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2007年4月21日 (土)

ハヤシライス

毎日新聞(4/19)から
長野県塩尻市にお住まいの44歳のお母さん。3月31日、北海道の大学に合格してわが家にいなくなった息子のことを忍んで、寂しくなった気持ちを書いていらっしゃる。

合格すればこうなる旅立ちを気丈に受け止めて過ごしてきたが、いざ現実になってみるといかにも寂しい母親の心のうちが綴られている。見送りの日の午後、昼食をつくるために台所に立って牛肉とタマネギを炒め始めた途端、急に堪え切れずに、涙が溢れてきた、という。長男はこのハヤシライスが大好物だった・・・と。

次の日の朝も、居ないと解っている部屋を覗いてしまう。休みの日は寝坊ばかりしていたなあと、居なくなった長男を愛(いと)おしむ。いろいろなことが、一斉に頭の中を駆け巡めぐった、と。

山ほどある書きたいことをメモに「健康と火の元だけはには注意」と短く書いて、食料を詰め込んだ初めての荷物を送ろうと思う。と結んでおられる。

《ハヤシライスは私の遠い貧しかった頃の青春を思いださせた。》
時代はほぼ55年ほど遡る。JR(当時は国鉄)の有楽町駅近くに建っている有楽町マリオン(当時そこは「日劇」だった)と向い合せに建つB館が繋がっているが、当時はそこには別棟で「朝日新聞社」があって裏通りからはビル1面に張られたガラスを透して、巨大な輪転機の回転するさまや、新聞紙面の刷り上がる様子がよく見て取れた。

朝日新聞社と日劇の間の狭い通りの日劇側の地階に、ちょうど現在のピカデリー(当時のピカデリーでジュディー・ガーランドの「スター誕生」を観た)の辺りだろうか、道路から直接出入り可能なあまり大きくもない食堂があった。店の名前はとうの昔に失念している。親の反対を押し切って出てきた身は手許不如意だったが、ハヤシライスの文字に釣られてその店に入った。奥行きのない道路に沿った細長い店内は、都会に似合わず見窄らしい私が入っても目立たない、店構えであったように覚えている。

ハヤシライスが日本人の案になるものとはつゆ知らず、その色彩からカレーの何倍も辛いものを想像した舌に、びっくりするほど甘い味覚であったことに驚いた記憶が舌に残っている。後に知ったがハヤシライスは、何でも丸善の早矢仕有的(はやしゆうてき)が考案したとか、しかし異説があり、レストラン「上野精養軒」の林というコックの作った賄い食という説、ハッシュドビーフ・ウイズ・ライスの訛りであるとか、牛肉が受け入れられていなかった時代、食べると罰が当り「早死にする」ということから来た、など幾つかの説があるようだ。今では丸善の屋上のレストランで食することができると聞くが、和・洋の図書フロアにはしばしば行ったが、屋上まで上ったことがない。

《余談になるが、当時はこの朝日新聞社の横に川(数寄屋川はその後埋め立てられ、数寄屋橋は取り払われ、川の上にできたのが現在の西銀座でパートだ)が流れており、印刷インクの廃液が、ちょうど河川汚濁法が施行される直前まで真っ黒い重油のような状態で垂れ流していた。直後、現在の築地の地に引っ越しを終える(1980年11月)やいなや、鳴りを潜めていた朝日新聞は全国の工場廃液の汚濁摘発に精力を注ぎはじめた。》

当時の銀座界隈にはコーヒーがメインの純喫茶や、歌手が生の歌を聞かせるクラブのような店(銀巴里、ACBあしべ、など)が多くあった。銀巴里には丸山臣吾(当時痩身の美少年として噂の高かったシャンソン歌手で、現在改名してふとっちょのおじさんになった三輪明広だ)、沢たまき(故人)、彼女の夫となった山本四郎(彼のシャンソンは絶品であった)らが歌っていた。

天皇陛下と軍歌で育った青年には、映画やシャンソン、ジャズ、クラシックはカルチャーショック以外の何ものでもなかった。特にクラシックの曲は、NHK放送局でもなければレコードの持ち合わせは限られたマニアでない限り、聴けなくて当然だった。当時クラシックを聴かせてくれる名曲喫茶ではリクエスト形式で客に対応してくれていた。食うものを抜いてでも聴きたいライブラリの揃っている店を探し、あちこち聴きに通った。リクエストの順番が来るまでコーヒー1杯で数時間待つことはざらであった。中には髪振り乱し、指揮者然としたジェスチャーで陶酔の境地にいるものも混じっていた。コーヒーの専門店が多く、曲と同じく、好みの味を求めて日毎違うものを注文し、飲み比べること20〜30種を試した。当時の店で今もなお名を冠している喫茶店に「らんぶる」がある。

当時の日本は、世の中上げて外来文化に酔いしれていた。ジャズ喫茶が生まれ、シャンソン喫茶も増えた。銀座では7月14日、本国フランスの革命記念日をパリ祭と名付け、終日浮かれ続けたり、12月24日になると夜の数寄屋橋近辺は歩くのも困難になるほど酔っ払いが犇めき合った。この頃にはまだバレンタインやホワイトデーなど噂にもなっていなかった。

散髪には年に1回行ければよかった。後は自分で鋏で切った。貧しい中から岩波の「世界」や「思想」に目を通していた。敗戦の荒んだ気持ちに、少しずつ将来を見据える目を養い始めた頃の苦い青春時代だった。

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