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2007年5月22日 (火)

浅草、三社祭の神輿乗り逮捕

Matsuri2Natsuri_1 古いアルバムから
 探しだしてみた。
 どうみても何人も
 乗れる大きさの
 神輿ではないのだが。

東京都台東区の浅草神社の三社祭で、警官の制止を聞かずに神輿に乗ったなどとして、警視庁浅草署は20日、神輿の担ぎ手の男3人を東京都迷惑防止条例(粗暴行為の禁止)違反や、公務執行妨害容疑で現行犯逮捕した。

私が毎年のように三社祭を見たのは遠い昔だが、その頃はまだ担ぎ手には女性の姿が混じることのない時代だった。その後華やかな芸者衆の乗り物が加わったり、担ぎ手の中に威勢のいい女性の姿が少しずつ増えて行って、現在のような賑わいを見せる大祭となった。それでも日本に昔からある喧嘩祭のような荒々しい気配はなかった。しばらく前から三社祭には行かなくなったが、それまでの間、神輿の上に若衆が乗って囃し立てる姿を見たことは1度もなかった。新聞(毎日5/22)によると、昨年の祭で神輿の1部が壊れる事故が発生したことから、神社側が神輿に乗らないよう厳しく監視し、乗った場合には来年の「宮出し」を中止する姿勢を示していたという。

神社の心配も理解できるが、日本には古来から“血湧き肉踊る”と形容される男衆が我を忘れる祭が全国に点在している。毎年中継が出る300年引き継がれている大阪岸和田の「だんじり」、平安時代以前が起源とされる7年ごとに行われる信州諏訪大社の「御柱祭」(4社をそれぞれに囲む御神体の大木計16本を伐り出し、山出しで100メートルもある急坂を落とす。若衆が死を厭わずその大木に乗ろうとしがみつく)や、神輿をぶつけあって競う名高い「灘の喧嘩祭り」(兵庫県姫路市)などがある。これらの祭には善し悪しを別にして死人が出ることは珍しくはなかった。それでも祭は途絶えずに残ってきた。誤解を恐れずに言えば、祭での「死」は若者の勲章とも言えたのだろう。

しかし、都市部では(都)市電が走り始め、京都や高山、秩父、福岡などには辛うじて残る山車はまち中を走るが、多くの市街で山車が神輿に変り、岸和田のような引き回しは次々に姿を消して行くと同時に、祭は大人しい行事に変質して行かざるを得なくなった。

浅草の騒ぎでは、3人のうち1人は20日午後3時ごろ、台東区千束3の路上で警官の警告を無視して神輿に乗り、混乱を誘発する行為をした疑い。他の2人は千束1で同日正午ごろ、神輿に乗っている担ぎ手を逮捕しようとした警官に体当たりした疑い。他にも10人以上が神輿に乗っていたといい、浅草署は特定を急いでいる。昨年も都条例違反で5人が逮捕されているという。

ワーキングプアーなる新語が生まれ、働けど少しも楽な生活が持てず、ほど近いところには貧しい人たちの溜まり場のような山谷がある。ネットカフェの寝泊まりを強いられるものもいる。担ぎ手が少なくなってからは、在のものでなくても女性でも参加できるようになった。貧しい政治への怒りの持って行き場のない若者が、祭の場に加わり我を忘れたとしても攻められない一面がある。岸和田のだんじりの上で颯爽と扇子を振る若者や、諏訪の山出しを見せられては同じ若者として山車に乗りたくなる心理は健康でさえある。その結果が自分や祭の当事者だけの災害として命を落とすことになっても本望だろうし、警察権力を使ってまで取り締ることもなかろうというものだ。

浅草神社や警察署の心配は、祭に吸い寄せられて集まってくる見物人への被害だ。行ってみればわかる。大袈裟に表現すれば、進むことも退くこともできない程の人混みだ。この中を練り歩くのだから怪我人ぐらいは出ても不思議はないのだが、不思議と怪我人はあまり出ない。意外に浅草の三社祭は統制が取れているのだ。昨年も逮捕者は出ているが、怪我人が出たとは聞かない。周りの見物人が心配なら、神輿に近づかないように、こちらを遠巻きにさせればよい。祭はもともとその土地の者たちのものだ。当事者たちはどうなっても自己責任で羽目を外すことなのだから。

【7月25日 追記】5月22日に書いた「浅草、三社祭の神輿乗り逮捕」について、沢山の人が寄り道して下さった。
 その時に願った来年の祭での宮出しが中止にならないように、との思いが届かなかった。三社祭を主催する浅草神社と同神社奉賛会は24日、来年の祭で本社神輿の宮出しから宮入りまでを中止することを決めた。今年の祭で、禁止されていたのに神輿に担ぎ手が乗ったためで、同会によると、中止は初めて。主催者側は「原点に戻った。決断しないと崩れた祭は正しい道に戻らない」と決意表明した。各町の神輿は通常どおり担ぐことができる。全国の祭で祭の興を壊すような行為を繰り返す輩が多い。浅草神社の毅然とした態度が参考になるのではないだろうか。

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コメント

通りすがりですが。。
浅草地元に代々100年以上住み、まさに命がけで三社祭をこよなく愛する者です。

ことは、そういう怪我などの問題だけではないのですよ。
もちろん、当人や周りの危険ということもありますが、神輿に乗るということが、神様と三社祭を愛するものへの冒涜だということを知ってか知らずか、乗っかり悪態をつく、よそ者の輩が問題なのですよ。
興奮してはしゃいで馬鹿騒ぎするのは、神輿に乗らずともできるのです。

それと、死者が出るのは数年に1回くらいで報道もされますが、心臓発作や急性アル中、骨折、腕や指がもげたなんて怪我人・病人はつきもので、報道すらされないことも多いだけなんですよ。

投稿: ムウマ | 2007年5月23日 (水) 22時15分

ムウマさん コメントありがとうございました。

心から三社祭を愛していらっしゃるのがよく分かりました。昨年に引き続き発生したトラブルで、来年の「宮出し」が中止されることのないように祈りたい気分です。

ブログの色褪せた写真は、馬道の交差点近くにいた知り合いの関係で、45年以上も前に撮ったものです。

投稿: 小言こうべい | 2007年5月25日 (金) 16時08分

45年以上の前の写真、素晴しいですね~

とにかく神社神輿に乗るのは まずいでしょ!!
まして 地元でもない人が神を担ぐのは・・・。

投稿: 拝見 | 2007年6月23日 (土) 11時47分

こんにちは 拝見さん
わざわざ寄り道して下さってありがとうございます。

原版がリバーサルのためフィルムスキャンで掲載まで辿り着きましたが、時代物で色は仕方ありませんが、ピントが悪くなりましたのに、お褒めいただいて恐縮です。

決めごとを守らない人が増えましたね。それにしても、来年の宮だしが中止されないよう、期待するのみです。

投稿: 小言こうべい | 2007年6月23日 (土) 13時39分

記事拝見しました。
ご意見もっともな部分がありますが、一点気になった部分がありましたのでコメントさせて頂きます。

岸和田のだんじりの山車と浅草の神輿を一緒にしてはいけませんよ。
山車はあくまで祭りの出し物ですが、神輿は文字通り神の輿であり、神様の乗り物です。
山車に乗る行為とはまったく別のものですから同列に引き合いに出すのは筋違いだと思います。
自分が乗っている車に勝手に人が乗ってきて騒ぎ出したら神でなくとも怒ります。

だんじりで危険な山車引きを行うのは祭神であるスサノオノミコトが危険を恐れない勇敢な行為を喜ばれるからです。

乗るという行為は一緒でもそのことが意味する内容はまったく別ものですので、三社祭での取り締まりは当然のことだと思います。

投稿: 光 | 2008年8月23日 (土) 12時54分

神輿乗りは代々、宮頭と言われる地元浅草の鳶職の頭連中の代表者が前後の担ぎ棒の先端部の上に各1~3人迄で、前後合わせて制限6人迄が上手に乗り、本社宮神輿の保護と安全の目的の為に誘導します。特に、宮出しや宮入りの場合は担ぎ手やそれを取り巻く見物人が非常に多く、神輿の先導役の御幣の行先方向を見失わない目的の為に担ぎ棒の先端部の上に乗る理由があるのです。唯単に宮出しとか宮入りと言った祭礼自体を盛り上げる為のパフォーマンスをする為に神輿乗りを決して行っているのではないのです。しかし、本来としての神輿乗りは神輿同好会は是として一切の許可も認可もされていないのが事実です。それを無視して身勝手に神輿乗りをする神輿同好会の担ぎ手連中が大変目立ちます。4人や5人位迄の人数なら仕方ないと大目に見るが、担ぎ棒の上に所狭しと約20人位の浅草三社様の氏子ではない余所者の神輿同好会の連中が我が物顔で乗りやがる。どう仕様もありません。本来の道理を考えるならば、神輿乗りは浅草三社様の氏子である若手役員の代表者が担ぎ棒の先端部の上に乗るぐらいの意気込みと情熱を示す必要があるでしょう。浅草神社である浅草三社様は、浅草の鎮守であり氏神です。三社氏子の親神です。本来の担ぎ手は祭礼の奉仕者です。神事の奉仕者でもあるのです。また、神輿同好会の役目は祭礼自体を協力する為の団体になるでしょう。しかし、それ以上に大切な問題点は、本社宮神輿自体を第一に大事に取り扱うことです。浅草神社の本社宮神輿は浅草全体の財産であり宝物であるからです。そして、宮頭の神輿乗りはある意味としては、明くまでも本社宮神輿の保護と安全に誘導する為の伝統的な行為であり一種の行事となるでしょう。最後に、掛け声の中に、マエダ!マエダ!があります。このマエダ!の掛け声の発声は、宮頭が担ぎ棒の上に乗って、御幣の行先を見付ける為に、御幣は前だ!、御幣は右だ!御幣は左だ!と担ぎ手連中に指示号令の為に発声したのが始まりのようです。そのマエダ!だけが掛け声として定着化しています。また、オイサの掛け声の意味合いとしては、元気出せ!が意味合いのお勇みが転訛して御勇オイサになった説と、氏神への御奉仕を行い、功徳を得る意味合いの御功オイサに説もあるでしょう。また、御諌オイサもあります。この御諌の意味合いについては、神様には色々な神様がいて、神様の中には怖い神様や乱暴な神様もいます。また、昔の人間達は疫病や災害などは神様の怒りが原因とされていた時代がありました。その神様の怒りを鎮める為のお諌めが転訛して御諌オイサになった説もあるようです。その他にもオイサ!には様々な説があるでしょう。他には、お伊勢オイセが転訛した説や御社オンシャが転訛した説もあるでしょう。日本全国の各地で神事祭礼を行う真実の理由は神不在にしない為が最大の理由となるでしょう。人間が住める場所には必ず神社や神宮などと言った宮ミヤがあります。都ミヤコは宮処が語源とされているでしょう。その宮処である神社や神宮などを大事に祀るのは、その土地に産まれ育った人間達の役目であるでしょう。神輿乗りの次元よりも、神事祭礼の本質を大事に考え直す時期です。このままでは浅草全体が神不在の地にしない為に!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2008年10月 2日 (木) 03時17分

私個人としては決して神輿乗りを正当化する為にコメントしているのではありませんのでご理解下さい。日本各地の神事祭礼に関して言えることは、その土地の伝統的風習やその土地にしかない受け継がれた形式とやり方があるでしょう。同じ浅草の三社祭と鳥越祭では異なっています。また、都内の中の様々な風習や形式も違います。深川祭や神田祭も異なっているでしょう。それに、大阪岸和田のだんじり祭や九州福岡の博多山笠などについても風習や形式自体は全く異なっています。この風習や形式は比較する為に神事祭礼が存在しているのではありません。一番の問題点は祭礼に参加したことのない人間や神輿自体を一度も担いだことがない人間までが神輿乗りをする浅草の三社祭をあれこれと避難中傷することは地元浅草の三社様の氏子達にすれば大変不愉快であり迷惑なことです。理由も無しに神輿乗りをする神輿同好会の連中の行為は決して許すことの出来ないのは確かであり事実です。そして、何よりなことは日頃から神様に対して感謝の念もなく、自己本意や自己中心的な人間までが神を冒涜すると平気で発言することも本当に論外です。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2008年10月 2日 (木) 11時30分

浅草で産まれ育った地元浅草の三社祭の氏子達の本音や本心を申せば、誰しもが一生涯に一度や一瞬の時間だけも良いから本社宮神輿の担ぎ棒の上に乗って見たいと思っているのは確かなことです。ところで、神輿同好会の中に元々は浅草三社様の氏子も多数います。彼らの本心や本音は氏子の町会半纏を着て三社様の氏子の立場として神輿乗りをしたいのが本筋でしょう。しかし、そうした本心や本音を行動することが容認されない理由がある為に、元々氏子である彼らは自分達で神輿同好会を作ったり、また、神輿同好会に所属して神輿乗りの行為をする者も中にはいるでしょう。そうしてまた、彼らの中には身体に墨を入れヤクザの世界に身を置く者もいるでしょう。彼らは是非として、そこまでやらないと神輿乗りが出来ないと云う論理が成立出来ないことは言うまでももありません。そして、元々氏子の彼らは人一倍に三社祭を心の底から愛していることは確かでしょう。そしてまた、何よりも情熱的に三社祭自体を誇りに思い続けている為、神輿乗りをする意気込みや熱意は敬服する価値は充分あるでしょう。また、その反面、唯単に目立つことだけが生き甲斐として神輿乗りをする者もいることでしょう。それとも、宮頭の真似ごとがしたいだけなのでしょうか?!。もし、そうであれば、地元浅草で鳶職の修行をして足腰を鍛え、そうして、宮頭になって上手に本社宮神輿の担ぎ棒の先端部の上に乗るまでの努力をすれば良いことでしょう。別にヤクザになる必要もなかったはずだからです。率直簡単に言えることは、本社宮神輿の担ぎ棒の上を上手に乗って、本社宮神輿を上手に担ぐことが出来てさえいれば、決して担ぎ棒が折れてしまうことはなかったことでしょう。神輿乗り以上に問題なのは、神輿の担ぎ方自体にあります。本社宮神輿の重量は約1トン位はあります。それに対して、担ぎ手の人数は約80人前後位で本社宮神輿を担ぎます。担ぎ手の人数が多過ぎても少な過ぎても本社宮神輿を担ぐことは出来ません。担ぎ手1人が担ぐことが出来る時間は良くても約3分間以内が体力的に限界とされています。無理して本社宮神輿を担げば必ず地面に落としてしまいます。一度や二度だけではありません。物凄い衝撃で幾度も本社宮神輿を地面に叩き落とされます。幾ら何でも本社宮神輿が頑丈に造られていたとしても神輿自体や担ぎ棒が破損するのは当然の現象です。それも、無理矢理に神輿を地面に平気に叩き落とし、その都度、神輿同好会の幹部と言われる暴力団関係者が刺青を見せ付けながらヨイヨイ!ヨイヤサ!の掛け声を出して本社宮神輿を持ち上げて、また、地面に叩き落とす繰り返しをします。本社宮神輿が破損しても神輿同好会の連中達は一切の修理代も出した試しがありません。その全ては、地元の三社氏子の各町会などから多額の修理代を出し合って本社宮神輿を修理修繕している理由があるからです。神輿同好会の担ぎ手連中は、御構い無しで無責任な人間の集まりに過ぎないのが事実です。規則や秩序を厳守出来ない神輿同好会の参加を認めては成らないことであり、神事祭礼である三社祭の宮出し・宮渡御・宮入りなどの全ての行事を絶対に参加させないことであり、何よりも無法な神輿同好会を浅草三社祭から追放する必要があるでしょう。最後に神輿を担ぐ時の掛け声の本来の意味合いとしては神を心から敬い讚美する為に掛け声を発声するでしょう。また、神に対しては自分の存在感を示す為の理由として掛け声を発声する意味合いもあるでしょう。その為に掛け声自体の発声は個その者個人の自由であり、その者個人の神事祭礼と云う一つの信仰の在り方でしょう。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2008年10月 3日 (金) 04時01分

浅草神社は基より、浅草神社奉賛会のお偉いさん方は口癖の様に、何人足りナンピトタリとも神輿の上に乗ることを断じて禁ずると申し告げていますが、渡御進行中の場合でも駐停している時の場合であっても、原理原則の立場を考えれば、絶対に本社宮神輿の上には乗っては為らないことになります。それから、担ぎ棒や神輿置き台ウマ自体も神輿の一部として取り扱う以上、神輿の上に乗ることは断じて許可される行為ではございません。何故なら、前提として、神輿の上に乗ることは神を冒涜することになるからです。また、町会神輿も同様に当然です。今までは、駐停時の場合は神輿置き台ウマの上に浅草神社奉賛会関係者と町会関係者が神輿の上に乗っていたが、今後、その行為が出来なくなります。もし、その事実を浅草神社奉賛会の関係者が駐停している時に乗って良いのでしょうか?、また、宮頭の関係者も乗って良いのでしょうか?、その件に関して浅草神社奉賛会は是非とも説明して頂きたいです。それに、渡御進行中の本社宮神輿の神輿乗りは神を冒涜し、駐停している時の神輿乗りは神を冒涜しない理由があるのでしょうか?、浅草神社奉賛会は是非とも説明して頂きたいです。また、何人足りナンピトタリとも神輿乗りを断じて禁ずると申し告げている以上、浅草神社奉賛会関係者やどの様な身分人間であっても神輿自体は基より、担ぎ棒と神輿置き台ウマなどの上に絶対に乗っては為らないことになるからです。ところで、ある地域の祭礼については、神輿置き台ウマとは別に乗り台と言う特別な台を用意して、その台の上に祭礼の執行関係者が乗る様です。以上の状況を改めて考えた場合、神輿乗りの行為を考え直す必要があるでしょう!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2008年10月 9日 (木) 23時44分

東西南の3方面の羽織袴にカンカン帽子姿の浅草神社奉賛会の宮付総代と言われるお偉いさんが駐停時中の本社宮神輿の上に引渡し町会の役員関係者と町会世話役の鳶頭代表などと一緒に乗りながら、何人足りナンピトタリとも本社宮神輿の上に絶対に乗ることを固く禁ずると演説をする。しかし、何人足りナンピトタリと自ら言いながら本社宮神輿の上に土足同然の格好で平気で乗ってしまう図々しさ伺えられます。本社宮神輿が駐停中の時であろうとも渡御進行中の時であろうとも、本社宮神輿の上には特権的な立場のある人間であっても本社宮神輿の上には断固として乗っては成らない理由があります。何人足りナンピトタリの意味は如何なる人間のことを言うでしょう!!。つまり、どの様な身分や立場のある人間であろうとも原理原則と言う立場と概念を判断すれば自ずと理解できるからです。今後の浅草神社奉賛会などの関係者達の資質が問われることになるでしょう!!。それに、各町会の役員関係者や宮頭などについても同様となるでしょう!!。神輿乗りは同好会や担ぎ手だけに対しての問題ではないのです。もし、羽織袴にカンカン帽子姿の人間だけが特別に許されることを容認すれば、同好会の幹部連中や暴力団関係者なども羽織袴にカンカン帽子姿を真似ながら本社宮神輿の上に乗って問題を引き起こすかも知れません!?。それから、浅草三社祭の祭礼中に浅草観光連盟の半纏を着た方々も多数見受けられます。ところで、浅草三社祭は観光行事でしょうか!?。単なるイベント的な行事になるのでしょうか!?。浅草の三社祭は歴然とした御神霊・御神体を敬い祀った神事祭礼であり神前行事です。浅草三社祭に浅草観光連盟が関連していること自体に問題があるでしょう!?。決して、神前行事である神事祭礼の浅草神社例大祭、即ち、浅草三社祭を観光目的のイベント的な道具にしないで頂きたいと思います!!!!。今後も、浅草観光連盟自体が三社祭に介入するのであれば、宮出し・宮渡御・宮入りなどの進行中の時に同好会の幹部連中や暴力団関係者などは本社宮神輿の担ぎ棒の上に神事や神前に関係無く、イベント的な感覚で乗るでしょう!!。最後に、浅草神社奉賛会や浅草観光連盟など三社祭に関して、古式庭祭礼とか古式堂上げ堂下げなど言った様に、古式何々の言葉を使われます。これは、古式の意味合いとは関係は無いと思いますが、古来からの神輿乗り?は神職姿の男子が前後の担ぎ棒の上に各1人づつ乗って行っていた歴史があった様です。現在の担ぎ手は半纏姿が主流ですがら、古来の担ぎ手の姿は白丁に烏帽子姿と言う神職姿で神輿担ぎをしていた様です。現在では赤坂日枝神社の山王祭や神田祭、そして、日光東照宮の祭礼などに行う神輿や鳳輦の神幸祭の時に必ず神職姿の祭礼奉仕者が行っています。本来の浅草三社祭の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入りなどに関しては、古来の習わしとして、原点である古式の風習を行うことも必要でしょう!!。つまり、浅草古式三社祭のことです。古式宮出し・古式宮渡御・古式宮入りなどの古式神事祭礼の遣り方を是非とも行って頂きたいと思います!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2008年10月28日 (火) 01時52分

本年(平成21年)の浅草三社祭は本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入りが復活するそうです。しかし、宮出し等が再び行われ、本社宮神輿を担げることは、地元浅草の三社氏子にすれば本当に嬉しいことでしょう!!。しかし、一昨年(平成19年)の二の舞に為らないことだけを祈るしかないでしょうね!!。もし、誰かが忠告を無視して本社宮神輿の担ぎ棒の上に乗る者が出現した場合、浅草神社と祭礼執行部である浅草神社奉賛会は来年(平成22年)以降の宮出し等の在り方をどの様に考え取り組むるのか!?心配である。以上の理由に対して、奉賛会関係者・氏子町会関係者・宮頭関係者等が渡御中や駐停中等の時に本社宮神輿の担ぎ棒や神輿置き台ウマ等の上に特別な権限や如何なる理由で乗る様な行為が少しでもあれば、同好会の神輿乗りをする連中は、それを口実にして、本社宮神輿の上に必ず乗るでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年1月16日 (金) 23時47分

浅草三社祭の宮出し・宮入り等で神輿乗りをする者が絶対に出ないと言う保証は何処にもありません。神輿の上に何人足りナンピトタリとも乗ることを断固としで厳禁すると誓約があっても、浅草神社奉賛会・宮頭・各町会役員等の関係者は色々と誇示付けで神輿乗りをするからです。本社宮神輿が渡御中の時であろうとも駐停中の時であろうとも神輿の上に乗ったことに変わりがないからです。即ち、色々な口実を言って神輿乗りをするぐらいなら、規則や規制等と言った条件の範囲内に従事することを必ず厳守し約束すれば、ある程度の神輿乗りを容認する必要があるでしょう!!。何故なら!、宮入り道中や蔵入れの儀の時に必ず行われる宮頭の木遣り唄が無くなり、本来の浅草三社祭らしい!!見応えのある醍醐味が失われてしまうからです。あの、木遣りの後に一本締めで本社宮神輿を気合いで担ぎ上げる光景は日本全国の中を何処探しても見当たらないからです。迫力や勢いの無い浅草三社祭は全く価値も意味も無い浅草三社祭にして欲しくはありません。今後の浅草三社の若手氏子達が団結して、神輿乗りは自分達で仕切るぐらいの意気込みを心に抱いて是非!頑張って頂きたいと思います!!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年1月25日 (日) 22時45分

間吊田和志輿為さま

いつもご丁寧なコメントありがとうございます。そうですか、今年は宮出しが復活するんですね。

でも、一昨年のように逮捕者がでるような騒ぎは見たくありませんね。

今年あたり、久しぶりに三社祭りを見に出かけようか,と考えているのですが。

投稿: 小言こうべい | 2009年1月25日 (日) 23時07分

今度は神輿を担ぎ練り歩く時には必ず掛け声を発するでしょう!!。その掛け声について色々とカキコをしたいと思います。神輿を担ぐ時に様々な掛け声があるでしょう!!。その掛け声自体も地方や地域によって掛け声の仕方・方法・言葉の文句等も異なり違っているでしょう!!。ところで、最近というよりは今から約10年位以前から、セイヤ!とかセイヤ!と言った掛け声が地方から流行り出し、今では浅草三社祭・神田祭・下谷祭・鳥越祭等の東京江戸下町の祭礼がセイヤ!・ソイヤ!の掛け声が主流?になっているようです。そのセイヤ!とソイヤ!の語源については色々と諸説がありますが、その諸説の中の一つの説としてカキコを致します。ところで、セイヤ!・ソイヤ!のイヤ!とは禮事イヤゴトの禮イヤ!が語源のようです。禮イヤの意味合いは心より感謝し敬うことになるでしょう!!。セイヤ!・ソイヤ!の元来の掛け声はオイヤ!が由来とされているようです。そのオイヤ!とは御禮オンレイの訓読みで、特にですが、神事の時に用いる言葉のようです。本来は、セイヤ!・ソイヤ!で神輿を担ぐのでは無く御禮オンレイの神事の呼び方のオイヤ!で担ぐことが正当な掛け声とされているようです。浅草・神田・下谷・鳥越等の祭礼の中で町会によっては、セイヤ!・ソイヤ!の掛け声をすると厳重に注意される町会があるので必ず注意して下さい!!。以前はオイサ!の語源について説明を致しましたが、深川祭のワッショイ!の掛け声以外の殆どの東京江戸下町の神事祭礼の掛け声については、オイサ!・オイヤ!・オイリャ!・オリャ!等ぐらいでしょう!!。それから、オイサ!の掛け声は全国的で、福岡の博多祇園山笠の曳き山もオイサ!です。他の地方や地域でもオイサ!の掛け声が多く、ワッショイ!の掛け声と二分される掛け声となるでしょう!!。また、オイサ!の語源には様々な諸説ある中で新たな説として「追い去れ!」の言葉が転訛した説もあるようです。つまり、「追い去れ!」とは邪気や疫病神等を追い払って去る意味合いとなるでしょう!!。また、セイヤ!・ソイヤ!の掛け声が特に地方の方で流行った理由は、様々な掛け声が色々と混ざり合い、それが何故か!?、セイヤ!とかソイヤ!の言葉に聴き間違えたことが原因とされる説があるようです!!!!。でも、神輿担ぎの時の本来の掛け声の理由は神への感謝と賛美する為にあるでしょう!!。祭礼とは土地の鎮守である氏神様を中心にして、その土地が神不在にしない目的の為と、何よりなことは、神を知る為であり、神を忘れない為であり、神を見失わない為に神事祭礼の行事が年に一回は執り行う意味合いがあるでしょう!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年1月26日 (月) 01時40分

小言こうべい様へ。時折ながらコメントのカキコさせて頂き誠に有難うございます。ところで、カキコの中、所々に誤字や文章の書き間違えが多く本当に澄みません。私自身、カキコに対しては余りにも不慣れなところがあるので何卒ご理解の程ご容赦下さいませ!!。それからですが、今年の浅草三社祭の本社宮神輿の神輿乗りの問題については、あの事件以来より色々と騒がれていることはご存知のことと思います。あの事件以前迄は浅草三社祭の宮出しや宮入り等の時に宮頭と言われる地元浅草の鳶職の頭連中の代表が本社宮神輿の保護と行き先方向へ誘導する目的の為に前後の担ぎ棒の先端部に各1~3人迄で前後合わせて6人迄が神輿乗りの人数制限と言われているようです。そしてまた、その事件以前迄の神輿乗りに対しては主宰の浅草神社や執行の浅草神社奉賛会、浅草警察署と蔵前警察署等はある意味程度として容認(黙認)されていたことは申す迄もありません。過去に於いて一時期は一之宮・二之宮・三之宮の文字が背中に印した宮半纏を着て神輿乗りをしていた時代がありました。その様な経緯から一部の神輿同好会が宮頭の真似事をする様になり、神輿の乗り方や担ぎ方も全く知らない神輿同好会が増え、その神輿同好会自体も連合組織体制で勢力が拡大され、その裏側には暴力団関係者等が存在し、神輿乗りを遣りたい放題の好き勝手に行っていることも言う迄もないでしょう!!。今後に付きましては、神輿乗りのことよりも神輿同好会自体に問題があることは申す迄もありません!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年1月26日 (月) 11時46分

浅草三社祭の宮出しや宮入り等の際に同好会の担ぎ手が本社宮神輿の担ぎ棒の上に乗る様になったのは昭和50年代初頭以降からのようで、それ以前迄は宮頭と言われる浅草の鳶頭連中の代表が中心的存在となって、本社宮神輿本体の保護と本社宮神輿の行先方向を安全に誘導する目的と、その役目の為に本社宮神輿の先端部の上に乗る行為は言う迄もありません。また、それ以前迄の宮頭以外の同好会の担ぎ手の神輿乗りに関しては現在の様に殆ど居無く、本社宮神輿の担ぎ棒の上に乗っても、せいぜい1人か2人迄位しか神輿乗りをする者だけしかいませんでした。その理由については、その当時の同好会と言っても、地元は浅草のテキ屋と壺振りを生業としている方々で、その方々の責任者(親分)も厳格な人が健在の時代で、その責任者の許可無く勝手に本社宮神輿の担ぎ棒の上に無断で乗ることが断じて出来ない頃でした!!。もし、責任者の許可も無く無断で乗った場合は必ずと言っても良い程に指詰め破門とされていた時代のようでした。しかし、現在では厳格な責任者が殆ど居無くなってしまい!!、今は指詰め破門も無く、好き勝手の遣りたい放題です。どう仕様も無い状態であることは申す迄もないでしょう!!。浅草周辺は元より、都内や関東近辺に、そして、日本全国からの神輿同好会が浅草の三社祭や鳥越祭等に参入する様になり、その神輿同好会自体が共同連合と言う組織体制にし、その組織の裏側に暴力団関係者がケツ持ちして組織力を強化し拡大化していることは言う迄もありません!!。幾ら、主宰側の浅草神社と執行役の浅草神社奉賛会、そして、浅草と蔵前の警察署等が忠告や警告したところで、神輿同好会の連中達は誰一人も聞く耳も無く、素直に従う者は決して居ないでしょう!!。例え、神輿乗りをして警察に逮捕されても、彼等にとっては名誉に過ぎません!!。その理由は、彼等、つまり、暴力団関係者が各神輿同好会を合法的に寄せ集めて連合組織体制にし、各神輿同好会の存在を意図的に悪用しているからです。それにまた、暴力団関係者や神輿同好会等に対して抑圧しても、反発するだけの勢力体制が出来ているので手に負えない状況であることは言うまで無いでしょう!!。それにより、今後の神輿同好会(神輿同好会半纏着用者のみ)の宮出しと宮入り等に参加する希望者は有料化(参考、各1人に付き5000円)とする。神輿乗りの希望者は各神輿同好会の場合については、各神輿同好会の中、希望者を1~4人迄を制限人数とし、各氏子町会の役員関係者の場合については1~6人迄を制限人数と致します。また、それに対しての神輿乗りの制限時間は各1人に付き約15分間位迄と致します。神輿乗りを行う場合は、絶対に裸になり刺青等を神事祭礼の最中の場所で絶対に露出しては為らない!!。神輿乗りの希望者は、浅草神社奉賛会と各氏子町会等が公認する特別指定の半纏のみを着用し、祭礼の実行役の宮頭の指示に従い行動をすること。本社宮神輿を丁重に扱い大事にすることです。本社宮神輿を如何なる理由も無く、本社宮神輿本体を地面に直接置くことは断固厳禁とする。もし、本社宮神輿を降ろし置く時は必ず!神輿の置き台ウマを常備し、置き台ウマを使用することとする。本社宮神輿の神輿乗りをする格好については、黒色か紺色(藍染)の腹掛けに股引きに草鞋履き姿で特別指定の半纏着用で必ず帯を巻き結ぶことにする。神輿乗りの最中時に絶対特別指定の半纏を勝手に脱ぎ捨てる行為側あった場合は、多額の制裁金(罰則金)を強制的に支払う義務化にする。また、無断で神輿乗りをした神輿同好会の担ぎ手が現れ出た場合は、その神輿同好会全体の連帯責任を取らせ、制裁金(罰則金)を強制的に支払う義務とする。以上の項目を神輿乗りの規制と規則とし、その規制と規則等を忠実に従事すれば神輿乗りを容認とすれば良いと私個人的の意見です。本社宮神輿の神輿乗りの人数制限は前後の担ぎ棒に各1~3人迄で前後合わせて6人迄を制限とする。でも、これは私の理想的思案であり、今後の為の夢に過ぎませんのでご理解下さい!!。また、それ以上に、浅草三社様の若手氏子達が本社宮神輿の担ぎ棒に乗るぐらいの意気込みと心意気を見せる様に頑張って頂きたいです!!!!!!!!!!。浅草三社祭は浅草三社氏子の為の神事祭礼の為にあるからです!!!!!!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年1月28日 (水) 02時17分

以前と言うより、本来の浅草三社祭の本社宮神輿に関しての宮出し・宮渡御・宮入り等の最中時で神輿乗りをする行為よりも本社宮神輿の先棒ハナ(担ぎ棒の右肩中棒の先端部)で担ぐことは浅草三社氏子達にとっては大変名誉であり、それが、浅草三社祭の本社宮神輿への神髄であり醍醐味であり原点です!!。浅草三社祭に参加し、本社宮神輿の先棒ハナを担いだ者だけしか、その至福の実感を味わうことは出来ないないでしょう!!。何故なら、本社宮神輿の先棒ハナを担ぐことは神輿乗りをするよりも至難のワザだからです!!。改めて、もう一度、原点に立ち戻る必要があるでしょう!!。それから、現在の宮出しの在り方については、氏子宮出しが約20分間位で、それに対し、同好会宮出しは約2時間以上もおこなわれる程です。氏子宮出しに参加する人数は各町会から約30人位迄で、人数が超過した町会半纏着用の担ぎ手は同好会宮出しの方へ仕方無く参加させられます。しかし、本社宮神輿の側に近付くことも何よりも担ぐことなどは絶対に出来ません!!。本社宮神輿に近付く迄の間に身体に絵柄入りの連中達に袋叩きに遭うだけです。その事実の状況を考慮し、氏子宮出しの執行時間を約60分間位迄とし、同好会宮出しの執行時間を約90分間位迄にすることです。氏子町会半纏着用の担ぎ手は全て氏子宮出しに参加し、社殿前から本社宮神輿を担ぎ上げて、神社境内から鳥居の外へぬけ出し、浅草寺の本堂を一周した後に、浅草寺と浅草神社の間の通り迄を氏子宮出しとし、同好会宮出しの場合は宮出し道中として引き渡しの氏子町会迄の宮渡御を本社宮神輿の担ぎ出しを行う様にすれば良いと思う次第です。神輿同好会に担ぎ時間が約2時間もあれば、同好会の担ぎ手関係者が神輿乗りをすることは必然的現象です。本来なら約60分間もあれば充分です。残りの30分間は予備と有余の為の時間です。もう一度!原点に立ち返って浅草三社祭を再認識すべきでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年1月28日 (水) 05時00分

今回は手締めについて説明をしたいと思います。さて先ず初めに、手締めを行う前に必ずイヨーの言葉を発声してから手を三拍・三拍・三拍・一拍で打ち鳴らします。そのイヨーの言葉の語源が祝おう!の言葉が転訛した説とされているようですが、祝おう!は諸説の中の一つの説に過ぎません!!。その他の説では、陰陽インヨウの言葉が転訛した説もあるようです。また、愈々イヨイヨのイヨの言葉が転訛した説や彌榮イヤサカの言葉が転訛した説もあるようです。陰陽の意味合いについては、陰陽五行説に由来し、宇宙界・自然界・物事等の中に陰と陽は相反する相対的な存在としているようですが、本来の陰と陽の目的としての意味合いは調和・中道・超越・統一・統合・和合等を目指す為に陰と陽は相対しているでしょう!!。つまり、陰陽インヨウのイヨーとは全ての物事が一つに納めて仲良くしましょう!と言うことになるようです!!。また、神社や神棚等の神前で二礼・二拍・一礼の儀式を行う柏手があります。その柏手の二礼と二拍は陰と陽を示し表しているようです。つまり、本来の柏手の意味合いは神に対して自身の心を調和させてから神に感謝する神道の礼儀作法の神事となるようです。その柏手の二礼とは神に感謝の為にし、二拍は神に自身の存在を伝え知らせる為にし、最後の一礼は神に対し一心に祈る意味合いとなるでしょう!!。それから、愈々イヨイヨのイヨの言葉の語源は今から!とか此れから!等が意味合いとなるでしょう!!。最後に、彌榮イヤサカの言葉については、益々繁栄します様に!が意味合いとなるでしょう!!。その彌榮イヤサカのイヨーとは彌榮イヤサカの彌イヤの言葉自体が変声語となっているようです。以上の掛け声の前に行うイヨーの掛け声については色々な諸説があるので、イヨーを祝おう!と定義付ける事自体に問題があるでしょう!!。明くまでも、祝おう!は諸説の中の一説に過ぎないことをご理解して頂きなくたく思います。例えば、神輿を担ぎ上げの前と神輿渡御の後に必ず手締めの儀式を行う理由については単なる祝う!だけでは無いでしょう!!。即ち、祭礼は祝い事である前に神事であることを承知する必要があると思います!!。次に、手締めには、地方や地域によって手締めの作法が異なっているようです。その手締めの種類については、仙台の伊達締め・東京の江戸締め・大阪の上方締め・福岡の博多締め等が特に有名で、その他には、小規模な土地や地域だけしかない伝統的な手締めもあるようです。その中で、全国的に知られている手締めは三拍・三拍・三拍・一拍の作法で行われる東京の江戸締めが一般的に知られているでしょう!!。三拍・三拍・三拍を足して九拍に成り、その九の漢数文字の中に一拍の一の漢数文字を丶チュの文字とし、九の漢数文字に丶の文字を付け加えると丸の文字に成ります。その丶チュの文字の意味合いとは、物事を納め留めること。または、これ以上の物事が無いこと。それにまた、物事の完璧等になるでしょう!!。即ち、九に丶を付け加えて丸の文字が成立する意味合いは物事が円満に完成することになるでしょう!!。そして、その手締めを行う前のイヨーの言葉の存在とは物事の円満を完璧に完成させることにより、物事の調和や統一が成り立つ意味合いもあるでしょう!!。それから、手締めの呼び名について説明致します。手締めは元々の呼び名は手打ちと呼ばれていたようです。では何故!?、手打ちが手締めになった理由も色々な諸説があるようです。その諸説の中で、ある一説には、江戸時代頃の江戸の場所は武士中心の社会であった為、当時の江戸に住む町人達は手打ちの言葉が手討ちの言葉と勘違いをするので手打ちを手締めに改めたようです!!。特にですが、東京だけが江戸時代からの由来で手締めと呼ばれ、東京以外の地方や地域では手打ちと言われている所以のようです!!。それに、江戸時代の江戸は火事と喧嘩は江戸の華と言われ、江戸の街で火事が起きると火消しの組連中が纒を持ちながら火事場へ駆け付け、その組連中が火場事の取り合いで火消し同士が喧嘩になる始末の江戸でした。その喧嘩後の仲裁する目的の為に手締めの儀式を行われることがあるでしょう!!。その理由の説としては、円満解決を目指す為に手締めを行っていたようです!!。祭礼の手締めの場合についても同様で、意味合いとしては、東京を中心とした祭礼の時に、神輿の担ぎ上げと神輿渡御の後に手締めをする行為の理由とは、担ぎ弖や見物人に喧嘩や怪我が無く、全てが仲良く神事祭礼が執り行われます様に!の意味合いが込められているでしょう!!。本来の手締めの作法については、先ず初めにイヨーの掛け声と共に、相手や周囲の人達に対して自分には武器等が無いことを証明する為の意思表示として自分の掌を見せ付けてから三拍・三拍・三拍・一拍で手を打ち鳴らします。そうして、手を打ち鳴らした後は必ず一礼をした時には頭を下げ、その時に手を捧げ物する様な格好で行うのが本来の正式な手締めとされているようです!!。その手を締めた後に必ず行う一礼の儀式の由来は神前礼法にあるようです!!。つまり、手締めを行う時は、神の存在を前提にして手を打ち鳴らすようです!!。手締めとは手を仕舞い納めることになるでしょう!!。それから、手締めには一本締めと三本締めの二種類の作法しかありません。二本締めの手締めが無い理由は物事が二つに分離される意味合いになるので二本締めの手締めは絶対に行わない理由はその為のようです。それからですが、本来一の本締めの由来は神の為にするでしょう!!。三本締めの由来については様々な諸説がありますが、その中で、酉の市の三本締めの意味合いは家内安全・商売繁盛・無病息災の三つの事柄が込められているでしょう!!。歌舞伎や芸能の場合は、芝居会場の提供者の為に・芝居に参加している共演者の為に・芝居会場に見に来ている客の為に三本締めの手締めが行われるようです。また、それ以外の説としては、三本締めの一番目は神の為にします。二番目は自身の為にします。三番目は自身に関わりや縁ある人達の為にします。他にも三本締めの手締めの由来についての諸説がありますが、その中の代表的な意味合いを三つだけの説をカキコ致しました。それから最後に、一拍だけの手締めがあるようです。その一拍を一本締め?と誤解する人がいます。一拍だけの手締めのことを一丁締めとか、関東一本締めと呼ぶようです。その関東一本締めとは東京以外の関東地方周辺の土地や地域で流行り出した手締めの一種で、元々の関東一本締めの遣り方は、手締めの音頭を執る代表者が三拍・三拍・三拍を一人で行った後に、最後の一拍だけを参加者全員で行うのが関東一本締めと呼ばれていたようです。それが段々に簡略化されて最後の一拍だけになった理由のようです!!。特にですが、一丁締めや関東一本締めの手締め?を浅草・神田・深川等の場所は江戸から伝統のある下町で遣ることは本来としては、邪道となる恐れがあるので、その場所柄の雰囲気等に注意した上で手締めを行うように心掛けましょう!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月 1日 (日) 21時50分

す。そうして、手を打ち鳴らした後は必ず一礼をした時には頭を下げ、その時に手を捧げ物する様な格好で行うのが本来の正式な手締めとされているようです!!。その手を締めた後に必ず行う一礼の儀式の由来は神前礼法にあるようです!!。つまり、手締めを行う時は、神の存在を前提にして手を打ち鳴らすようです!!。手締めとは手を仕舞い納めることになるでしょう!!。それから、手締めには一本締めと三本締めの二種類の作法しかありません。二本締めの手締めが無い理由は物事が二つに分離される意味合いになるので二本締めの手締めは絶対に行わない理由はその為のようです。それからですが、本来一の本締めの由来は神の為にするでしょう!!。三本締めの由来については様々な諸説がありますが、その中で、酉の市の三本締めの意味合いは家内安全・商売繁盛・無病息災の三つの事柄が込められているでしょう!!。歌舞伎や芸能の場合は、芝居会場の提供者の為に・芝居に参加している共演者の為に・芝居会場に見に来ている客の為に三本締めの手締めが行われるようです。また、それ以外の説としては、三本締めの一番目は神の為にします。二番目は自身の為にします。三番目は自身に関わりや縁ある人達の為にします。他にも三本締めの手締めの由来についての諸説がありますが、その中の代表的な意味合いを三つだけの説をカキコ致しました。それから最後に、一拍だけの手締めがあるようです。その一拍を一本締め?と誤解する人がいます。一拍だけの手締めのことを一丁締めとか、関東一本締めと呼ぶようです。その関東一本締めとは東京以外の関東地方周辺の土地や地域で流行り出した手締めの一種で、元々の関東一本締めの遣り方は、手締めの音頭を執る代表者が三拍・三拍・三拍を一人で行った後に、最後の一拍だけを参加者全員で行うのが関東一本締めと呼ばれていたようです。それが段々に簡略化されて最後の一拍だけになった理由のようです!!。特にですが、一丁締めや関東一本締めの手締め?を浅草・神田・深川等の場所は江戸から伝統のある下町であるので必ず、正統の三拍・三拍・三拍・一拍の江戸締めで手締めを行うことを心掛けましょう!!。一丁締めや関東一本締めと呼ばれる手締めを行うと、その場所に生まれ育った人達に対しては大変失礼な行為となる恐れがあるので必ず注意した上で手締めを行うように心掛けましょう!!。また、浅草の三社祭や鳥越祭、神田祭に深川祭等の神事祭礼に参加し、神輿を担ぐ者達は一丁締めとか関東一本締めの手締めは邪道とされるので、どの様な場所柄でも一拍はせずに三拍・三拍・三拍・一拍の正式な手締めを行う風習を守り続けていることは言う迄もないでしょう!!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月 1日 (日) 22時51分

手打ちの手を打つ方法と手締めの手締めを締める方法との意味合いの相違点について説明をしたいと思います。ところで、手打ちの手を打つ本来の意味合いは相手より先に手を打ち、相手を抑え付ける意味合いとなるでしょう!!。つまり、自身の立場を優位とし相手の立場を抑圧する目的としての意味合いで、手を打つことになっているでしょう!!。それに対し、手締めについての手を締める本来の意味合とは手を結んで物事を納めることになるでしょう!!。つまり、手打ちの手を打つ意味合いと手締めの手を締める意味合いは建前的としては同意語になるようですが本音的としては根本的に意味合いが相違していることは根底にあるでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月 2日 (月) 03時10分

手締めのイヨーの言葉の語源とされている、祝おう!・陰陽・彌榮等の意味合いは個別的に異なっていますが、イヨー!の言葉を発声することにより、その異なる意味合い自体も総合的に集約され込められているでしょう!!。また、それと同類に、神輿を担ぎ練り歩く時に発声する様々な掛け声に対する言葉の意味合いや語源も個別的には異なっていますが、オイサ!・オリャ!・オイリャ!オイヤ!・ワッショイ!等の様々な掛け声を発声することで総合的に集約され込められているでしょう!!。例えば、オイサ!の掛け声の言葉の語源には、御勇・御諌・御功・御社オンシャお伊勢・ヨイショ!・エイサ!・追い去れ!等の言葉が転訛して、異なる語源や意味合いになっていますが、オイサ!の言葉を発声することによりオイサ!の語源や意味合い等が総合的に集約され込められていることを理解する必要があるでしょう!!。手締めにしても掛け声にしても、その全ては神の存在を前提にして、執り行う目的の為にあるようです!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月 3日 (火) 15時23分

今年(平成21年度)の浅草三社祭の本社宮神輿の宮出しと宮入り等の方法が変わるようです。通常の宮出しの場合は一之宮だけを鳥居の外側に出しますが、現在、浅草神社の社務所の建て替え工事と二天門の修復工事等の都合で、今年の宮出しは本社宮神輿三基全部を鳥居の外側に出して行われる予定です。また、今後に於いて、当日間近になってから宮出し等の方法が変更になるかも知れませんので、今のところは悪しからずです。それから、本社宮神輿の神輿乗りの是非については、地元浅草の三社氏子連中は元より、浅草周辺の神輿同好会連中や地方からの神輿同好会連中等は賛否両論の議論の最中のようです。私の個人的な意見としては条件付きで神輿乗りを行えば良いと思っている次第です。その理由については、以前にカキコした意見内容の通りです。本音を申せば、上手に神輿乗りをして、上手に神輿を担げば、神輿の担ぎ棒が折れるようなことは無かったでしょう!!。それに、関西方面の広域暴力団組織が東京方面へ進出し、東京に本部がある右翼?団体組織を傘下にしたことは有名で、その影響の所為もあって、警視庁直々からの圧力で去年(平成20年度)の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入り等が全面的に中止になったと言う説もあったようです。その為、主宰側の浅草神社や執行部の浅草神社奉賛会等は警察権力の意向に従い止むを得ず中止に至った説があったようです。また、暴力団組員が拳銃?か刃物?等を所持していた為に、暴力団同士の抗争事件を浅草三社祭の最中に起きるのではないか?とウワサ?になり、中止になった説もあったようです。しかし、浅草三社祭の本社宮神輿の宮出し等に参加している担ぎ手は皆命懸けで遣っています。神輿の上に乗る前に神輿の下敷きになって死ぬ馬鹿もいます。あばら骨や歯の二・三本位は折れても気付かないでいる阿呆もいます。また、明日のことなどを考える暇も余裕も無く一心不乱で一生懸命に宮出しに参加する担ぎ手達がいることを何卒ご理解下さい!!。それだけ、浅草三社祭を心から愛し、宮出しに参加することが何よりも名誉と思い込んでいるんでしょうね!!!!!!。小言こうべい様、今年の三社祭の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入り等を是非とも見に来て下さい!!。また、浅草に知人友人等がいましたら、見物だけではなく一度位は神輿を担いで下さいませ!!。最後に、東京江戸下町の祭礼の中で特に三社の宮出しか鳥越の宮入りかと言われるほど有名です。共に浅草の神事祭礼であります。そして、鳥越締めと言う手締めの仕方があります。その鳥越締めの遣り方を実際に見に行って確かめて下さいませ!!!!!!。以上。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月 5日 (木) 00時20分

浅草寺センソウジ(通称名、浅草観音アサクサカンノン)は都内の初詣人数で明治神宮に次いで第2位で、全国の中でもベスト10位内には必ず入る程の有名な観光名所の御寺です。歴史も大変古く、今から約1350年以上も前の推古天皇頃の時代で仏教伝来から約90年以後位に建てられた御寺のようです。その後、平安時代中期頃に平公雅(平将門の従兄弟)の時代に現在の場所に創建されたようです。しかし、それに対して、普段の浅草神社の方は浅草寺の影に隠れ、ひっそりとした余り目立つことの無い神社です。今の浅草神社の社殿は徳川三代将軍家光公の時に建てられた神社で、震災や戦災等の幾多の災難から間逃れた神社です。歴史としては日光東照宮と同じ時代に創建され、当初は浅草東照宮三社大権現社と呼ばれていた時代があったようです。浅草神社の御祭神である土師真中知命ハジのマツチのミコト(他に様々な呼び名あり、マナカチ。真中知の真の文字を直の文字説があり、アタイのナカトモと呼ばれる説もあり。また、土師の呼び名については、東日本側ではハジと呼ばれ、西日本側ではハゼ・ハセと呼ばれる説あり。)の祖は相撲の開祖?と言われる野見宿禰ノミのスクネの一族であると言う説があるようです。その野見氏族は出雲氏族に属し、仏教伝来の当時は、特に寺院の建造や仏像等の彫刻を作成した専門職の家系で渡来帰化人の説があるようです。野見氏族の野見は大工道具の鑿ノミから名付けられた説もあるようです!!。宿禰とは八色の姓ヤクサのカバネが由来しているようです。野見宿禰は当麻蹴速トウマのケリハヤと相撲(現在の相撲形式とは異なり、相手を撲殺や絞殺するまで闘い続ける試合?のようです。)を取って、当麻蹴速に勝った野見宿禰は当麻蹴速の領地である大和奈良の地が与えられ、野見氏族の姓から土師氏族の姓に改名された説があるようです。そして、土師氏族の一族から菅原氏族が誕生し、その菅原氏族の中に菅原道真が存在する由緒ある家系のようです!!。因みに、菅原道真の家紋は梅の紋様ですが、その菅原氏族の一族の中に網の紋様とする氏族が存在するようです。それから、檜前浜成ヒノクマのハマナリ(ハマナルの説あり。)と竹成タケナリ(タケナルの説あり。)の兄弟は土師真中知の家臣的存在で、現在の奈良県明日香地方が檜前氏族の発祥地とされている説があるようです!!。これは明くまでも、私個人の推論に過ぎませんが、当時の天皇である推古天皇の命を受け、武蔵の浅草の地に仏教の布教の起点として意図的に浅草寺が建造されたのではないか?と推測しています。また、浅草寺、つまり浅草の地が隅田川(当時の呼び名は宮戸川の西岸に位置していることから西方浄土を根本的思想として浅草寺が建立されたのではないか?と推測する次第です。明くまでも、私の個人的な解釈ですので何卒ご理解の上、お許し下さい!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月 5日 (木) 15時42分

普段の浅草神社の方は、参拝者や観光客等に見向き足向きされることは殆どありません。唯単に浅草寺を参拝し、そのままUターンをして仲見世で土産物か何処かの老舗と言われる天婦羅屋か蕎麦屋かうなぎ屋に立ち寄って帰るぐらいでしょうね。しかし、花見の時季が終る頃になると浅草神社の垣根の上辺りや浅草の街全体に三社祭の文字を書き記した軒提灯が飾られ、その頃の浅草神社は表舞台の主役となり、浅草は三社祭一色に成ります。ところで、浅草三社祭は浅草寺の催し事と想う方もいますが、列記とした浅草神社の祭礼で神事です!!。また、浅草寺の催し事も兼ねているでしょう!!。元々の浅草三社祭は江戸時代末期迄は浅草観音祭と呼ばれ、浅草寺と浅草神社が共同主催の祭礼行事でした。特に、日曜日の本社宮神輿の宮出し開始の挨拶の時、浅草神社奉賛会の会長らしき人物が社殿の前から「本社大神輿ホンシャダイジンヨ一之宮には土師真(直)中知命ハジのアタイのナカトモのミコトの御神霊オンミタマが鎮座しております。本社大神輿二之宮には檜前浜成命ヒノクマのハマナリのミコトの御神霊が鎮座しております。本社大神輿三之宮には檜前竹成命ヒノクマのタケナリのミコトの御神霊が鎮座しております。よって!、三体の本社大神輿のには3人の御神霊を納め祀られていますので、何人足り何人足りとも神輿の上に乗ることを禁じます!!。」と説明をした後に、宮頭の一本締めで本社宮神輿を三社氏子の若手の担ぎ手連中達が氏子宮出しを一番目に行い、その二番目に一般(同好会)宮出しが行われます。そして、東西南の各三方面の氏子町会へ本社宮渡御として引き渡され、宮入り迄は様々な担ぎ手連中達によって、本社宮神輿を担ぎ練り歩きます!!。因みにですが、練りの意味合いは、地を神の足に代わって担ぎ手達の足が地を練り清める行為とされているようです!!。即ち、練りとは地鎮のことの意味合いと同様で、渡御の意味合いも同じとなるでしょう!!。例えば、地方の神輿渡御では担ぎ手が神輿を担ぎながら田畑の中に入って豊作祈願をするでしょう!!。また、川や海の中に神輿を担ぎながら入って大漁祈願をするでしょう!!。その本社宮渡御と言われる神社の大神輿を担ぎ練り歩くことの目的は、神不在の地にしない為にあるでしょう!!!!。最後に土師氏族は元々、土偶(埴輪)・土器・古墳等を作ったり、特に、未開発の土地を整備開拓する役職をしていた氏族のようです!!。また、檜前の氏族も同様で土師氏族に準じて従事していた説があるようです!!!!!!。それよりも、浅草三社祭の時ではなく、普段の浅草神社へ浅草寺の次いででも結構ですので浅草三社様の方へ立ち寄り参拝して頂きたいと思います!!!!!!。また、土師真中知・檜前浜成・檜前竹成の三人は只の漁師の家柄の?人間では無いことだけをご理解の程に承知下さい!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月 6日 (金) 02時31分

特に最近の神輿担ぎの掛け声の中で、セイヤ!・ソイヤ!が今から約10数年位前から流行り出し、今では、浅草の三社祭や鳥越祭、そして、神田祭等の深川祭のワッショイ!の掛け声を除く殆どの東京江戸下町の祭礼自体セイヤ!・ソイヤ!の掛け声が主流的定着化になりつつあります。ところで、しかしながら、それ以前の掛け声には、セイヤ!・ソイヤ!の掛け声は全く存在しませんでした!!。その理由については色々な諸説がある為、定説としての具体的な説がありません。その諸説の中のある一説には、ある何処かの新聞記事に浅草三社祭の掛け声なことについて掲載されていて、その掲載の活字に掛け声の言葉の表現をセイヤ!・ソイヤ!にしてしまったことが素も素もの原因のようです。多分ですが、新聞記者が掛け声自体を集音マイクで録音し、その担ぎ手の様々な掛け声が混ざり合い、その混合された掛け声の音声がセイヤ!・ソイヤ!の言葉と勝手に解釈し勘違いされてしまい、それを新聞の活字として掲載されたことが原因のようです。本来の掛け声の中ひオイサ!(御諌・御勇・御功・追い去れ等の意味合いが語源とする説)・オリャ!(ハレルヤ!『神を讃えよ』の意味合いが転訛して語源になった説)等と同様にオイヤ!の言葉の掛け声があります。そのオイヤ!の意味合いについては、御禮オンレイと書いて御禮オイヤ!と呼びます。つまり、禮事イヤゴトの禮イヤのです。意味合いとしては『神に感謝し敬い奉りましょう!!』となるようです。他には、彌榮イヤサカ(『益々繁栄』が意味合い)の彌イヤの言葉も語源とされ、御彌オイヤ!の説もあるようです。ところで、ハレルヤとか禮イヤ・彌イヤの語尾には必ずヤの言葉が存在しています。このヤとは古代ユダヤ(ヘブライ)の言葉でヤーベ(ヤーウェ)即ち神を示しているそうです。神輿を担ぐ時に必ず掛け声を発する由来は重要で大事なことであることは理解して頂きたく思います。そして、セイヤ!・ソイヤ!の掛け声自体の元々の由来は御禮オイヤ・御彌オイヤ等が語源のようですのでご理解下さいませ!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月16日 (月) 05時29分

度々のことで誠に澄みません。前回の私が書き込んだコメントの中の文面自体に数多くの誤字がありましたことを心よりお詫び致します。本当に申し訳ございません。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月19日 (木) 02時06分

神輿と御輿と御神輿について説明をしたいと思います。先ず最初に、神輿は文字通り神の輿と書きます。即ち、輿の箱の中に御神体(御神霊)を入れ、奉り納めて安置したことを言うでしょう。その為、特に、宗教的意味合いに神輿の文字が用いられいる点にあるからです。つまり、神輿(ミコシ)の本来の正式な呼び名は、神輿(シンヨ・ジンヨ)と呼びます。それに対し、御輿は御の輿と書きます。この御の意味合いとは、高貴・尊敬等の意味合いとなるでしょう。特に、この御の輿は、皇族や貴族等の身分の高い人間が乗る輿を言うでしょう。それから、御輿(ミコシ)の本来の正式な呼び名は、御輿(オコシ・オンコシ)と呼びます。また、御神輿の意味合いについては、神輿の尊称語となるでしょう。御神輿(オミコシ・オンミコシ)の本来の正式な呼び名は、御神輿(ゴシンヨ・ゴジンヨ)と呼びます。ところで、他説では、御輿の中に御神体(御神霊)が奉納安置した状態を神輿の意味合いとして成り立つようです。また、神輿の形状については、仏教の宇宙観を表現を示す平面的な曼陀羅(曼荼羅マンダラ)を立体的に具現化した形に見えるでしょう。つまり、神輿の箱の中は宇宙界が存在し、その宇宙界の中に神を奉り納めることにより、真の神輿の意義と価値が生じるでしょう。それにですが、神輿の原形については、様々な諸説がありますが、その諸説の中の一説には旧約聖書の中に書き記されている古代ユダヤの契約の棺箱(アーク)が原形とされている説があるようです。この契約の棺箱とは、モーゼがシナイ(ホレブ)の山頂で神の啓示である十戒を書き刻んだ石板が収められている説があるようです。また、モーゼの十戒の石板の他にアロン(モーゼの実兄)の杖等が収められている説もあるようです。それに、契約の棺箱の屋根蓋には二対のケルビム(有翼天使)の像が契約の棺箱を守護(保護)する様な役目の格好で飾り付けられてるようです。ところで、この実際の契約の棺箱自体が何処にあるのか?行方不明のようです。ある説の中には、古代日本の九州地方や四国地方の何処かの山中に隠されている説があるようですが、今現在も世界中の何処を探しているそうですが、未だに発見されてはいないようです。最後に、話しは変わりますが、仏教が日本に伝来する以前に神道が存在しています。この神道にも色々と諸説はありますが、その諸説の中の一説としては、古代日本の島国に大陸からの様々民族や種族が渡来し永住しています。その各民族や種族の崇拝信仰が古代日本の風土に融合する為に完成された宗教と私個人の自説として推測致しています。特に、古代のユダヤ教が根底に関連性があるようですが、ユダヤ教は在りて有る唯一の神である一神教です。しかし、八萬(ヤヨロズ)の神が存在し、特に、ヒンドゥー教やギリシャ神話?等に登場する神々の影響も関連しているでしょう。その為、ヒンドゥー教は多神教ですが、ギリシャ神話に登場する絶対の神であるゼウスを中心に考えれば一神教ですが、全体のイメージを観た場合は多神教かも知れません。以上の説を考えると、古代日本の神道は様々な民族や種族等の各宗教が古代日本の風土に馴染むように混合し完成されたと考えている次第です。でも、これは明くまでも一種の仮説に過ぎませんので何卒ご理解下さい。また、付け加えとして、契約の棺箱にあるケルビム像は、神輿の屋根の上にある鳳凰の原形とされる説があるようです。本来の神輿の形体は神が鎮座する為の神殿であることを承知して下さい!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年2月26日 (木) 12時09分

改めて、浅草寺について説明をしたいと思います。その前に、推古天皇について説明します。推古天皇の生存期間は欽明15年(554)の生誕日不明~推古36年(628)の3月7日没説。もしくは、同年4月15日没説。また、古事記説では推古17年(629)の3月15日没説とされていますが、没説の年月日については定説不明となっているようです。それから、推古天皇の在位期間は推古元年(593)推古36年(628)の3月7日没説と同じ時期が学説的?には定説とされているようです。それに、推古天皇は即位した翌年の推古2年(594)に仏教興隆の詔(ミコトノリ)を発布し、近畿地方を中心に日本各地へ寺院の建立を行っていた時代です。ところで、浅草寺の起源は推古天皇在位36年の3月18日です。推古天皇の没説から12日後に浅草寺の起源が発祥しています。しかしながら、浅草寺の起源についての事実は不明がある為、実際の起源は推古36年(628)より以前が起源とされる説があるようです。また、推古36年(628)の4月15日没説や古事記説による推古37年(629)の3月15日等の没説以前に浅草寺の起源が発祥することは可能であると考えられますが、明確な記実が無いので事実は不明とされています。浅草寺の縁起(伝記)としては、檜前浜成と竹成の兄弟が宮戸川(現、隅田川)の駒形橋(浅草駒形堂)の付近で漁の最中に黄金に輝く一寸八分(約5.5㎝程度位)観音菩薩像が網に掬い上げられ、当時の文化人で開拓者である土師真中知の屋敷宅?に観音菩薩像を安置し、自らが仏門に帰依したのが浅草寺の縁起(伝記)とされているようです。しかし、縁起(伝記)の意味合いとは一種の神話的な伝説とされているでしょう。つまり、霊験崇拝が今日に至る信仰の現れとなり、その中で大切な事柄は、この現世で生命を持って産まれ来たのは両親や先祖の恩恵の御陰で、その両親や先祖の恩恵に心より感謝し、報恩供養する目的の為に寺院を日本各地に建立し様々な仏像が安置されたことと推測出来るでしょう。因みにですが、金龍山浅草寺と言った寺院には山号が付き存在します。この山号の語源はサンスクリットと言われる古代インドの言葉でサンガが転訛し山号になった説があるようです。サンガの意味的は教団とか修行場が意味合いとなるでしょう。しかしながら、山号が寺院に付けられる様になったのは、天台宗の伝教大師最澄と真言宗の弘法大師空海が出現以降に山号が寺院に付けられるようになり、それ以後に色々な宗派が現れ分裂していることは過言ではありません。現在の浅草寺は聖観音宗で元来は天台宗から独立した宗派とされています。でも、建立された当初は宗派が存在しない為、ある意味、宗派を超越し統一した自由な寺院であったでしょう。今現在も、そうした影響の所為があるような気がし、宗派に関係無く様々な参拝者が訪れて来ることは言う迄もありません。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年3月 6日 (金) 05時16分

浅草神社の祭神である土師真中知・檜前浜成と竹成兄弟のことについて、改めて説明をしたいと思います。先ず初めに、土師真中知の名前についてですが、土師姓の呼び名はハジ・ハゼ・ハセ・ハニシ等があり、ハセは長谷や馳の苗字に関連する説があるようです。また、ハニシは埴科の苗字に関連する説があるようです。真中知の名前の呼び名はマツチ・マナカチ、真中知の真を直の文字とする説があり、その直中知の呼び名をアタイノナカトモの呼び名あり、また、真中知の真は真人の説があり、その真人とは八色の姓(ヤクサノカバネ)が由来とする説あり、八色の姓とは一位に真人(マヒト・マビト)、二位に朝臣(アソン・アソミ)、三位に宿禰(スクネ)、四位に忌寸(イミキ)、五位に道師(ミチノシ)、六位に臣(オミ)、七位に連(ムラジ)、八位に稲置(イナギ)等と言う身分精度?を西暦684年頃に天武天皇が制定した説があったようです。しかし、土師真中知・檜前浜成・檜前竹成の人物は推古天皇の時代である西暦628年以前頃から活躍した人物で土師真人中知(ハジノマビトノナカトモ)の呼び名は死後に改めて身分を与えられた名前のようです。また、檜前浜成と竹成兄弟は宿禰か忌寸の身分が与えられていた説あるようです。それから、土師姓の先祖には相撲の開祖と言われる野見宿禰とする説があるようです。それに対し、檜前姓については色々な諸説がありますが、その諸説の中には檜隈高田皇子(ヒノクマノタカタノミコ。後の28代宣化天皇のことで在位期間は西暦537年〜539年頃の約3年間に活躍した天皇)と言われる人物が存在していました。別名を檜前天皇(ヒノクマノスメラビノミコト)と言われていた人物のようです。それにですが、仏教伝来説については、西暦538年(宣化天皇在位2年頃?)説と西暦552年(欽明天皇在位13年頃?)説の二つの説があるようです。欽明天皇の時代の仏教伝来については学説的に仏教公伝と呼ばれているようです。ところで、宣化天皇の時代の仏教伝来を考えた場合、檜前浜成と竹成兄弟の檜前姓の祖を由来としている奈良県明日香地方の檜前は深く仏教伝来に関係している土地柄のようです。それにまた、檜前姓は檜隈が原名の説があるようです。これは明くまでも一つの仮説としてですが、檜前浜成と竹成の先祖とされる檜前姓の人物が大和の飛鳥(現、明日香)から武蔵の浅草の地に移住する時に秘仏とされる一寸八分の観音菩薩像を持ち込んで来て、宮戸川(現、隅田川)の駒形橋の西岸付近の何処かの場所に隠されていたのではないかと推論できます。それからまた、余談ではありますが、浅草(アサクサ)を英文字にするとASAKUSAになります。しかし、それを逆読みにするとASUKASA(アスカサ)になります。これを漢字にすると飛鳥さ?と書くことが出来ます。しかし、古代からある地名については謎が多いので、簡単に特定の説にすることは本当に難しいところです。それに、浅草の地名の由来で、古代のチベットの言葉のアチャクチャがあるようです。意味的には聖なる地・聖なる場所となるようです。以上のように色々と歴史や地理的な事柄等を探究すると本当に謎だらけです。謎だらけだから面白く新たな関心が生まれ発見されるものと思います。以上の事柄については、明くまでも私個人の推論ですのでご容赦のほどにご理解下さい。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年3月10日 (火) 20時22分

小言こうべい様へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。いつも勝手ながら、浅草三社祭の神輿乗り等の件について、色々と書き込みをさせて頂き本当に有り難く思って居ります。ところで、大変申し訳ないことですが、書き込みの文章が途中で重複してしまいました。もし出来ればで結構です。小言こうべい様の方で文章の重複部分を修正して頂けませんでしょうか?。また、私の方で文章の修正出来る方法がありましたら是非とも教えて下さい。無理でした仕方なく諦めます。本当に本当に澄みません。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年3月10日 (火) 22時29分

間吊田和志輿為さん、

ご依頼の修正、処理いたしました。
冒頭から八色の姓の四位までの約10行半部分をカットいたしました。

ミスっていなければ安堵ですが。

誤字、脱字、当て字は、私も注意はしているのですが、多くあって気になっていることです。

投稿: 小言こうべい | 2009年3月10日 (火) 23時48分

小言こうべい様へ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。色々とご迷惑を掛けまして本当に申し訳ありません。また、何よりも私のコメントの書き込みの文章を修正して頂きまして誠に有り難うございます。ところで、誤字や脱字等の件に付きましてはご理解の出来る範囲だけで結構です。また、私個人の自説や推論でありますコメントに対し、多少の関心を持って戴ければ光栄に思う所存です。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年3月11日 (水) 02時33分

今月(3月)の17日(火曜日)と18日(水曜日)の両日に浅草寺(センソウジ)と浅草神社(アサクサジンジャ)の共同主催によります示現会(ジゲンエ)が行われる予定です。ところで、本来の示現会は浅草寺の行事で仏事ですが、日本には古来からの伝統として本地垂迹(ホンチスイジャク)と言われる神仏習合(シンブツシュウゴウ)の宗教思想が江戸時代末期の頃迄あって、明治時代になってからは仏教と神道が分離されてしまい今現在に至っているようです。本地垂迹と言う神仏習合の歴史については色々と諸説がある為、事実は不明のところですが、これは明くまでも私個人の推論として説明を致します。多分のことですが、飛鳥時代の頃に発生された一種の宗教思想のことで、仏教が伝来される以前から神道が存在していました。そうして、その後に西暦538年(宣化天皇在位2年頃?)の伝来説。もしくは、西暦552年(欽明天皇在位13年頃?)の公伝説の時期以降に完成した一種の宗教思想とされているでしょう。そうした影響が浅草寺と浅草神社の共同主催と言う志向で継承され行われている次第のようです。因みにとして、日本の殆どの家屋の中には仏壇を置き、神棚を飾っているでしょう。この仏壇と神棚の由来や起源も本地垂迹と言われる神仏習合の宗教思想が原点とされている説があるようです。今年の示現会は浅草寺の営繕工事・浅草神社の社務所の改築工事・二天門の修繕工事等の諸事情の都合で例年の本社宮神輿の堂上げと堂下げの行事が中止になり、その本社宮神輿の代わりとして御神箱と言う物を用意し、その箱の中に浅草神社の祭神である三人の御神体(御神霊)を各々の三つの御神箱の中に納め入れ、浅草寺の観音本堂に一日間だけ安置する行事のようです。それから本来の場合は、本社宮神輿の一之宮を一之権現・二之宮を二之権現・三之宮を三之権現として観音本堂に安置しますが、今年は各工事の都合で三つの御神箱を代用して安置されます。因みに、権現とは仏が神の姿に表現した意味合いのようです。例えば、大黒天・帝釈天・摩利支天・持国天・毘沙門天・増長天・広目天・多聞天・韋駄天・吉祥天・弁財天等の様々な諸天善神が仏の守護神として奉られいるでしょう。その諸天善神の総称を権現として仏教の中に神が存在する由縁です。雷門の正式名である風雷神門の風神は摩利支天が本来の姿で、雷神は帝釈天が本来の姿とされている説があるようです。以上の事柄を考えますと、神社仏閣は単なる文化遺産の為に創建や建立された建造物では無く、また、仏像についても芸術的作品としての創造された物では無いでしょう。それに、仏像の姿は、先祖の霊を報恩供養する目的の為だけに造られたのでは無く、本来の人間の心の姿にも描いて仏像が創造されているでしょう。両日の示現会は夕方頃に行われる予定です。示現会は五月の三社祭の先魁の行事でもあります。18日は金龍の舞いが浅草寺の観音本堂の前で奉納される予定ですので時間に都合が良ければ是非とも拝見して下さいませ!!。浅草寺の歴史は西暦628年から数えて1380年目です。今年の三社祭も無事に、そして何よりも盛大に行われることでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年3月15日 (日) 16時46分

お花見シーズンの到来となりました!!。ついこの間までは正月気分で過ごしていたが、本当に月日の経つのが早く感じます。ところで、正式名は浅草神社例大祭として有名な浅草三社祭の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入り等の執行までは七週間後となりました!!。浅草界隈の提灯屋では『三社祭』の文字を正面にして左右には浅草神社の神紋である丸に三網紋と三つ巴紋の軒先提灯の手書きの作業に追われている毎日のことでしょう!!。また、浅草神社の境内にある垣根周辺の上には浅草神社氏子四十四ヶ町の各町会名・祭礼関係者名・浅草にある様々な老舗の屋号名等の文字入りの提灯の飾り付けられ、浅草三社氏子の各町会は各々の家に『三社祭』の軒先提灯が浅草の街中に飾られることでしょう!!。それから、今後の神輿乗りについては、浅草神社奉賛会側による方針や規則等で断固厳禁となりますが、浅草三社氏子とは無関係で無縁の余所者である一部の同好会の担ぎ手連中が方針や規則を一切無視して本社宮神輿の上に乗る可能性は充分にあるでしょう!!。神輿の上には何人足りナンピトタリとも本社宮神輿の上に乗ることを断固として厳禁すると言う保障は通用しないことでしょう!!。それ以上に要注意すべきことは神輿乗りのことよりも浅草神社例大祭である浅草三社祭が余所者の同好会に乗っ取られないことが何よりも重要でしょう!!。浅草三社の各町会の若手役員会や浅草地元の各同好会の担ぎ手は決して余所者の同好会の担ぎ手には本社宮神輿の上に乗せないように協力しながら本来の浅草三社祭にして戴くことを心から願うだけです!!。そうして、本社宮神輿の上に乗せた同好会全員を東京都迷惑防止条例としてではなく、それ以上に共謀共同正犯的な行為として厳しく罰則を設定し浅草の三社祭や鳥越祭等の祭礼から違反した同好会全員を追放するぐらいに厳しく処置する必要があるでしょう!!。それに、暴力団と関連のある同好会は暴力団関係者と必ず絶縁することを条件として宮出しや宮入り等の参加を許可することが大事に思います!!。また、半纏を脱ぎ捨て刺青を露出した担ぎ手に対しては神事祭礼で神前の場で絶対に好ましくない行為であるので刺青の露出は断固として容認しないことです!!。そうして、何よりなことは、羽織袴にカンカン帽の浅草神社奉賛会の関係者も本社宮神輿の駐停時中等の如何なる理由があろうとも決して絶対に乗ってはならないことであるでしょう!!。何故なら、浅草神社奉賛会が自ら浅草神社の祭神を汚し冒涜するからです!!。また、浅草神社奉賛会の関係役員の一部の人間の中には特殊な権限意識を自負する馬鹿者がいます。浅草神社の境内の中は神の領域であり、浅草三社様の聖地です!!。その領域で聖地である場所内で花見と称して、酒盛りを平然と行うことは言語道断の無礼な行為であり、これこそ神を汚し、神を冒涜する行為です!!。神社の境内の中では酒盛りをするような浅草神社奉賛会の若手役員会の馬鹿者がいたら!!、その馬鹿者を浅草神社の境内からではなく、浅草から永久追放するぐらいに厳重に処分する必要があるでしょう!!。最後に、野見宿禰と相撲した当麻蹴速の名前について、トウマノケリハヤと以前の書き込みに書き入れてしまいましたが正確にはタイマノケリハヤと呼ぶそうです(しかし、地方や地域によっては当麻の呼び名もトウマとタイマの両方の呼び方があります。)。今年の三社祭は色々と制限されるようですが、一人一人が浅草神社の祭神に心から敬意を持ちながら祭礼に参加することを希望するだけです!!。浅草の三社様は浅草三社氏子の親神であり浅草の鎮守の守護神であるからです!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年3月29日 (日) 04時42分

羽織袴にカンカン帽子姿の浅草神社奉賛会のお偉方は基より、その浅草神社奉賛会事務局の若手局員(役員)?と称する者が多数いるそうです。ところで、その若手局員の一部の中には全く年輩や目上の人間に対して言葉遣いも礼儀も尊敬の念も知らない常識の無い馬鹿で阿呆がいます!!。その阿呆は自分が浅草神社奉賛会の代表的存在者?と勝手に自負しています!!。しかし、本来の浅草神社奉賛会事務局の若手局員には特殊的な権限は全然ありません!!。そして、常識の無い馬鹿で阿呆の若手局員の一部の者は襟に奉賛会の文字入りと背中には浅草神社の神紋である丸に三網紋を付けた半纏を着ることによって、若手局員の一部の者は特殊的な権限が与えられていると勝手に解釈し勘違いしています。若手局員は単なる同好会扱いに過ぎません!!。また、浅草神社奉賛会の役員関係者自体に対して一言申し上げたいことは、浅草神社奉賛会役員関係者は浅草神社の主ヌシの様な態度をすることは正真正銘の主である土師真中知命・檜前浜成命・檜前竹成命の三人の祭神が浅草三社様の本来の主ヌシであり主神です!!。その主神の上に奉賛会のお偉方は土足同然の様に安具楽をしています!!。そうして、主神であり祭神を奉り納めた本社宮神輿の上に乗ることは絶対に赦され無い行為であるので、本社宮神輿の上には断固として乗らないで頂きたいです!!。また、奉賛会の若手局員に一言だけ言いたいことは、『長幼の序』と言う教えがあります。その教えを教訓として諸先輩や目上の人間に対して敬意を払うことを心掛けて頂きたいです!!。今の浅草神社奉賛会事務局の若手局員の中には本当に馬鹿で阿呆の者がいることが不愉快で仕方がないことが残念です!!。最後にですが、神輿の中に御神体(御神霊)が奉り納められると神輿自体が重く感じます。これは神輿を担いだ者でないと実感出来ませんが、本当に神輿が重く感じるようです。でも、神輿を担いだことのない人間からみれば信じられないと思うかも知れませんが本当に重たく感じるのです!!。科学では決して解明されない不思議な現象?と思います!!。その御神体(御神霊)が奉り納められた神輿の上に人間が乗る必要は全く無いと思います!!。もし、神輿の上に乗る場合は、神輿乗りをする者は祭礼当日の40日前から毎日、心身を御祓をしてから本社宮神輿の担ぎ棒の先端部に乗るように心掛けて頂きたいと思います!!。決して本社宮神輿自体には神職者以外の人間は決して触れてはならない決まり事があるそうです。浅草神社奉賛会関係者は神職者ではないので神輿の担ぎ棒の上や神輿の置き台ウマの上にも乗ることも本来は赦されていないのです!!。その事実を無視して土足同然で本社宮神輿の上に乗る浅草神社奉賛会関係者のお偉方も神を汚し冒涜していることを自ら戒めて頂きたい!!!!!!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年3月29日 (日) 13時37分

小言こうべい様へ、世相、浅草三社祭の神輿乗り逮捕の題材について、色々と失礼ながら書き込みさせて頂き誠に有難く思います。ところで、世相のブログに掲載されている『古いアルバムから…』の神輿が写っている二枚の写真の一件です説明を致したいと思います。この写真は神社直轄の本社宮神輿ではなく、町内会の神輿のようです。その為、小言こうべい様が写真を見た上で「どう見ても何人も乗れる大きさの神輿ではないのだが…。」と判断するのも当然の理由で仕方がないことと思います。何故なら、本社宮神輿と町会神輿とでは大きさ自体や重さ自体が格段の差に違うからです。また、担ぎ棒の太さ自体も全然違います。それから、何よりも祭礼に参加したことも神輿自体を担いだことのない方々からすれば本社宮神輿と町会神輿との区別をすること自体に無理があるでしょう。それにですが、浅草神社の本社宮神輿は神田神社・鳥越神社・深川の富岡八幡宮等の様に通称千貫神輿と呼ばれる本社宮神輿と実際に比較した場合は一回り程度は小さく見えるが、町会神輿と比較した場合には大きさ自体や重さ自体は誰が見ても一目瞭然です。ところで、戦前の浅草神社直轄の本社宮神輿(徳川三代将軍家光公の時代から歴史のある国宝級文化遺産の様でした。)の三基の他に浅草地元の老舗の大旦那衆達から奉納寄贈された摂社宮神輿の四基が存在し計合わせて七基の宮神輿が存在していました。その戦前の本社宮神輿の三基と摂社宮神輿の四基の計七基の宮神輿は東京大空襲により焼失されてしまいました。現在の本社宮神輿の三基は、戦後の昭和25年(1950)には一之宮と二之宮の二基と昭和27年(1952)には三之宮の三基は飛鳥時代から歴史のある聖地浅草を復興させる目的の為に浅草地元の三社氏子衆達の尽力によって奉納寄贈された本社宮神輿です。そうした戦後の焼け野原の浅草を復興させた当時の浅草三社様の氏子衆達の尽力は想像以上の苦労があったことは云うまでもありません!!。以上の事柄や本来の道理と筋道を考えれば戦後の浅草の地に一所懸命に尽力と奉仕された御年輩の三社氏子衆達の子供や孫達が継承して行く事が何よりも大事であり、それが本来の三社様の氏子衆の在り方であると思う所存でいます。これは、明くまでも私個人の意見ですが本社宮神輿の神輿乗りに関しては三社氏子の各町会の若手役員の代表者が6人迄を制限とし、前後の担ぎ棒の先端部の上に乗るぐらいの意気込みと情熱と気迫を今後将来の為に活動をして頂きたいと思います。それからまた、警官の制止を聞かずに神輿に乗った浅草三社氏子以外の担ぎ手を東京都迷惑防止条例(粗暴行為の禁止)違反や、公務執行妨害容疑で現行犯逮捕をしても何の効果や効力も全く無意味なことでしょう!!。その理由は三社氏子以外の余所者の同好会の担ぎ手は毎年の宮出し等の時に再々の警告を全く無視して、我が物顔で相変わらずの状態で本社宮神輿の上に乗り、事故や事件を引き起こす無謀な余所者の同好会によって原因があることは過言ではないからです。今後の浅草三社祭の本社宮神輿の神輿乗りに関して申し上げたいことは、神輿乗り禁止の為に東京都迷惑防止条例だけではなく、神輿乗りをさせる行為のある同好会全体等を取り締まる法規(共謀共同正犯的行為)を規制を設けることは、今後に於いてける必要不可欠でしょう!!。また、それ以上に大事な課題は、東京都重要伝統文化財遺産物と言う名目を設立し、都内にある神社直轄の本社宮神輿(場合によっては町会神輿も同様とする)や寺院の仏像等を年代に無制限として指定すべきである!!と私個人の想像的意見と致します。最後に付け加えとして、ただいま!浅草神社の宮蔵(神輿蔵)に飾り付けをした本社宮神輿を五月の三社祭の終了(宮出し・宮渡御・宮入り等は除く)当日迄の期間中に早朝頃から午後5時迄の間に見ることが出来るようです。三社祭当日の宮出し・宮渡御・宮入り等の時の本社宮神輿の場合は屋根の鳳凰(一之宮)や擬宝珠(二之宮・三之宮)と飾り注連縄等以外の飾り物は取り外し、堂の部分に純白の晒し(サラシ)を巻き付け、その四面には七陽型をした鏡を飾り付け、その上に薄赤色の紐を巻き付け、四ヶ所の蕨手には御幣の紙を取り付けられます。また、浅草神社の本社宮神輿や町会神輿の大部分は屋根の軒下部分から蕨手が出て反り上がっている独特の神輿です。それに、日光東照宮の本社宮神輿も浅草神社の本社宮神輿も同じ形体した神輿です。その為、現在の本社宮神輿は日光東照宮の本社宮神輿を参考にして創られた神輿のようです。毎年のことながら、日本全国から浅草の三社祭に参加希望する担ぎ手が年々として増加しています。本来は三社氏子である各町会の知人等を通じて祭礼に参加することが出来れば最良の方法ですが、現在の状態では担ぎ手の人数が増えてしまい、その所為で色々と制限されていることでしょう!!。そのような実情で同好会に所属し、同好会の半纏を着ながら祭礼に参加しているでしょう。そうして、宮出し等の時には同好会の半纏を着た担ぎ手の方が町会半纏を着た担ぎ手よりも多くなる原因の理由があるのです。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月10日 (金) 02時22分

その所為で色々と制限されていることでしょう!!。そのような実情で同好会に所属し、同好会の半纏を着ながら祭礼に参加しているでしょう。そうして、宮出し等の時には同好会の半纏を着た担ぎ手の方が町会半纏を着た担ぎ手よりも多くなる原因の理由があるのです。以上の文面の箇所に誤字や脱字等があると思いますが何卒ご理解の程にお赦し下さいませ。では失礼致します。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月10日 (金) 02時36分

『浅草神社例大祭においては、本社神輿は勿論町内神輿に至るまで、御神輿には浅草神社御神霊がお祀りされておりますので、どんな場合でも渡御中にはお神輿に乗ることは許されません。観客の皆様もこの点をよくご認識いただき、神輿に乗ることを扇動するような行為は厳にお慎み下さい。』(上記内容は平成21年度の浅草神社奉賛会の実施要領からの注意事項より)についての文面は余りにも中途半端で曖昧過ぎます。何故なら、渡御中の神輿乗りを禁止しても、渡御以外、即ち、駐停時中の神輿に乗ってはいけないと明確に説明されていません!!。当然のことですが、一般宮出しの最中の時には、渡御(つまり、神輿が移動)しているは本社宮神輿の神輿乗りは禁止になるが、それ以外の事項に関しては何も記されていないので完全に不明瞭な内容です。これは、私個人の予測ですが、一般宮出しの場合は、何度も何度も、本社宮神輿を地面に落とし、駐停時中に暫くの時間だけ本社宮神輿の上に乗り、その都度、本社宮神輿を「ヨイヨイ!ヨイヤサ!」の掛け声を発して担ぎ上げた瞬間の時に担ぎ手は降り、そうした状況が繰り返し行わることでしょう!!。それから、今年の浅草三社祭の宮出しと宮入り等に関しては、浅草寺と浅草神社の社務所と二天門等の修繕工事の都合で浅草寺境内と浅草神社境内等の敷地範囲が大変狭くなるので、ある程度の担ぎ手の入場と人数等の制限をする為に特別な方法で宮出しや宮入り等の『参加証明』を浅草神社奉賛会からの指示で三社氏子町会44ヶ町から配布されるようです。しかしながら、そのような情報も実状も全然知らない一般の担ぎ手連中や宮出しの当日当時だけしか参加する余所者の同好会の担ぎ手連中が押し寄せ雪崩れ込んで来て大混乱になるのは必然になることでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月20日 (月) 04時46分

毎年の浅草三社祭の宮出しや宮入り等の際に浅草神社奉賛会からの実施要領の注意事項等を記しても無意味な結果となることでしょう!!。何故なら、氏子町会指定の半纏着用の担ぎ手以外の同好会の担ぎ手連中と一般担ぎ手等が大多数の群集を編成し、その群集が過剰的な行動を起こした場合の対処方法が全く為されることが不可能であるからです。人間は個人的行動に対しては制御出来るが、個人が集合編成し大多数の群集になった場合の群集心理や集団心理等に対しては抑圧的制御をすれば、その抑圧的制御に対しての反発感情を起こし招くことになるでしょう!!。これは明くまでも私個人の提案ですが、各同好会の代表責任者を4名~10名迄(参加人数に応じて)の人数を浅草神社奉賛会管轄下に配置し、『同好会代表責任者特別神輿警備係員』と言う名目の立場で本社宮神輿の警備に任務させる方法を配慮すべきでしょう!!。つまり、同好会が自ら本社宮神輿の警備担当を行うことにより本社宮渡御や各町会神輿の対する「大切さ!!や大事さ!!」を自覚と認識させる為の理念を知らせる方法として行うべきです!!。そのようにしないと今後も同じ繰り返しになるからです!!。また、何よりなことは、本社宮神輿の渡御発進の一本締め(手締め)を行う前に必ず柏手(二拝礼・二拍手・一拝礼)を宮出し・宮渡御・宮入り等の時に義務化とし、必ず担ぎ手全員で執り行うことにすることが大事です!!。本社宮神輿の中に奉納安置されているのは正真正銘の本御神霊(本御神体)である為、担ぎ手は一人一人自覚を持ち、神事祭礼である浅草神社例大祭を心より参加して頂きたく思う所存です!!。本来の神事祭礼について言えることは、神の下僕は全て皆、差別なく平等に扱うべきです!!。その理由を考えれば、浅草神社奉賛会のお偉いさん方や、それに関係する者達には、特殊な権限は神の立場から見れば自ずと理解されるでしょう!!。何人足りナンピトタリ(如何なる人間であろう)ともの理由を考慮すれば神の下僕は神の上に立ってはいけないからです!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月20日 (月) 15時33分

ところで、『神と下僕』の言葉自体は余りにも唐突で抽象的な印象にと語弊されるかも知れませんが、しかし、ここでの『神』とは、その土地の鎮守神・祭神・氏神等の意味合いとなります。また、『下僕』とは祭礼に参加する全ての関係者の意味合いとなります。即ち、祭礼奉仕者である氏子は基より、浅草神社奉賛会のお偉いさん方や、その関係者一同、そして、同好会の担ぎ手も宗教的道理を考えた場合に於いては『神の下僕』と想い考えても決して間違えてはいないと思っている次第です!!。その点を何卒ご理解下さいませ!!。それから、今年の本社宮神輿の宮入り道中の時に合力半纏を着たの宮頭(鳶頭)が本社宮神輿の前と後の担ぎ棒の先端部の上に乗り、その宮頭の代表者が『真鶴』と云われる木遣り唄の「イヨ―オイヤ―リョ―」(おーい!、遣るよー!が意味合い説)の歌詞に鼓舞しコブシを付けて音頭を発声した後に担ぎ手や鳶連中達が一斉に声を揃えて「エ―ヨ―」(良いよ!が意味合い説)の歌詞に鼓舞しコブシで発声してから一本締めで威勢良く本社宮神輿を担ぎ上げる光景は浅草三社祭ならではの見応えのあることは古今東西の何処を探しても見当たらないからです!!。特に、雷門手前からの宮入りは有名です!!。最後に、前回のコメントの補足として、一般宮出しと一般宮入り等の時に同好会の中から同好会の人数に応じて4名~10名迄を代表責任者を選出し『一般特別神輿警備係員』(『同好会代表責任者特別神輿警備係員』の略称名)と言う名目を設置し任務に担当させることを書き込みしました。その『一般特別神輿警備係員』の他に『一般担ぎ手特別指導係員』(『同好会代表責任者担ぎ手特別指導係員』の略称)を設置して任務を担当させることとする方法を私個人の提案と致します。つまり、『一般特別神輿警備係員』と『一般担ぎ手特別指導係員』を選出人数から各半数づつに振り分けて任務担当させることが今後に於いて必要不可欠となるでしょう!!。同好会等の担ぎ手の神輿乗りを無くす為には『一般特別神輿警備係員』と『一般担ぎ手特別指導係員』と云うの名目を是非とも同好会の担ぎ手の中から選出し設置すべきであると思います!!。最後にもう一度だけ申し上げますが、神事祭礼に参加する者全員は身分や立場に関係無く、その全ては『神の下僕』であることを専念し、慎んで行動することです!!。神事祭礼は明くまでも一種の宗教行事であることを認識して頂きたいです!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月21日 (火) 01時10分

今年の浅草三社祭の本社宮神輿の宮入り道中や蔵入れの儀等の時だけ特別に神輿乗り(前後の担ぎ棒の先端部の上に各1~3名づつ迄を制限として乗り、神輿の保護と誘導等を目的とする役目)の行為に対しての許可が出るのか今のところ不明のようです。しかし、この宮頭による宮入り道中は『浅草三社祭ならでは!』の唯一の見せ場であり、古今東西の中で何処さがしても見当たらない光景です。ヤクザ者や同好会の担ぎ手連中の神輿乗りの様に神輿に寄り掛かったり、また、屁っぴり腰の格好で神輿の蕨手に掴まりながら刺青を見せ開かし、その挙げ句には神輿を地面に叩き落としてしまうほどの全く神輿の乗り方を知らない族輩ヤカラです。それに対し、宮頭の神輿乗りの場合は、普段から足場の仕事等で足腰を鍛えている為に身体が安定し上手く綺麗に乗り姿は誰が観ても惚れ惚れとするぐらいに絶賛します。それが、本来の浅草三社の原点だからです。そうして、浅草三社様の氏子達の本音であり、浅草神社奉賛会のお偉いさんの方達も承知していることは過言ではないことは確かでしょう!!。最後に、宮頭の神輿乗りの行為は、明くまでも『神』を配慮しているからです!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月22日 (水) 11時54分

東京新聞朝刊2009年4月26日付の記事より。東京・浅草の「三社祭」(5月15日~17日)の運営をめぐり、主催者の浅草神社奉賛会(氏子団体)が、一般担ぎ手である「同好会」側と初めて話し合い、同好会側の提案を受け入れて、本社神輿(みこし)の「宮出し」の手順を変更することになった。25日に開かれた氏子四十四カ町の総町会で報告された。奉賛会はこれまで同好会を交渉相手として認めない立場を貫いてきたが、事実上、宮出しのルールづくりへの参加を認めた形だ。祭りが最高潮を迎える最終日の宮出しは、氏子が担ぐ「氏子宮出し」と、一万人以上の同好会メンバーが殺到する「一般宮出し」の二部制で行われてきた。神輿の上に人が乗る「神輿乗り」は禁止されているが例年、繰り返されるため、神社と奉賛会は昨年の宮出しを中止。今年は再開が決まっていたが、神社と浅草寺の工事の影響で使えるスペースが約4割も狭くなり、危険なため浅草署が奉賛会に、宮出しのルールについて同好会と話し合うよう文書で申し入れていた。出席者によると、奉賛会と同好会の話し合いは二十四日に浅草署で実施。奉賛会役員と同好会側の代表が数人ずつ参加、。奉賛会は当初、今年の宮出しについて、氏子が本社神輿を三基とも神社境内の外に出してから、同好会による一般宮出しを行う案を公表していた。同好会側は話し合いの場で、神輿二基を神社境内に残したまま一般宮出しを始め、順次境内から外に出る手順を提案。奉賛会側はこれを了承し、あらためて神輿乗りなど禁止行為をしないよう申し入れたという。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月27日 (月) 21時15分

浅草三社祭の宮出し等に於いて同好会の担ぎ手全体を実際に把握することは難しいところです。それに、同好会自体も色々と複雑化の状態で新興組織の同好会の担ぎ手や末端組織の担ぎ手等に対しても『神輿乗りの禁止』に対し、完全に従事し厳守する信用度は不明です。それから、浅草神社奉賛会の執行部代表と同好会の代表幹部との話し合いをしても同好会の代表幹部は同好会の末端や新興同好会の担ぎ手までを一括して全責任を執るのかは不安であり不明です。それよりも、同好会側の方針や意向は曖昧で来年以降の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入り・蔵入れの儀等の全てが中止に為らないように担ぎ手一人一人が自身に注意し、浅草三社祭は明くまでも神事祭礼であり正真正銘の神前行事であることを自覚しながら参加することを心得る必要があるでしょう!!。それから、浅草神社奉賛会は、同好会との話し合いは結構なことではありますが、一番に話し合いをすべく存在は、浅草地元の浅草三社氏子の各町会の青年部や青年会等の若手代表の意見や思案等を第一に聴くことを優先することです。それが、道義であり本筋であるからです。余りにも、浅草地元の三社氏子の若手の存在を除外視しているような気がして残念に思います。そして、何より大事なことは、代々から三社氏子である各町会の青年部と青年会の若手同士が団結し、浅草神社奉賛会に意見や思案を発言出来るぐらいに頑張って頂きたい!!と思います。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年4月28日 (火) 00時10分

いつも、『世相、浅草三社祭の神輿乗り逮捕』の題材に対する私の個人的なコメントを色々と書き込み過ぎるぐらいに書き込みさせて頂き誠に有り難うございます。さて!、五月に入り、東京都内では『お祭り』の到来となりました。先ずは新橋の烏森祭から始まり、神田祭や下谷祭の後に浅草の三社祭が行われます。特に、三社祭の場合は「神輿乗り」がクローズアップされ、今年の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入り等が久しぶりに再開するのか?、また二度目の中止になるのか?と危ぶまれていたようです。それよりも、神輿の乗り方も担ぎ方も全く無知な余所者の同好会の担ぎ手が何様のつもりで身勝手に乗る理由が出来ません。先日の浅草神社奉賛会の執行部と特にですが浅草地元等で構成する同好会の幹部代表の間で話し合いをし、相互の条件付きで今回の本社宮神輿を出すことになったようです。前回の東京新聞の記事をそのまま掲載した通りですが、今後も三社祭当日の間近頃までは余談の出来ない状況が続いていることは言うまでもありません。また、同好会の幹部代表の方も今回に於いて、どの様な責任の取り方をするのかは不明瞭な状況です。本来として、今迄の本社宮神輿の神輿乗りは、代々の浅草地元の宮頭と言われる鳶職の頭連中の代表が本社宮神輿本体の保護と神輿自体の誘導と担ぎ手の統制を神輿の担ぎ棒の先端部から支持等をする為に乗っていたことを何度も見解や説明等をさせて頂きました。それに、日本全国には様々な『お祭り』が至る所で行われます。その中で東京都内の『お祭り』は神輿が中心で主体の神事祭礼であり神前行事であることは神輿を担ぐ者なら誰一人もが知るべきことであり、知る必要があるからです。それにまた、何故!祭礼に参加し神輿を担ぐ目的と理由は、以前に何度も書き込みをしましたが、神と自分自身の間を吊り合わせ、神輿の為に和を志す意味合いを込めて色々と書き込みをして来ました。また、神輿の輿は世に連想しています。即ち、世の中がいつまでも平和を志す意味合いもこめられている理由があるのです。私のネーミングの『間吊田和志輿為』は「祭だ!ワッショイ!!」に因んで勝手に語呂合わせとしている次第です。つまり、祭礼に参加し神輿を担ぐ目的は神の恩恵に感謝し、神の御加護と共に世の中を渡り歩むことであり、また何よりに、神を忘れない為と神を心中から想い出す為に祭礼があり神輿があるのです。神輿自体は神ではありませんが、神輿の中に神が存在を示す為に神輿があるでしょう!!。最後に神輿乗りに関して申し上げたいことは神への自覚と神への配慮が無い担ぎ手は祭礼に参加する必要も価値も全く無く、それ以上に神輿乗りをすることは無神経過ぎる行為であるからです。その為、神輿を担ぐ時は神に敬意を祓いながら担ぐ様に心掛けて下さいませ!!。また、今後の神輿乗りの扱いに対しては明くまでも許容範囲内で行うべきでしょう!!。今年の宮出しや宮入りの最中に神輿乗りが絶対に無い!!と言う保証は何処にも示されていないからです!!。その為にも、ある程度の許容範囲が必要だからです!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年5月 2日 (土) 18時33分

本日(14日)の夕刻頃より浅草神社境内にて神社の本殿に奉られている土師真中知命・檜前浜成命・檜前竹成命の三圭の御神霊オミタマ(御神体)を三基(体)の本社宮神輿に移す御霊移しの儀が執り行われます。本社大神輿一之宮には土師真中知命・本社大神輿二之宮には檜前浜成命・本社大神輿三之宮には檜前竹成命が安置奉納されます。その儀が執り行われた後は三基の本社宮神輿は神社の本殿であり御神殿となります。それから、御霊移しの儀が執り行われる際に神職者が狼オオカミの遠吠えの様に「オー」と必ず発声します。この「オー」の意味合いや語源には色々と諸説あるそうですが、その諸説の一つとしては聖音omオームのことを示しているようです。即ち、聖音とは阿吽の境地の意味合いを表現しているようです。阿吽の阿はαアルファの意味合いを示し、阿吽の吽はΩオメガの意味合いを示しています。それから、聖音は『在りて或る言霊(神意)』の意味合いをしていることでしょう。それに、『全宇宙の言霊(神意)』の意味合いを示していることでしょう。そして、この聖音は様々な宗教に共通する言霊のことであり、神意の言葉とされているようです。最後に、今年の浅草三社祭の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入り・蔵入れの儀等の最中に祭礼奉仕者である担ぎ手の一人一人が神に対する自覚と配慮を持ちながら責任のある行動を心掛けるだけです!!。また、御霊移しの儀から御霊還しの儀がある間は三基の本社宮渡御は神社の本殿であり御神殿であることを是非とも心より熟知して頂きたく思います!!。そして、神事祭礼である浅草三社祭の本社宮神輿の渡御等が来年以降も末永く継続されることを神に祈るだけです!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年5月14日 (木) 13時46分

今年5月17日に行われた浅草三社祭の氏子宮出し(一部)に引き継ぎ、同好会(二部)による宮出しが受け渡し町会までの間は取り敢えず「無事?に終了した。」と浅草神社奉賛会の執行部関係者は各報道機関等に伝えたようでしたが、私が知る限りでは、本社大神輿一之宮の後方の上に『松清(南部方面の西浅草町会に所属する同好会)』の文字が印された半纏を羽織った男性一人が乗ってしまいた。しかし、浅草神社奉賛会は黙認(ある程度の許容範囲?)してしまい、各報道等や南部方面担当の警視庁浅草警察署と西浅草町会所轄の警視庁蔵前警察署の方へ全く通達しませんでした。これは、今後の在り方に対しては大きな問題と影響が及ぶことになるからです!!。もし、浅草神社奉賛会執行部関係者が黙認(=容認)すれば、来年以降の本社宮神輿の宮出し・宮渡御・宮入り・蔵入れの儀等に於いては他の同好会等の担ぎ手が神輿乗りを再び行う可能性は多大にあることでしょう!!。今回の神輿乗りをした『松清』の半纏を羽織った男性を絶対に逮捕・検挙すべきであり、必ず絶対にして頂きたいです!!。それから、何よりな問題点は、『松清』の半纏を着用した同好会の担ぎ手全員を共謀共同正犯的犯罪行為として来年以降の宮出し等から厳重に追放し、今後の本社宮神輿を担ぐことを容認しないことが大事です!!。明くまでも、是として浅草三社祭は浅草三社様の氏子の神事祭礼であり、同好会の為に決して行われている観光イベントでないことを何卒ご理解下さい!!。それよりも、浅草神社奉賛会執行部関係者は氏子町会の青年部や青年会等の若手連中の主張・や意見・思案等を今後に於いて話し合う意志があるのか現在も不明のようであるでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年5月21日 (木) 11時57分

5月の15日~17日迄の金土日の3ヵ日間に行われた今年度の浅草三社祭も多少の問題を残しながら終了したようですが、今度は、同じ台東区内の浅草にある蔵前橋通り沿いに面している鳥越神社の祭礼である鳥越祭が6月の6日と7日の土日の両日に行われます。特に、最終日の本社宮神輿の宮入り道中渡御は結構有名で別の呼び名を『鳥越の夜祭り』と言われるほどの祭礼です。それから、何よりなのは、本社宮神輿自体の大きさは『お化け神輿』と言われ、重さも『千貫神輿』と言われるほどに重量感のある神社直轄の本社宮神輿です。因みにですが、一貫目は約3750グラム位です。しかし、実際の重量に関しては不明です。ところで、ある説としては、本社宮神輿の価値が『金千貫目』位に値する意味合いも込められている説もあるようです。それに、鳥越神社直轄の本社宮神輿である千貫神輿は、日本全国の中にある他の神社の様々な千貫神輿と称される本社宮神輿の中でも鳥越神社の本社宮神輿は『千貫神輿の本家』と呼ばれるほどに大変有名な本社宮神輿です。それにまた、夕刻頃になると祭礼の執行役である睦会の役員が宮入り道中渡御を行う準備として『火入れ式』が行われます。その『火入れ式』とは、本社宮神輿の屋根の四面に弓張り提灯を飾り付け、その弓張り提灯の中に蝋燭ロウソクを挿し込んで火を入れて(通常一般的には安全対策の為に電球を使用しますが、代々からの伝統を重んじ、また、蝋燭ロウソクならではの妖艶な火の輝きを演出している説もあるようです。)から『鳥越の夜祭り』と呼ばれている有名な鳥越神社の祭礼である千貫神輿の宮入り道中渡御が鳥越神社の鳥居の下を潜り入り、社殿前に戻り着く迄の間の約2時間余りを蔵前橋通りの鳥越神社前周辺を地元の鳶頭連中の木遣り唄と各氏子町内会の高張り提灯、そして、地元の各氏子町内会から選出された手古舞の若娘衆が朱色に名前入りの弓張り提灯に火を灯し、そして、鉄杖を地面に打ち浄めながら『千貫神輿』とか『お化け神輿』と呼ばれる鳥越神社の本社宮神輿の先頭を練り歩く光景は素晴らしいほどに勇壮で盛大な神事祭礼です。早朝の宮出しから始まり、各氏子町内会の宮渡御、そうして、宮入り道中に至る迄の間は他の神事祭礼には無い赴きです。それにまた、各氏子町内会の宮渡御は、町内会の規模によって渡御時間が異なりますが、およその担ぎ時間が平均20~30分間未満程度位で、神田祭・深川祭・浅草の三社祭等よりも担ぎ手達の本社宮渡御への『取っ付き』は半端では無いくらいに激しい担ぎ棒の奪い合いが繰り広げられます。特に、最大の見せ場は、氏子町内会である宮元町会の宮入り道中渡御は浅草三社祭の宮出しに値する凄さがあります!!。東京江戸下町の様々な神事祭礼の中で、『宮出しの三社祭、宮入りの鳥越祭』と絶讚されるほどに勇壮盛大な祭礼であることは担ぎ手連中の間では喧伝されているようです!!。是非とも一度必見する価値は充分にあるでしょう!!!!!!!!!!。長文乱筆の書き込みにてご容赦下さい。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年5月31日 (日) 23時32分

先日(6月6日と7日の土日)行われた東京浅草の鳥越神社の祭礼に参加致しました。特に、鳥越神社の本社宮神輿を担いだ時は、兎に角と言って良いぐらいに半端でなく、迫力満点の凄まじいものがありました。この私自身も通称『千貫神輿』とか『お化け神輿』と言われる本社宮神輿の担ぎ棒に肩を入れる迄の間に二度ほど殴られてしまい、やっとの思いで担ぎましたが、その矢先で担ぎ手同士が担ぎ棒の取り合いで殴り合いの喧嘩をしています。何故!?、鳥越祭の本社宮神輿渡御の時に担ぎ手同士が喧嘩になる理由は、本社宮神輿渡御の担ぎ時間が余りにも短いからです。各氏子町会の規模範囲によって渡御時間は異なりますが、鳥越神社の氏子町会数は約20ヵ町位もあって、その氏子町会の本社宮神輿渡御の合間には睦会による本社宮神輿渡御が約10~30分間の担ぎ時間が宮出しと宮入りの間の他に3~5回位も行われます。そして、必ずと言って良いぐらいに睦会総代の自宅前で約1時間位の昼休みます。そうした理由がある為、各氏子町会の渡御時間が平均約25分間前後の時間以内で行われるのです。それにまた、本社宮神輿渡御の時になると担ぎ手人数が町会神輿渡御の担ぎ手人数の約3倍以上も増加し、渡御時間と担ぎ手人数を比較すると担ぎ手同士が担ぎ棒の取り合いになるのは不思議なことでは無く当たり前の様になってしまうのです。今現在の私ですが身体中に打撲傷で痛みを感じているところです!!。でも、祭礼に参加することも神輿を担いだことのない方々にとって、怪我をしてまで本社宮神輿を担ぐ理由があるのか!?と想うかも知れませんが、喧嘩以上の魅力が本社宮神輿にあるからでしょう!!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月10日 (水) 11時16分

東京都内には数多くの様々な祭礼が存在しています。神田祭・山王祭・深川祭は江戸三大祭りに数えられ、特に神田祭は日本三大祭りの一つに加えられています。また、神田祭と山王祭は江戸天下祭りとしても有名な祭礼で、その由来説は、江戸時代の頃に神田祭の神田神社と山王祭の日枝神社の二社は当時の江戸城付近にあったので、祭礼の時には神田祭と山王祭の二社は江戸城内の中へ入城を許可されたことから江戸天下祭りと言われるようになった説が所以のようです。因みにですが、神田神社と日枝神社の地場を結ぶ線上の中心に江戸城本丸が位置しているそうです。その江戸城本丸が神田神社と日枝神社の二社が存在位置する理由は江戸城本丸を護持する為に神田神社と日枝神社の地場の線上に江戸城本丸を築城された説があるようです。また、江戸城は徳川将軍家の象徴そのものであるからです。ところで、普通一般的に神社の社殿前には阿と吽の狛犬(コマイヌ)像を二対を社殿前の両脇に安置されていますが、日枝神社の場合は社殿前には狛犬像ではなく烏帽子(エボシ)被りの猿像が阿と吽の二対が社殿前の両脇に安置されているようです。また、日枝神社の日枝の元来は比叡山の比叡に由来している説があるようです。それに、日枝神社は元々の文字は日吉(ヒヨシ)と書いて(ヒエ)神社と呼ばれてあた時代があったようです。しかし、日吉が日枝に改名した理由には諸説あるそうですが、ある一つの説として、豊臣秀吉の幼少時代の名前が日吉丸と呼ばれていたことから日吉の文字を意味嫌って日枝の文字に改名された説があったようです。それに対して、神田神社の神田は様々な諸説ありますが、その一つに神前への奉納米を耕作する為の御田が神田の語源となった由来があるようです。また、もうひとつの由来には、平将門の胴体部分である躰(カラダ)からカンダに転訛して神田になった説もあるようです。それから、現在、将門の首塚がある大手町の元々の地名は平安時代の中期頃は芝崎村と呼ばれ、江戸時代に明暦の大火として有名な『振り袖火事』の事件以後に江戸の様々な地名は大部分が他の場所に移転や改名されたようです。現在の大手町にあった芝崎村の地名は台東区西浅草の浅草ビューホテルがある地帯が浅草芝崎町と呼ばれていた時期があったようです。その地帯には時宗神田山日輪寺があります。その寺は元々の場所は将門の首塚の付近にあったようです。また、西浅草にある芝崎町会は浅草神社の氏子として活躍されていますが、本来的には神田神社の飛び地として明治時代の中期頃までは特別に神田祭へ参加されていた時期があったようです。最後に、浅草の三社祭や鳥越祭は神田祭・山王祭・深川祭のように江戸三大祭りから除外視されていますが、今では『宮出しの三社、宮入りの鳥越』とか『三社祭の宮出し、鳥越祭の宮入り』などと全国的規模でも絶讚され、神田祭・山王祭・深川祭などの氏子連中や同好会連中の担ぎ手達も浅草の三社祭や鳥越祭の本社宮神輿を担ぎに来るほどに日本三大祭りや江戸三大祭り以上の知名度の存在感のある祭礼と過言するだけの価値はあるでしょう!!!!!!!!!!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月17日 (水) 01時57分

同じ浅草の地域内にある浅草神社の三社祭と鳥越神社の鳥越祭の違いについて説明をしたいと思います。浅草神社の本社宮神輿の場合については宮出し・宮渡御・宮入りなどの時は屋根上にある一之宮の鳳凰、それから、二之宮・三之宮の擬宝珠(ギボシ)、それに、飾り注連縄(シメナワ)・飾り注連縄に付ける大きな飾り鈴などを取り付け、それ以外の飾り物を取り外し、堂(胴体)の部分に白色の晒し(サラシ)を巻き付け、その堂の四面に七つの鏡を七曜紋の形にして飾り付け、そして、薄紅色の紐を巻き付けて、四隅の蕨手には御幣の白い房紙を飾り付けられます。普段の場合は、宮蔵に保管されている時や、浅草寺と浅草神社の協同行事の示現会(ジゲンエ=神仏習合の名残)の時に行われる堂上げと堂下げの時だけは四隅の蕨手の小鳥なども含め、全ての飾り物を付けたまま行われます。それに対し、鳥越神社の本社宮神輿の場合は飾り物を全て付けたまま行われます。次に、渡御の担ぎ時間について説明をします。三社祭の本社宮神輿の一之宮・二之宮・三之宮を渡御を執行する東部十二ヶ町・西部と南部の十六ヶ町などの各氏子町会の渡御担ぎ時間は約40~50分間位で本社宮神輿を担がれます。が、しかし!、ここで三社祭の場合に於いて、是として申し上げたいことは本社宮神輿の各氏子町会への引き渡しの合間の時間が約10分間以上も掛かってしまう余計で無駄な時間があります。その余計で無駄な時間の理由について説明をしますと、特に南部十六ヶ町の場合は、本社宮神輿の上に本社宮神輿を担ぎ上げる執行役の青年部長や青年会長と町会の世話する鳶頭の2名の他に年寄りの町会長と羽織袴にカンカン帽子姿の宮付総代と言われる浅草神社奉賛会の役員までもが乗り、引き渡しと引き継ぎの時に奉賛会の宮付総代がアレコレと長い演説をする所為で渡御の担ぎ時間が短縮されたり、渡御の担ぎ時間が約1~2時間近く位も遅れてしまう原因になっています。ところで、東部と西部方面の宮渡御の引き渡しと引き継ぎの場合は青年部長や青年会長では無く町会の世話役の鳶頭が担ぎ上げの執行をします。その代わりとして、本社宮神輿を宮蔵に納める蔵入りの儀の時に各氏子町会の若手役員関係者などによって行われます。それに対し、鳥越祭の本社宮神輿の引き渡しと引き継ぎの合間の時間については、渡御の担ぎ時間が各氏子町会の規模範囲によって異なりますが平均約30分間前後位しか無く各氏子町会担当の睦会役員一人だけが本社宮神輿の上に乗り、担ぎ上げを執行します。その時間は引き渡しと引き継ぎの時間を含めて約5分間以内で済み、三社祭のように余計で無駄な時間が殆ど無いので、ある程度の渡御の担ぎ時間が保持されているでしょう。三社祭は宮出しが主体で、鳥越祭は宮入りが主体としている為に祭礼の執行の在り方に対する風潮や風情が異なっています。東京都内神田祭・山王祭・深川祭などの他に、様々な祭礼の在り方も風潮や風情が各々の祭礼の特徴となって表現され、そうして、その特徴が一つの伝統として神事である祭礼が執行されるのです。その為にも、様々な祭礼に参加する氏子関係者と担ぎ手連中、そして、祭礼を見物する人達、そしてまた、祭礼の在り方を批評する方々も様々な神事祭礼を比較対象するだけでなく、各々の神事祭礼の風潮と風情を直接に実感して頂きたいと思います。紙面や文面などは当然のことながら平面的感覚です。実際に祭礼が行われている現場に行って体験したり直視するように立体的実感を経験も必要かと想う所存です。最後に、7月に行われる靖国神社の御霊(ミタマ)祭・8月に行われる深川富岡八幡宮の深川の水掛け祭・9月に行われる墨田区向島辺りにある牛島神社の祭礼である牛島祭が繰り広げられます。この牛島祭の特徴は、本大祭のある時は本社宮神輿が無いので、その代わりに和牛が平安時代頃の様式の牛車を運行されます。因みとして、神輿は渡御・山車や牛車は運行・鳳輦は神幸と呼び方を使い分けています。宮出しのことを出御・神輿を渡り練ることを渡御・神輿を移動することを移御・宮入りのことを入御・神輿を宮蔵に納め入れる蔵入れのことを納御と正式名称があるそうです。そうした正式名称は一般的に皇族や貴族階級などに用いれているので、庶民的な呼び方として、宮出し・宮渡御・宮入り・蔵入れなどと通称名で呼ばれています。また、本社宮神輿については、本社神輿の呼び名と宮神輿の総称名として本社宮神輿とさせてさせています。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月17日 (水) 16時02分

今年(平成21年度)は基より、浅草三社祭の宮出しに直接参加したり、今までの浅草三社祭の色々な宮出しのビデオやDVDなどの動画映像を拝見しました。そうすると、その動画映像の映しだされている場面の中に様々な問題が生じていることが伺えられす。その問題については、宮出し自体が氏子宮出しと同好会による一般宮出しとに別けられています。ところで、氏子宮出しの担ぎ時間は約20分間程度で、氏子の担ぎ手人数も各町会に付き約20名以内と制限され、制限を超過した氏子の担ぎ手は止む得ず一般宮出しの方へ余儀無く参加されます。特にですが、一般宮出しに参加される同好会の担ぎ手連中は仲間意識や結束力などが根強く、その為、同士や同盟の半纏以外の担ぎ手を袋叩きにして排除します。そうした状況の所為で到底ながら本社宮神輿を担ぐことは不可能です。その為にも氏子宮出しの渡御時間を約60分間以内位で渡御し、氏子町会指定の半纏着用の担ぎ手は参加者全員を氏子宮出しに参加させるべきです。そうして、本社宮神輿を浅草寺本堂を庭祭礼形式で一周し、浅草寺本堂と浅草神社境内の間にある通路場所から一般宮出しを約2時間以内位で執行すべきです。本来の道理を考えた場合、祭礼自体の執行は氏子中心で執行すべきです。詰まり、浅草三社祭は浅草三社氏子が主導的立場で宮出しや宮入りなど行うことが何よりも本筋であるからです。それに対し、同好会の担ぎ手連中は協賛的な立場で参加して頂くことが今後に於いて参加することが大事でしょう。また、氏子の担ぎ手や同好会の担ぎ手は互いに神事祭礼の奉仕者として自覚することを改めて認識すべきです。それからですが、一般宮出しの際に、同好会の担ぎ手が本社宮神輿自体をウマ(神輿を置く台)の上に乗せず、そのまま地面に置いて次ぎの同好会の担ぎ手連中に引き渡しを致します。本社宮神輿の台座の真下に「担ぎ手が下敷きにならないように」と、危険防止の為に下駄を取り付けてあります。しかし、幾ら何でも、引き渡しや引き継ぎの合間に浅草神社の御祭神である御神霊(御神体)を奉納安置されている本社宮神輿を無神経にも地面へ置く行為は如何に本社宮神輿を粗末にしていることが本当に伺えられます。その事実を是正する為にも同好会の担ぎ手達は考え直す必要があるでしょう!!。その為にも、一般宮出しに於いて同好会はウマを持参して、必ず本社宮神輿をウマに乗せ丁重大事に取り扱うべきです。即ち!!、戦後の浅草復興から今日に至る迄の間、浅草三社祭の本社宮神輿の宮出しや宮入りなどは、自身の祖父や父親などから継承されて来ました。そうして、今後に於いて、自身の子々孫々への継承して行く為にも本社宮神輿を丁重大事に取り扱うべきです!!。以前の書き込みに何度も伝えて来ましたが、改めて書き込みを致しました。ご理解の程に!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月17日 (水) 22時08分

小言こうべい様。いつも私の書き込みの文面の中に誤字脱字が多く誠に澄みません。さて、『江戸っ子』について説明をしたいと思います。正確な時代は不明ですが、『江戸っ子』の起源は、江戸時代前期以降からの頃で、江戸城の膝元付近にある神田神社と日枝神社の二社の氏子の町人衆が本来の『江戸っ子』と呼ばれる所以のようです。また、神田神社祭礼の神田祭や日枝神社祭礼の山王祭の時には二社の祭礼だけが江戸城内に入城を許されたことから神田祭と山王祭は『江戸天下祭』とも呼ばれるほどに、江戸時代の頃より伝統のある有名な祭礼です。その祭礼を取り仕切る二社の氏子の町人衆は「江戸城下の氏子」と名乗るようになり、「江戸城下の氏子」の言葉が縮まって『江戸っ子』となった説があるようです。因みに、神田神社と日枝神社の二社以外の神社の氏子の町人衆が『江戸っ子』と呼ばれるようになったのは江戸時代後期以降からの説があるようです。また、ある説には、江戸幕府直轄(徳川将軍家の所縁)の神社の氏子の町人衆に対しても特別に『江戸っ子』として扱い認め呼ばれるている所以もあるようです。詰まり、浅草神社・鳥越神社・下谷神社・根津神社・深川富岡八幡宮などの東京都内にある神社の氏子である町人衆は本来の『江戸っ子』ではありませんが特別に容認され呼ばれています。最後に、余談ですが、徳川将軍家の徳川の苗字の呼び方は通常一般的にはトクガワと呼ばれていますが、江戸時代当時の正確な呼び方は将軍家のみに対しての徳川の呼び方はトクガワでは無くトクカワと呼ばれていたようです。また、徳川家と縁戚関係にある松平家も徳川将軍家直系の松平の苗字の呼び方はマツダイラでは無くマツタイラと呼ばれていた説があるようです。即ち、将軍家直系以外の徳川の呼び方はトクガワと呼び、松平の呼び方はマツダイラと苗字の呼び方に使い分けられていたようです。また、町名の呼び方に対しても説明を致します。鳥越の正確な呼び方はトリゴエでは無くトリコエと呼びます。駒形の正確な呼び方はコマガタでは無くコマカタと呼びます。その他には新橋・日本橋・京橋・浅草橋などの○○橋の正確な呼び方は○○バシでは無く○○ハシと呼びます。また、深川の正確な呼び方はフカガワでは無くフカカワと呼ばれていたようです。その殆どの町名や地名などの呼び方に対しては濁点の無い言葉の意味合いを込められている説があるようです。詰まり、江戸時代当時の城下町や町全然が濁ること無く、いつまでも清らかな天下泰平の時代が続くことを込めて、本来の江戸の町名や地名の言葉の呼び方に濁点を用いない意味合いがある理由のようです。因みとして、秋葉原の地名の正確な呼び方はアキハバラ(AKIHABARA)では無くアキバッパラ(AKIBAPPARA)と呼びます。元々は秋葉ヶ原(アキバがハラ)と呼ばれ、時代は意外にも明治時代になってからで、当時の明治天皇の意向で現在のJR秋葉原駅付近に秋葉神社を壮健され、その秋葉神社の境内が広大な原っぱになっていたことから、当初の呼び方は「秋葉様の原っぱ」と呼ばれ、それがやがて、秋葉ヶ原(アキバがハラ)に呼び方に変わり、そうして、秋葉原の本来の呼び方であるアキバッパラになったようです。現在のアキハバラの呼び方は秋葉原駅が出来てから、当時の役人が勝手にアキハバラと呼んでしまったことにより秋葉原の地名の呼び方がアキハバラになった説のようです。本来の正確な呼び方はアキバッパラです。現在の秋葉原駅構内付近(東京都千代田区神田花岡町)にあった秋葉神社は台東区松が谷3丁目10番7号の場所に明治時代中期頃に移築されたようです。それに、秋葉神社の主祭神は火産霊神・埴山比売神・水波能売神の三つの祭神が奉られていることから秋葉神社は火伏せの神を奉る神社であったことから、秋葉神社を鎮火社とも言われていたようです。特に有名な行事として、『秋葉の火渡りの神事』とか『鎮火祭』とも言われ、全国各地にある秋葉神社の境内で11月頃に行われるているようです。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月22日 (月) 01時10分

秋葉原の地名の呼び方について付け加えをしたいと思います。現在の秋葉原駅構内付近に明治時代初期頃に秋葉神社を壮健(創建)し、その秋葉神社の境内が広大な原っぱであった為、当初は「秋葉様原っぱ」と呼ばれ、それが段々に呼び方が変化して行ったようです。詰まり、「秋葉様の原っぱ」⇒「秋葉ノ原(アキバのハラ)」⇒「秋葉ヶ原(アキバがハラ)」⇒「秋葉ッ原(アキバっパラ)」へと変化し、現在の「秋葉原駅(アキハバラ・エキ)」の駅名が知らぬ間に本来の呼び方であるアキバッパラからアキハバラへと当時の一人の役人が身勝手に呼んでしまったことが理由のようです。それから、『江戸っ子』・『神田っ子』・『浅草っ子』・『三社っ子』・『鳥越っ子』・『深川っ子』などのように文字の間に必ず『っ』の文字が入ります。この『っ』・『ッ』などの小文字や言葉は本来ある正式な文字や言葉の呼び方を簡略化や省略化した縮語のようです。即ち、本来の正確な呼び方にしますと、前回の書き込みに示したように、『江戸っ子』は「江戸城下にある神社の氏子」・『神田っ子』は「神田明神様の氏子」・『浅草っ子』は「浅草三社様の氏子」・『三社っ子』は「三社権現の氏子」・『鳥越っ子』は「鳥越神社の氏子」・『深川っ子』は「深川富岡八幡様の氏子」となるでしょう。本来の呼び方である『秋葉原(アキバッパラ)』の『ッ』の小文字や言葉の意味合いを正式な呼び方にしますと「秋葉様(神社)の原っぱ」の縮語となるでしょう。正確に言えば、現在の『秋葉原(アキハバラ)』の呼び名は明くまでも地名としてでは無く駅名からの呼び名ですので本来の正確な呼び方はアキバッパラ(AKIBAPPARA)と呼ぶべきです。その為、現在も名残りとして『秋葉原』のことを「アキバ」とか「バッパラ」と言った地元の人間しか使わない隠語もあるようです。その為、東京下町に産まれ住む人間は、特に長ったらしい言葉使いが苦手であった所為もあって『っ』・『ッ』などの簡略化や省略化した縮語を用いたことが説のようです。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月22日 (月) 15時14分

改めて、『神輿乗り』の題材について、私の個人的な意見や見解を書き込みをしたいと思います。ところで、特にですが、『神輿乗り』を連想した場合、テレビのニュース番組や新聞記事などの報道機関と、それに、祭礼に一度も参加したことも無く、また何よりも、神輿自体を全く担いだことの無い人間達までもが『浅草三社祭』と口を揃えて答えるでしょう!!。それだけ、社会現象の悪質的な風潮として『浅草三社祭』の『神輿乗り』の行為と在り方がアレコレと必要以上にクローズアップされているでしょう!!。しかし、『神輿乗り』の行為は何も『浅草三社祭』の問題だけではありません。他の祭礼の執行の最中でも『神輿乗り』の行為が至る場所の祭礼の中で執行されています。『浅草三社祭』以外の『神輿乗り』の行為を執行する祭礼として、神田祭(神田神社祭礼)の執行最中の時、特別に神田神社公認で参加する江戸神社奉賛会(旧、神田青果市場《通称、ヤッチャバ》の組合組織関係者の団体と神輿同好会の神田祭好会などにて構成する担ぎ手)の通称、『神田市場《ヤッチャバ》の千貫神輿』・下谷(下谷神社祭礼)の通称、『稲荷町の本社千貫神輿』・台東区松が谷の矢先祭(矢先神社祭礼《浅草三十三間堂の由緒歴史のある神社》)の通称、『矢先の本社宮神輿』・今戸祭(今戸神社祭礼《新撰組の沖田総司が終焉したことで有名な神社》)の通称、『今戸の本社宮神輿』・土師祭(鷲宮神社祭礼《埼玉県北葛飾郡鷲宮町にある関東最古の神社》また、「酉の市」として有名な「お酉様」の総本社とされている。祭神は天穂日命・武夷鳥命・大己貴命。鷲宮の語源は土師宮が転訛した神社とされ、浅草神社の祭神として祀られている土師真中知と同氏族の拠点地とされている説があるようです)の通称、『土師の本社千貫神輿』などの祭礼で、本社宮神輿の渡御の時にも『神輿乗り』の行為は様々な祭礼場所でも行われていることは確かであり事実です。他にも色々と探せば『神輿乗り』の行為をする祭礼は関東地方だけでは無く日本の全国各地でも行われているはずでしょう!!。決して、『神輿乗り』の行為は『浅草三社祭』の特有の問題として捉えてしまう単純な報道機関や、そして、祭礼には全く参加することも、神輿自体を一度も担いだことの無い人間達がアレコレと批評することに対して考え直す必要があるでしょう!!。各地で行われる祭礼での『神輿乗り』の行為と在り方は明くまでも独自性で行うことが何よりも大事なことであり、また、『神輿乗り』の行為をすることで比較や差別する必要が全く無いからです。但し、祭礼の本質と原点は神事であることを再確認することであり、特に、神社直轄である本社宮神輿には正真正銘の神社の御神体(御神霊)を奉納安置してあるので、本社宮神輿の上に乗る行為を是非とも改めて慎むべきでしょう!!!!!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月25日 (木) 04時40分

浅草神社氏子四十四ヶ町には東部方面十二ヶ町・西部方面十六ヶ町・南部方面十六ヶ町の合計四十四の三社氏子の町会数があります。ところで、西部方面十六ヶ町の中に『浅草三ヶ町』と言われている浅草神社の『飛び地』の氏子町会が存在します。その浅草神社の『飛び地』である『浅草町一町会』・『浅草町二町会』・『浅草清三町会』と呼ばれる三つの町会のある地域は台東区の北東部地区にある場所で、現在の町名として、台東区清川一丁目と二丁目・同区日本堤一丁目と二丁目・同区東浅草二丁目・同区橋場一丁目と二丁目・台東区に隣接する荒川区南千住一丁目と二丁目と三丁目と五丁目と七丁目などの町名がある一帯で、昭和41年(1966)頃以前までは台東区浅草山谷一丁目から四丁目が存在した地域のようです。そして、その以降は住居表示制度の実施により『山谷』という地名の呼び名が廃止され、現在の東京都が『山谷地区』と指定する地域は泪橋交差点を中心とした簡易宿泊施設などが特に集中している地域となっている程度のようです。以前の『山谷』と呼ばれていた時代の印象は如何にも日雇い労務者の下層的立場で生活をしている地区と想われていた時代があったようです。しかし、小言こうべい様のコメントの中に「ワーキングプアーなる新語が生まれ、働けど少しも楽な生活が持てず、ほど近いところには貧しい人たちの溜まり場のような山谷がある。ネットカフェの寝泊まりを強いられるものもいる。担ぎ手が少なくなってからは、在のものでなくても女性でも参加できるようになった。貧しい政治への怒りの持って行き場のない若者が、祭の場に加わり我を忘れたとしても攻められない一面がある。」と書き込みをされていますが、現在では特に外国からの旅行客などが旅行費を節約する為に簡易宿泊施設を利用されるほどになっているそうです。そして、当時の日雇い労務者達も老齢になり、現役の労務者は僅かしか存在していないようです。また、当時の『山谷』と呼ばれていた現在の地域は多少の面影を残す程度で、一般的には中流的意識のある生活者が数多く存在しています。しかしながら、それよりも非常に残念なことは地域や地区などに居住する生活者に対して偏見や差別をする人間が未だに多くいることです。ある意味、貧しい生活の中を一生(所)懸命に働き生きて来た経験をした人間達の方が人間としての生き方を知っていることでしょう。それに対し、貧しい生活を経験したことの無い人間は挫折感や絶望感が意識の中で先行し自らの命を絶ってしまう実情が現在社会の風潮となっているでしょう。それからですが、神田祭・山王祭・深川祭・三社祭・鳥越祭・下谷祭・牛島祭などの神事祭礼を執り行う場所や地域に産まれれ育った人間や、また、その神事祭礼のある場所や地域に住み着いて、神事祭礼の行事に自主的に参加し神輿を担ぐ人間達の殆どは今年の祭礼が終了した後には来年以降の祭礼の話題に華を咲かせるぐらいの将来と希望を持ち続けて生活をしていることでしょう!!。本来の人間の生き方は「人間の中に『神・仏』が存在して生きている」のでは無く、「『神・仏』の中で人間は生かされ生きている」ことが事実であり、その為に神社仏閣が存在し、神事や仏事などの行事に参加する意義がそこにあるからです。アレコレと『神輿乗り』の在り方について論評する前に、人間は素直になることが大事であり大切に思います。そして、偏見や差別などの意識を捨て去り神事祭礼に多くの人間達が参加し神輿を自主的に担ぐことです。そして、何よりも神輿自体は『平和的象徴』の役割があり、人間がこの現世の中で生きて行く為にも必要で重要な遺産物でもあるからです!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月29日 (月) 03時21分

間吊田和志輿為さま

ご依頼のコメントの内容による訂正を終了後、3通ともコメントは削除いたしました。

投稿: 小言こうべい | 2009年6月29日 (月) 16時56分

小言こうべい様へ。誠に有り難うございます。また、色々とご迷惑を掛け本当に澄みません。そしてまた、今後も失礼ながら私自身の意見や見解などの想い付いたことや考えていることを色々と書き込みたいと思いますので、これからも何卒宜しくお願いを致します。また、今後の書き込み文の中に誤字や脱字などがあるかも知れませんが、その時はご理解の出来る範囲でご容赦下さいませ。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年6月30日 (火) 04時30分

七月の九日と十日の両日は『浅草のほおずき市』が行われます。この日の浅草寺に参拝すると四万六千日分を参拝したぐらいの功徳があると言われる為、又の名を『四万六千日』と言われています。ところで、この『四万六千日』の数字に色々な諸説がありますが、その一説の中には一升の米粒が四万六千粒あるとされ、

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年7月 9日 (木) 01時39分

前回の続きとして。また、四六時中の意味合いなどがあるようです。因みに、『四万六千日』を年数にすると約126年になります。人間が常に健康で平穏無事に生活をすれば約126年間位は長生き出来るとされています。それから、観音様の縁起の数字は18とされています。それに、生命の完成の数字は7(参考として。旧約聖書の創世記の天地創造の中に記されてある説で第1日目に原始の海の表面に混沌とした暗闇がある中、神は光を作り、昼と夜が出来た。第2日目に神は空(天)を作った。第3日目に神は大地を作り、海が生まれ、植物が出来た。第4日目に神は太陽と月と星を作った。第5日目に神は魚と鳥を作った。第6日目に神は獣と家畜と、そして、神に似せた人間人を創った。第7日目に神は最後に安息された。以上の7日間を天と地の完成と最初の人間が地上《この世=現世》に誕生されたことにより生命の完成とする意味合いの説)とされています。詰まり、観世音菩薩の縁起である18に生命の完成である7を掛け算すると126になります。また、弥勒菩薩はお釈迦様の入滅後から56億7千万年後に衆生の為に、この世に生まれ現れるとされています。弥勒菩薩の縁起の数字は81とされています。その81に7を掛け算すると567になります。それからまた、人間が悟り(仏=如来)の境地に到達するまでの日数も『四万六千日』の数字に関わりがある説もあるようです。その説の所以は四万とは声聞・縁覚・菩薩・仏=如来のことん示し、六千とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道の世界を示しています。因みにですが、輪廻転生の言葉がありますが、輪廻と転生の意味は全く異なります。輪廻とは六道の世界の中を廻っている状態のことを意味しています。それに対し、転生とは声聞から以上の境地、即ち、阿羅漢(釈迦の教えに従う者)の心境で日々の生活を正しく行うことにありようです。因みにですが、お釈迦様は輪廻を解脱し、安心立命の悟りを目指すことに意義を唱えています。しかし、人間が仏=如来になれることは本当に難しいようです。あのお釈迦様でさえ、仏=如来になるまでは約四百回の転生で菩薩としての修行を繰り返して、やっと仏=如来になった覚者です。以上の意味合いの説などが『四万六千日』の由来とされているでしょう。最後にですが、浅草寺以外の『四万六千日』が行われる場所と寺院は、岩手県花巻市太田にある清水寺・三重県松阪市中町にある岡寺山継松寺・兵庫県宝塚市内にある紫雲山中山寺・長崎県佐世保市内にある福石観音などが有名とされています。また、因みにとして、本来の『ほおずき市』の元々の発祥は東京都港区芝にある愛宕神社のようです。愛宕神社の場合は『四万六千日』の呼び名では無く『千日参り』と呼ぶそうです。追加として、初詣は寺で初参りは神社です。以上、改めて本当に澄みませんでした!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年7月 9日 (木) 04時11分

今月は7月末の最終土曜日の25日の夕刻頃より恒例の『隅田川花火大会』が行われます。ところで、最近と言うより、十数年もの間に川沿い周辺に高層建造物が建ち並び、今では、ビルとビルの隙間から、やっとの思いで花火を見物するしか出来ない時代になってしまいました。昔の様に浴衣姿で縁台に腰掛けながら団扇を扇いで、両国橋の方向から打ち上がる花火を眺めていた頃が懐かしく思い出します。今では、そうした風情も無くなり、花火見物のできる場所も制限や規制され、見物人の殆どは、結局、花火そのモノ自体より、打ち上がる花火の大輪を見ることよりも破裂音を聴いて花火の大輪を想像するしか方法が無いでしょう!!。また、川沿い周辺の高層建造物の屋上から花火を間近に見えれば格別な体験を出来ますが、結局はテレビ東京の生中継番組で我慢する以外に無いのでしょうね!?。これも、取り敢えずではありますが、酒の肴にビールを飲みながら花火の生中継を見ることも風情になるのでしょうね!?。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年7月15日 (水) 15時01分

ここで改めて神輿乗りの是非について書き込みをしたいと思います。ところで、昔の時代から「障らぬ神に祟り無し!」と云う諺(コトワザ)があります。この諺の意味合いとは御本神《御神霊・御神体》を蔑(ナイガシ)ろにすると必ず神罰が下り、不慮の事故や病気等が自身の生命に降り掛かる恐れがある意味合いが込められているでしょう!!。何よりも、この意味合いを考えた場合、御本神を奉納安置している本社宮神輿の上に乗る行為は当然の様に神を蔑ろにした悪行如きの行為になるでしょう!!。渡御中の時だけでは無く、駐輿中等の時に対しても同様で、宮頭と呼ばれる鳶頭連中や同好会の担ぎ手だけで無く、神社の奉賛会や敬神会等の役員関係者、それに、氏子町会の役員関係者等も何人足(ナンピトタ)りの理由がある以上に如何なる理由があっても本社宮神輿の上に絶対に乗っては為らないのです。もし、今後に於いて本社宮神輿の上に乗る行為を続けるようであれば、神罰と謂う祟りや厄(ワザワイ)を承ける覚悟を考慮することにあるでしょう!!。本来の古式伝統による神事祭礼に参加し奉仕を許可されたのは神職関係者だけで、現代のように一般庶民が本格的に神輿を担ぐことが出来るようになったのは江戸時代中期頃以降になってからのようです。現在では祭礼に参加する衣装は半纏に鯉口シャツや駄暮(ダボ)シャツ・腹掛け・股引き・草鞋掛け(ワラジガケ)の足袋・草鞋等を身に付け、まるで、鳶職の格好を真似ている姿をしている担ぎ手が今では一般的主流になっているでしょう!!。現在では主として浅草の三社祭の担ぎ手に多く見られるでしょう!!。それ以前の格好については、半纏は基より晒(サラ)し・半股(ハンダコ)・白色の地下足袋ぐらいで主に現代の祭礼では深川祭や浅草の鳥越祭等に多く見ることが出来るでしょう!!。そして、それより以前の格好については、半纏では無く着物(浴衣)姿で襷(タスキ)掛けをし、そうして、裾の尻を捲り上げて、半股姿・白足袋姿で神輿を担いでいたようです。現在の祭礼では、鳥越祭の睦会役員関係者が伝統として受け継いでいるでしょう!!。それよりも、もっと以前の格好については、白丁・烏帽子・草鞋等の神職姿で江戸時代前期頃迄は主に神職関係者だけが神輿を担ぐことを許された時代のようでした。現在では、主に赤坂の日枝神社の山王祭と神田祭に行う神輿・鳳輦・輦輿等の神幸巡行の時に見られるでしょう!!。本来に於いて、神輿を担ぐ前に御祓(ミソギ=身注ぎが語源説)・御隠(オコモ)り・祝詞奏上等をしてから神輿を担ぐ風習があったようです。最後に、これは単なる噂!?かも知れませんが、過去や今迄の間に於いて御祓や御隠りの修行も全く無く身勝手な行為で神輿乗りをした祭礼関係者や同好会の担ぎ手の中に不慮の事故や病気等で亡くなった者がいるかも知れません。それに対しての因果関係を科学的に結論を解明することは事実として大変に難しいことですが、肉眼で見える力量より肉眼では見えない力量の方が遥かに強力で膨大な力量を有していることは否定出来ません。自然災害も予期せぬ出来事と思うかも知れないが、自然自体も肉眼では見えない力量が働き様々な現象を起こしていることでしょう!!。つまり、肉眼で見える力量は人間の知識づある科学の範囲内を意味し、それに対して、肉眼では絶対に見ることの出来ない力量は神の領域と神意が働いていることでしょう!!。その為に天変地異の仕業は神の怒りが原因とされ、その神の怒りを鎮め人間の住む大地を守る為に神社(カムヤシロ)・祠(ホコラ)等を建立し、そこに神を崇(アガ)め祀り、神の祟(タタ)りや厄(ワザワイ)を追い払う意味合いの為に神事祭礼の奉仕者である神職関係者や担ぎ手が神輿を担ぎながら大地を浄め練り歩くことが本来の神事祭礼の目的となるのが道理となるでしょう!!。場合によっては、真実本当の神は悪魔や悪霊よりも恐ろしい存在感があるでしょう!!。また、この地球や宇宙を消滅するだけの超膨大で超偉大な力量を蓄え持っているからです!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年7月27日 (月) 05時30分

今から約40年以上も前の昭和40年頃初頭に伝説の宮頭がいました。私としては定かな記憶ではありませんが、確か?、その宮頭の名前は大柳政男さん《故人》と言う方であったと想います。その当時は『ち組』の組頭をされていた方で、現在の宮頭の代表である『新門』の代表取締役社長であり『と組』の組頭を勤めている杉林仁一さんの先代(父親)である杉林市郎さん《故人》と『田原二』の組頭であった相澤市之助さん《故人》の三人の組頭は戦後の間も無い時代に浅草の復興と浅草三社祭の復活の為に人一倍の尽力をされ、一生懸命に活躍された鳶職の組頭であり江戸町火消しの伝統を守り受け継いで来た方達でした。また、現在の杉林仁一さんや相澤市郎さん《故人》と花川戸にある『山の宿』で大柳さんと同じ『ち組』の頭をしていた桶田(下の名前不明)さん《故人》の三人は未だ二十歳代前半ぐらいの若者であったことは言うまでも無い時代でした。今では、相澤市郎さんや桶田さんも亡くなってしまい、今では杉林仁一さん一人で宮頭の代表役をしている姿は大変な苦労をしていることを伺うことが出来ます。ところで、伝説の宮頭として有名な観音裏にある象潟の組頭と言われた『ち組』の大柳さんは神輿乗りの達人と呼ばれるぐらい(大袈裟な言い方かも知れませんが…)に本社宮神輿の担ぎ棒の先端部(先棒=ハナ棒)の上を綺麗に乗り、担ぎ棒の上から担ぎ手同士の喧嘩を仲裁したり、本社宮神輿の進行方向を上手く誘導していた人物であった方の様です。私自身は、生前中に大柳さんと何度かお会いしたことがあって、神輿の乗り方を話して頂いたことがありました。その大柳さんの話しの中に「僕が本社神輿に乗る時は、必ず御祭神に対して『今年も失礼ながら御神輿(オンミコシ)の上に乗らさせて頂きますの何卒御容赦下さいませ』と心の中で念じ、『南無妙法蓮華経』と題目を必ず唱えてから本社神輿の御祭神に感謝と御礼をしてから乗るんだよ!」と話して頂いたことを記憶しています。それから、大柳さんは「御数珠と浅草神社の御守りを必ず身に付けてから本社神輿の上に乗っているんだよ!、そうしないと後で御祭神に叱られるから大変なんだよ!、本社神輿を粗末に扱うと本当に御祭神から罰が当たったり、また、大怪我をしたり、大病になったりするから、本当は命懸けで本社神輿の上に乗っているんだよ!」と真剣な顔して話して頂いたことも思い出します。今の宮頭である杉林仁一さんも現役の時は神輿乗りをされていた方で「先棒から三尺手前で乗り、本社神輿を進めることは『頭冥利(カシラ・ミョウリ)』に尽きるね!」と昔のあるテレビ番組の中で自慢話をしていました。しかし、今の同好会の担ぎ手連中の殆どは宮頭の本質を全く無知であり本心を知ろうとしない、本当の宮頭は何よりも先に御祭神に対して感謝と御礼をし必ず配慮をしてから本社宮神輿の担ぎ棒の上に乗ることを心掛けていたようです。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月 5日 (水) 03時49分

今月(8月)の15日と16日の土日の両日に東京深川にある富岡八幡宮の祭礼が執行されます。通称、深川の『八幡祭』と呼ばれ、別名を『水掛け祭』とも呼ばれている祭礼でもあります。また、神田神社の『神田祭』や赤坂日枝神社の『山王祭』と同じ『江戸三大祭り』の中に加えられている有名な祭礼です。そして、神輿担ぎの掛け声も全ては『ワッショイ!ワッショイ!』の掛け声に統一され伝統を守り継承されている祭礼としても有名です。今年は本社神輿の二之宮の渡御が行われる予定ですので盛り上がりも最高潮になることは想像するだけの価値はあるでしょう!!。因みに、一之宮は重さが約4500kg位はあると言われているほどの日本一立派な大神輿で佐川急便の寄付によって作られた神輿です。この一之宮は御披露目渡御で一回だけ担がれましたが、余りの重さと大きさの所為で、その後以降は富岡八幡宮の境内にある神輿庫の中に『飾り神輿』として展示されているだけになってしまいた。この残暑で猛暑の中を各町会神輿と二之宮が『水掛け』の中を渡御するので見物客は『びしょ濡れ』になることを覚悟して頂くだけです。また、神輿の側に近付く時は、必ず!携帯電話機やカメラなどの精密機械は防水用の袋などに入れることを心掛けて下さいませ!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月14日 (金) 16時01分

蝉の鳴き声も段々と静まる秋空の季節となりました。ここでまた改めて、浅草神社の祭神の三桂の中の一桂として祀られています土師真中知の事柄について色々な説を書き込みをしたいと思います。ところで、土師真中知の呼び方について説明を致します。先ず最初に、土師の呼び方にはハジ・ハシ・ハゼ・ハセ・ハニシ等があり、真中知の呼び方にはマツチ・マナカチ等が一般的として知られいます。他に真人中知の文字説があって、その呼び方はマビトのナカトモ・マヒトのナカトモ等と呼ばれ、また、それ以外に直真中知の文字説もあり、その呼び方はアタイのナカトモと呼ばれている説もあります。それから、土師姓の先祖は相撲の開祖として有名な野見宿禰(ノミのスクネ)と言われ、相撲の相手は當麻蹴速(タイマのケリハヤ)も同様に相撲の開祖とされています。それに、野見宿禰は天穂日命(アメのホヒのミコト=日本神話に登場する男神で、別名には天之菩卑能命・天穂日命・天菩比神等の文字説もあり。)の14世の子孫であると伝えられる古代出雲国の勇士とされている説があります。代々の野見姓の一族は古墳や埴輪(土器・土偶)等の技術に優れ、また、未開の土地を開発整備する技術にも優れていた一族であったようです。それにより野見宿禰の一族は後に土師姓(氏)を名乗るようになった説があります。そうして、土師姓の一族の中には学門の神として有名な菅原道真の菅原姓を名乗る子孫がいます。最後に、埼玉県北葛飾郡鷲宮町に鷲宮(ワシのミヤ)神社があります。その神社は一説によると関東の中で最古の神社とされ、お酉様の本社とされています。鷲宮神社の祭神は天穂日命・武夷鳥命(天穂日命の子)・大己貴命を祭神の三桂を祭神とされています。また、鷲宮は別名を土師宮(ハジのミヤ・ハニシのミヤ)とも呼ばれ、一説には崇神天皇の時代に河内国から東国の地に移住した土師姓の一族が武蔵国西部にある浅草から隅田川(利根川の説もあり)を上って現在の地に移住した際に先祖を祀ったのが鷲宮神社の起源ではないかと言われている説があります。そして、土師宮(ハジのミヤ・ハニシのミヤ)の言葉が転訛して鷲宮(ワシのミヤ)と呼ばれるようになった説があるようです。因みとして、9月の第1土日に行われる鷲宮神社例大祭である『土師祭』は、埼玉県内の中では有名な祭礼とされ、鷲宮神社の本社神輿は、通称『千貫神輿』と呼ばれる大きく立派な神輿があるそうです。以上、改めて土師真中知の土師姓の一族についての事柄を失礼ながら色々と書き込みをさせて頂きました。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月25日 (火) 03時53分

今度は、土師真中知と同様に浅草神社の祭神として祀られている檜前浜成と檜前竹成の兄弟の氏族である檜前姓の由来や起源等の事柄について改めて説明をしたいと思います。先ず最初にですが、檜前姓の発祥地とされる場所は、現在の奈良県高市郡明日香村大字檜前が檜前姓(氏族)の発祥地とされている説があります。余談ですが、檜前への行き方は、近鉄吉野線の飛鳥駅を下車し、そこから南の方向へ徒歩約10分位程度歩くと檜前の地名があるそうです。ところで、この檜前の地名がある一帯については、古代の大和国高市郡檜前(当時は檜隈の文字説あり)の地帯の規模範囲は現在よりも一回り程度位は広い範囲であったようです。また、現在の檜前・栗原・御園等の地名がある場所を中心とする一帯が飛鳥京(アスカキョウ・アスカのミヤ)があった場所とされている説があるようです。次に、檜前姓の由来については色々と諸説あるそうですが、その中の一説には、5世紀前期頃に朝鮮半島南端に任那日本府(ミマナのニホンフ・ミマナのヤマトのミコトモチ)は、日本書紀説の欽明天皇の時代頃に存在していた説とされています。その任那日本府があった場所は古代の朝鮮半島南部の『加耶』にあった倭国(大和朝廷)の統治機関都市であったと日本書紀に記されている説もあります。しかし、その実体についての諸説がある為、現在の学説では1970年代までは通説であった任那を統治していた機関であるとする学説的定義の考えを否定する見解も出されている説があるそうです。これは、明くまでも、私個人の説としての見解ですが、その当時の状況を考えた場合は古代の日本(大和朝廷)と朝鮮半島との間に於いて主に文化等の交流と交易を中心とした拠点地が任那日本府として存在していたと考え思っています。それから、古代の朝鮮半島の南部にあった『加耶』と云う国(地帯)の中から『阿邪加耶(アヤカヤ)』と『安羅加耶(アラカヤ)』と呼ばれた小国(地域)から飛鳥京の檜前の地に移り住んだ渡来帰化の人々がいたようです。そして、特にですが、彼らは血縁関係が少ない代わりに、祖国の出生地やや居住地を同じく意識を持ったことから次第に同族意識を深め、やがて東漢(ヤマトのアヤ)氏と言う一族を名乗るようになった説があります。そうして、日本書紀の説では、応神天皇在位20年の陰暦9月に東漢氏の祖とされる『阿知使主(アチのオミ)』と、その子の『都加使主(ツカのオミ)』や、その一族等が渡来し、飛鳥京の檜前(檜隈)郷の土地地が与えられ帰化したと記されている説があるそうです。しかし、東漢氏の一族については、単一の氏族では無く、その一族の中には文(フミ?)氏・民(ミタミ?)氏・坂上(サカのウエ?=坂上との田村麻呂の祖とされる説あり)氏・谷(タニ?)氏・内蔵(クラ)?氏・長(オサ?)氏等の様々な支族によって構成される渡来帰化系の氏族としての総称とされている説があるようです。そうして、その東漢氏の各々の支族が檜前の地や、その周辺に住み付き、当時の大和朝廷の天皇の側近的代行権力を持っていた有力豪族の蘇我氏の配下的存在として、大和政権の外交・財政・貿易・軍事等の任務等に深く関わって成長してきた一族とされていた説もあるようです。それによって、東漢氏のの一族の自主的な思想観の立場で共通の祖先渡来神話を創作し、その渡来神話が、この阿知使主と都加使主の父子の渡来伝記(伝説)とされている説もあるそうです。ところで、此処で申し上げたいことは、渡来帰化人についてです。古代の日本に移り住み付いた渡来帰化人は朝鮮半島からの民族や種族だけでは無く、他には、中国大陸や東南アジア、それに、中には中近東の国の方から陸路や海路で古代の日本へ渡り移り住んだ説があります。また、樺太・九州地方・日本海側(特に出雲地方)等を経由して古代の日本列島へ渡来し住み付き帰化した説があるでしょう。因みとして、全国高校野球でも有名な高知商業高等学校の校歌は『鵬程万里』と言われいます。作詞は竹村虎・作曲は平井惣太郎です。歌詞は「一。鵬程万里、果てもなき、太平洋の岸の辺に、健依別の益荒男(マスラオ)は、海の愛児と生まれたり。」・「二。天にそびゆる喬木を、レバノン山の杜に伐り、舟を造りて乘り出でし、フェニキア人の、それのごと。」・「三。椰子の木、茂れる所より極光閃く、あたり迄、荒き波路を、わけて行く、イギリス人の、それのごと。」・「四。海の愛児よ、我が友よ、奮い起つべき、秋は来ぬ、いざ、ヘルメスの神まつれ、いざ、健やかに出でゆかむ。」の歌詞です。ところで、歌詞の中にある建依別(タケヨリワケ)とは、古代の日本に住み付いたユダヤ人のと呼ばれる説があります。また、舟の語源はフェニキアの言葉が転訛した説とされています。また、ヘルメスの神はギリシャ神話に登場するゼウスとマイアの子とされ、特に、商業の神として崇拝されています。その他には、青森県の中に伝説的な民謡として『ナヤドヤラ』があります。 この『ナヤドヤラ』には諸説ありますが、その諸説の中で感心がある説はキリストを奉る為の民謡てされ、不思議な伝説ことに、青森県の、ある場所に『イエス・キリスト』の十字架(墓)が実際?にあるそうです。日本には、古代の頃から渡来帰化人達による伝統や風習が伝説として伝えられていることは歴史上で証明されています。また、何よりも面白いのは、現代の日本人の顔形ちに様々な特徴があります。その中でも、日本人であるのに如何にも西洋的な顔した日本人は数多くいます。因みに、九州地方の熊本県には西洋的な顔した人が多く、ある一説によると熊本県内に矢部町と云う地名があります。その矢部町の由来とはユダヤ人の神とされる『ヤーベ』の言葉が由来している説があるそうです。また、熊本県内には色々な伝説があるようで。他には、日の宮幣立神宮(神社)の中に『五色の神面』が奉納され、その『五色の神面』の中に『モーゼの神面』が存在されているそうです。それに、この日の宮幣立神宮は元来で最初の『伊勢神宮』とされる説があります。また、現在の三重県にある『伊勢神宮』は大和朝廷を成立させる目的として熊本の地から政治的に移された説があるそうです。それに、熊本県には『伊勢』の地名が現在も存在している所以です。余談が長くなりましたが、檜前姓の一族は古代の大和朝廷の官職を行い、檜前の地は仏教伝来に深く関与されていた土地であったことは以前の書き込みの中に記されてあります。また、檜前浜成と檜前竹成の兄弟は土師真中知の家臣的な存在であったことは理解出来るでしょう。また、それにより、推古天皇の『仏教興隆の詔』の発令により日本全国に様々な寺院が建立されたことは歴史に於いても証明されているでしょう。また、ある説としては、本来の一寸八分の仏像は『仮仏像』とされ、寺院を建立する拠点の地に証明を示す時に一寸八分等の小さな仏像を安置した説もあるそうです。最後に、『雷門』の風神像と雷神像の本来の姿(本神)について諸説ありますが、その中の一説としては、風神の本来の姿は『摩利支天』とされ、雷神の本来の姿は『帝釈天』とされている説があります。以上、書き込みが大変長くなり澄みません。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月26日 (水) 18時48分

途中、前回の続きとして。また、ヘルメスの神はギリシャ神話に登場するゼウスとマイアの子とされ、特に、商業の神として崇拝されています。その他には、青森県の中に伝説的な民謡として『ナヤドヤラ』があります。 この『ナヤドヤラ』には諸説ありますが、その諸説の中で感心がある説はキリストを奉る為の民謡てされ、不思議な伝説ことに、青森県の、ある場所に『イエス・キリスト』の十字架(墓)が実際?にあるそうです。日本には、古代の頃から渡来帰化人達による伝統や風習が伝説として伝えられていることは歴史上で証明されています。また、何よりも面白いのは、現代の日本人の顔形ちに様々な特徴があります。その中でも、日本人であるのに如何にも西洋的な顔した日本人は数多くいます。因みに、九州地方の熊本県には西洋的な顔した人が多いようです。その中でも、熊本出身のテレビ番組で大人気の若手女性タレントは日本人とは思えないほどに西洋的な顔をしていることは同じ日本人として不思議に感じるぐらいです。それにまた、ある一説によると熊本県内に矢部町と云う地名があります。その矢部町の由来とはユダヤ人の神とされる『ヤーベ』の言葉が由来している説があるそうです。また、熊本県内には色々な伝説があるようで。他には、日の宮幣立神宮(神社)の中に『五色の神面』が奉納され、その『五色の神面』の中に『モーゼの神面』が存在されているそうです。それに、この日の宮幣立神宮は元来で最初の『伊勢神宮』とされる説があります。また、現在の三重県にある『伊勢神宮』は大和朝廷を成立させる目的として熊本の地から政治的に移された説があるそうです。それに、熊本県には『伊勢』の地名が現在も存在している所以のようです。余談が長くなりましたが、檜前姓の一族は古代の大和朝廷の官職を行い、檜前の地は仏教伝来に深く関与されていた土地であったことは以前の書き込みの中に記されてあります。また、檜前浜成と檜前竹成の兄弟は土師真中知の家臣的な存在であったことは理解出来るでしょう。また、それにより、推古天皇の『仏教興隆の詔』の発令により日本全国に様々な寺院が建立されたことは歴史に於いても証明されているでしょう。また、ある説としては、本来の一寸八分の仏像は『仮仏像』とされ、寺院を建立する拠点の地に証明を示す時に一寸八分等の小さな仏像を安置した説もあるそうです。最後に、『雷門』の風神像と雷神像の本来の姿(本神)について諸説ありますが、その中の一説としては、風神の本来の姿は『摩利支天』とされ、雷神の本来の姿は『帝釈天』とされている説があります。以上、書き込みが大変長くなり棲みません。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月26日 (水) 19時12分

小言こうべい様へ。いつも、独占的な書き込みをして本当に申し訳ございません。そして、書き込みの文面の所々の箇所に失礼ながら誤字や脱字が目立つほどに多く、読み辛く感じていることと思っています。何卒ご理解の程お赦し下さい。ところで、前回の書き込みの内容文の捕捉として付け加えをしたいと思います。さて、前回までの内容文の中に東漢氏の文字があります。東漢氏とは古代の大和地方(現在の奈良県内)にあった飛鳥京に住み着いた渡来帰化人の一族を東漢氏と言われています。その為、東漢氏の呼び方を「ヤマトのアヤ(シ・ウジ)」と呼ばれています。それに対して、西漢氏と云われた一族が存在していたようです。この西漢氏は古代の河内(現在の大阪府内)一帯に住み着いた東漢氏と同系の渡来帰化人の一族(ある一説には東漢氏とは別で無関係の渡来帰化人の一族とされる説があります)が住み着いた説があります。その為、西漢氏の呼び方を「カワチのアヤ(シ・ウジ)」と呼ばれていたようです。また、古代の河内には土師姓(氏)の一族が存在し、河内の一帯に多くの古墳を築造したり、埴輪等の土器を製造をしていたようです。因みにですが、埴輪について説明を致します。埴輪は野見宿禰が考案し発明をしたことは有名ですが、埴輪以前の時代の古墳には、生きている人間を当時の皇族や貴族階級であった人間と有力豪族の人間の遺体と共に生き埋めにされていた時代であったようです。生き埋めにされた人間の殆どは白丁(ハクチョウ・ハクテイ)や奴婢(ヌヒ)と呼ばれていた律令制度の時代とされていた身分階級のことを指し、白丁と奴婢と言われる身分階級は奴隷的存在の身分階級であったようです。また、奴婢の奴は男性の奴隷を意味し、奴婢の婢は女性の奴隷を意味していたようです。ある説によると野見宿禰は白丁や奴婢の生命を守る為に埴輪を発明し、当時の天皇に直訴する目的として当時の大和朝廷の白丁や奴婢等の管理支配的の官職をしていた當麻蹴速と格闘(相撲)をして勝利した経緯があった説のようです。それにより、野見宿禰が登場する以前の古墳には生き埋めされた多くの人骨が今も尚、埋まっているようです。最後にですが、浅草三社祭の本社宮神輿の渡御等の最中に白丁姿をした臨時の神職関係者が太鼓や賽銭函を担いで行進をしている場面を見掛けます。それに対して、神田神社の神田祭と赤坂の日枝神社の山王祭で、進行祭の巡行の時に黄色の神職姿をした人達が必ず参加されています。その為にも、今後の浅草三社祭の本社宮神輿の渡御等に関しては是非とも考え直して頂きたい所存です。色々と歴史を再確認して行くと改めて理解することが出来ます。追加文として、因みにですが、神田神社の氏子は成田山新勝寺には絶対に参拝をしないそうです。その理由は、成田山新勝寺は平将門を討伐する為に建造された寺院とした説があって、その為に、神田神社は平将門を守護鎮守の氏神として祀られいる理由があるからです。それから、今年の深川の富岡八幡宮の祭礼を見に行き、噂の富岡八幡宮の本社宮神輿?の一之宮と言われている重量が4500kgもあると言われている巨大な神輿を拝見した時、無用の造物と思いたした。本来の神輿は担ぐ為にあって、飾る為でも乗る為でも無いからです。浅草神社や鳥越神社等の本社宮神輿の様に程良い重さと程良い大きさが正真正銘の本社宮神輿らしいでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月27日 (木) 12時56分

小言こうべい様へ。度々のことながら誠に澄みません。前回の書き込みの中に「進行祭の巡行…云々」の記述を掲載してしまいましたが正確には「神幸祭の巡幸…云々」です。祭礼は列記とした神事でしたので改めてお詫びを致します。また、他の箇所にも誤字脱字があることも心よりお詫び致します。本当に澄みません。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年8月27日 (木) 14時41分

今回は祭礼の時に着る『半纏(ハンテン)』と『法被(ハッピ)』の呼び名について説明をしたいと思います。各人によっては、『半纏』と呼ぶ者と『法被』と呼ぶ者とに分かれいます。ところで、『半纏』の文字の他に『袢纏』・『伴纏』・『半天』・『袢天』・『伴天』等と色々な文字が諸説としてある為、今のところ定説としての『ハンテン』の文字は決まってはいないようです。特にですが、一般的として『半纏』の文字が使われいることが多いでしょう。この『半纏』の意味合いとは『半鐘(ハンショウ)』に『纏い(マトイ)持ち』の言葉が由来とされ、特に、江戸の町火消しが『半纏』の文字を愛用していた説があるようです。それから、『半纏』の歴史については、江戸時代初期以降頃からで、当時の町人衆(職人・商人)の仕事着として利用され、丈の長さが膝の上辺り迄ぐらいで、折り襟(=襟に折り返し)が無く、袖口は狭く、袂(タモト=袖袋)が無い為、特に仕事着としての機能性のある簡素化した和装として作られたようです。また、『伴天』の文字の由来については『伴天連(バテレン)』の言葉が語源とされ、この『伴天連』の歴史については安土桃山時代の頃、その当時の日本に来ていた南蛮人と言われいた主にポルトガル人が『切支丹(キリシタン=当時のキリスト教《イエズス派》徒の呼び名)』の宣教師(伝道者)や貿易商人などが着用していたコートを俗に『バテレン』と呼ぶようになり、その『バテレン』を『伴天連』の漢字を当て字にした説があるようです。また、『伴天連』の『伴天』の意味合いは「天と伴に」の言葉が語源となっているでしょう。天とは即ち神を示しています。詰まり、『伴天』の意味合いを別の言い方で直訳しますと「神と伴に」となるでしょう。『半纏』や『伴天』等の各々の文字に語源や意味合いがあることは云う迄もないでしょう。次に、『法被』について説明を致します。『法被』の歴史は鎌倉時代末期頃以降とされ、丈の長さが腰の下辺り迄で『半纏』より短めに出来ていて、折り襟が有り、袖口がやや広く、袂が有るのが『法被』と呼ばれているそうです。特に、当時の下級武士や僧侶の普段着として利用され、羽織の丈を短めにしたのが『法被』と呼ばれている説のようです。詰まり、『半纏・伴天』と『法被』とは全く異なり別物です。その為、本来の祭礼時に着る衣装を『法被』で無く、『半纏』・『伴天』等と呼ぶのが正式で一般的な呼び方とされています。また、通常的な呼び方を申し上げますと、江戸(関東)の方では『半纏』・『伴天』等と呼び、上方(関西)の方では『法被』と呼ばれているようです。それからまた、東京の下町(=江戸時代の頃に町人主体の街を示す)方面である浅草・神田・日本橋・深川等の江戸の名残のある地域に産まれ育った人間の殆どは『半纏』・『伴天』等と呼び、余り『法被』と呼ぶ人間は少ないでしょう。それに対し、山の手(=江戸時代頃に武家主体の街を示す)方面の地域に産まれ育った人間の殆どは『半纏』・『伴天』等と呼ぶのは少なく、主に『法被』と呼ぶことが多いでしょう。しかし、浅草の三社祭や鳥越祭、そして、神田祭に深川祭等の神事祭礼の時に神輿を担ぐ衣装の呼び名のことを決して『法被』の文字を示す『ハッピ』の呼び方では無く、『半纏』・『伴天』等の様々な文字を示す『ハンテン』の呼び方が本来の正式な呼び名になっているようです。それにより、『半纏』・『伴天』等の呼び名である『ハンテン』と『法被』の呼び名である『ハッピ』を一緒(混同)にしている現在では、その相違点の説明を理解して頂くこと自体は無理難題に等しいことは云うまでもありません。しかし、事実は事実として認識をして頂くだけです。その相違を追究すれば必然的に理解することが出来るからです。それが例え「無用無駄な知識」であっても。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年10月 4日 (日) 01時46分

現在では、神輿を担ぐ者を一般的に『担ぎ手』と呼ばれていますが、本来の正式な呼び名は『輿丁(ヨチョウ・ヨテイ)』、若しくは、『輿舁き(コシカキ)』等と呼ばれていたそうです。また、浅草・神田・深川等の都心部の祭礼時に、神輿を担ぐ衣装は『半纏(伴天)』が主流とされ、地域によっては、浅草の鳥越祭や東京都中央区月島にある住吉神社の祭礼は『佃祭』として有名で、特に、本社宮神輿が『八角神輿』と呼ばれているほどに都内でも有名な祭礼です。以前、ドラマの題名を忘れましたが、月島の街を舞台にしていたNHKの朝の連続小説ドラマの番組の中で、最終回?の場面では俳優の西田敏行さんが浴衣着姿で住吉神社の『八角神輿』を担ぎ、最後に、その本社宮神輿の『八角神輿』を船の上に乗せて、『舟渡御(フナトギョ)』の場面がありました。この月島にある住吉神社の『佃祭』と同様に、浅草付近にある鳥越神社の『鳥越祭』の睦会の代表者達は、確か『肩抜き』?と言われている揃いの着物(浴衣着)姿に襷掛けをし、その着物の後の裾を捲り上げた俗に『道中姿』の格好で『千貫神輿』と言われる本社宮神輿を担ぎます。その他には、『締め込み(褌)』だけで神輿担ぐ地域もあるそうです。また、都心部以外の地方では、その地方特有や特長を生かした衣装を着て神輿を担いだり、山車を曳いたりして、祭礼行事を盛大にしているでしょう。ところで、古来からの神事祭礼の行事に神輿を担ぐ者を『輿丁』・『輿舁き』等と呼ばれ、その姿は神社の神主(神職者)等が着ている平安調の装束姿で神輿や鳳輦、または、輦輿などを担いだり、神輿を山車の上に乗せて曳いたりして神事祭礼の行事に奉仕を致します。因みとして、ところで、本来の『白丁(ハクチョウ・ハクテイ)』とは奈良時代以前の身分制度の中で特に官職に付けない奴隷的な存在とされていたようです(以前の書き込みの中にて参照)。それに、『輿丁』の『丁』とは『甲乙丙丁』の『十干』の中の第四位で、特にですが、意味合い的に説明を致しますと『奉仕』・『奉公』等をする者となるようです。因みに、商人(ショウニン・アキンド)の見習い小僧のことを『丁稚(デッチ)』・『奉公人』等と呼び、その総称を『丁稚奉公』と呼ばれていたことにより『輿丁』の意味合いが神事祭礼等の行事に『奉仕』・『奉公』する者であると理解出来るでしょう!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年10月 5日 (月) 06時19分

一昨日の文化の日に浅草で毎年恒例の『東京時代祭』の観光イベントが行われました。ところで、この『東京時代祭』自体は年毎に見物客の人数が減少化の傾向で、このままの状態では数年後には絶対に中止になるでしょうね!!。その理由については、如何にも『東京』の『時代祭』を強調していますが、その殆どは主に『浅草』だけの歴史を題材にしている所為で、『東京』を全体としてのイメージが残念ながら欠落していることが見受けられるからです。また何よりの問題点は、距離的にも大変短く、時間も昼頃に開始して午後3時頃には終了です。その為、『東京時代祭』の参加者は時代物の借り衣装を身に付けて行列を行進するだけの単なる観光行事の催し物に過ぎず、マンネリ化していることは言うまでもありません。しかし、本場で本命の『京都時代祭』と比較するだけの価値は余りにも乏しい様な気が致します。今後に於いては、『東京時代祭』の開催場所を浅草だけに限らず、日本橋から京橋・銀座・新橋辺りまでの中央通りで行うことも必要な感じが致します。また、それ以外の場所があれば『東京時代祭』を是非とも開催して頂くことも必要に想います。それよりも、第一の問題はの『東京時代祭』が単なる『浅草』だけの観光行事をイメージアップするだけで『浅草』以外の地名に対しての知名度を除外視しているような感じがしているでしょう!!。他の地区や地域からは見れば、如何にも売名行為的な見解をされ、その挙げ句には批判的なイメージダウンになっていることでしょう!!。最後にですが、『浅草』と言う地名は飛鳥時代以前から存在している古代の地名で、様々な語源がありますが、一般的には「浅い草が茂る地帯」であったことから『浅草』と名付けられた説や、京都府の中に『深草』があります。その『深草』に対抗する為に「西の深草、東の浅草」と言われていた説があったようです。それから、以前の書き込みの中には、アイヌ語説やチベット語説(因みに、チベット語説では『アチャクチャ』と謂われ意味合いは「聖なる地」と呼ばれています)などがあります。また、その他には『浅草』の『浅』では無く『麻』が古代の頃より関東平野(関東地方全体)一帯に『麻』の葉が生い茂った草っ原が要因となった説もあるようです。『麻』の葉は『注連縄』作りの時には不可欠で、特に神事祭礼の行事には主に『麻』が利用されていた説があるようです。『麻』と関連性のある語源の中に『上総』や『下総』の『総』は素も素も『麻』のことを示し表しているそうです。また、『安房』の地名も本来は『阿波』と深い繋がりがあって、ある説の中には、古代に『阿波』の人々が陸路や海路などで現在の千葉県にある房総半島の『安房』に移住されて来た説も歴史の中に記されているようです。『東京時代祭』そのモノは結構なことですが、『時代祭』以前の古代の歴史を改めて追究する必要もあるでしょう!!。日本の歴史ほど余りにも不思議で未知が多いからです。また、日本人自体の民族や人種も単一化では無く明くまでも複合化であることは言うまでもないからです。本来的には『時代祭』では無く『歴史祭』と改めるべきでしょう!!!!!!。

投稿: 間吊田和志輿為 | 2009年11月 5日 (木) 02時49分

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