ど白い部分が残らないほどバケツで墨を撒いたようなアバンギャルド書には、作者は次のような題名をつけている。「ZENのリズム2007『原点』」と。絵画展に行っても同じような訳のわからないものを出品する作者がおり、絵の具を塗り付けただけの絵を見かけることがある。自己満足の愚作でしかないと思うが、ちゃんと入選している。
絵でも書でも同じだ、アバンギャルドと呼ばれる書は自己陶酔の世界でしかない。少なくとも展覧会に出品することは、自己以外の目にふれることを前提としているはずだ。見るものの共感を得たいと願うはずだ。しかし、そこには自己満足の世界から一歩も出ていない小さな世界があるのが見えるだけだ。
ところが審査部長の貞政少登は、それぞれに大業なコメントをつけて褒めそやしている。題名には「こころ」とついている。題名が無ければ決してこころとは読めないものに、「ビートな線が走る。音が聞こえ、色さえ見えてくる。書のかたちが楽しげに現れ会話をしているようだ。快作だ」と。前出の「ZEN・・」には「真っ黒なボリュームある線《線などどこにも見えないただ黒い塊があるだけ》を組み上げ重量感のある作品に仕上げている。黒の深さも魅力だがそこから覗く白の輝きが美しい」なんて意味不明なタイトルによくもこれだけ作文するものだ。どうもセンスが狂っているとしか思えない。。
また、書とは呼べない工芸品の刻字も混じってる。おおきなハンコを扱うハンコ屋さんが出品しているようだ。書というよりは彫刻の技術較べのようなものだ。
過去最高の出品点数3万1345点のうち入選以上の全作品が展示されるらしい。それらの中には誰もが読める字もあるのだろうが、どうしてこうも普通の日本人に読めない字(行書、草書、篆書など)ばかりが入選するのだろう。書を習っている人間だけが読み書きできる限られた閉塞的な世界が書の世界なんだろうか。
中国の王羲之、日本の空海、菅原道真といった難しくても筆の跡が辿れる字、凛として美しいと感じられる字、限られた趣味の人だけでなく、誰でも読める字、多くの人が共感できるような字を見たい。
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