“ソロモン”地震
毎日新聞(4/3)から
4月2日朝発生した南太平洋のソロモン諸島近海の大地震で、首都ホニアラの警察本部は同日午後、震源に近く、最も被害が大きいとみられる西部ギゾ島周辺にヘリコプターを派遣し、被害の実態調査と救援活動を開始した。警察本部は、同国で少なくとも14人が死亡したとしているが、通信が途絶えている地域もあり、被害はさらに拡大する可能性もあるとみている。チョイスル島など少なくとも二つの島で警察署が津波によって水没したという。ギゾ島の警察によると、50棟以上の家屋が倒壊し、電力も途絶えており、少なくとも数百人が自宅から避難しているとみられている。
《地震のニュースは大変気の毒なことだが、同情するだけの心の余裕はない。“ソロモン”の響きを聞いた途端に忘れかけていた思い出が急遽蘇ってきた。今を去る65年前、当時海軍軍人であった上の従兄弟が海戦で艦とともに海の藻屑となったのだ。1941年12月8日、ハワイの真珠湾攻撃で日本中がその戦果に酔いしれ、提灯行列で万歳を叫んでから半年後、1942年6月5日のミッドウェー海戦で日本の連合艦隊は大打撃を受け、敗戦への道を辿る羽目に陥る。続く1942年8月9日の第1次ソロモン海戦から11月14日の第3次ソロモン海戦に亙る海戦で、日本の海軍力は戦えば負ける海戦を繰り返した。ソロモン群島の一つ、激戦の島ガダルカナルから1943年2月1日撤退する。遂に1943年5月29日アッツ島の玉砕に始まる玉砕戦が始まった。1943年11月25日マキン・タラワから、44年6月19日マリアナ沖海戦に敗れ、44年7月7日サイパン島の玉砕、44年10月24日レイテ沖海戦に敗れ、遂には日本領土に撤退し、45年3月1日硫黄島が陥落する。
政府や軍は、最期の一兵まで戦え、本土決戦に備え、内地に残った女子にまで竹槍を持たせ、1人1殺を叩き込んでいた。日本は狂気の状態になっていたのだ。アメリカを主軸とする連合軍は、45年4月1日沖縄に上陸し、日本軍が住民を巻き込んで戦った沖縄戦は6月23日終結、占領されることになる。広島に原子爆弾が落ちるのはこの後、たった44日後のことになり、決定的な敗北を味わうことになった。
“ソロモン”、今なお私の心には毛髪1本の遺品もない、従兄弟の死が犬死でないことを祈る気持ちでいっぱいだ。戦犯総理の孫、安倍が狂気の憲法改正を仕掛け、日本が再び戦争が可能な国にしようとする魂胆は、先の戦争で国に命を捧げた軍人や戦火に逃げ惑った多くの日本国民の願いなのだろうか。戦後生まれで戦争を知らない、その上歴史から何も学んでいない人間たちが国を操縦することの恐ろしさを昨今ひしひしと感じている。》
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