東京大空襲 提訴問題
1945(昭和20)年3月10日未明、B29爆撃機330機による約10万人の命が失われた東京大空襲(下町、江東地区中心に、約2時間20分間にわたる)の被害者や遺族ら112人(57〜88歳)が、国に一人当り1100万円(総額約12億3200万円)の損害賠償と謝罪を求め9日、東京地裁に提訴した。
この時の被害状況は被災者の総数では112万人、死傷者12万人、住宅23万戸、下町一帯は全滅している。この後半年もしないうちに広島、長崎には原子爆弾が落ちる。敗戦までの日本本土への爆撃は、全国でおよそ400ケ所、罹災者は1500万人といわれ、非戦闘員の死没者数は38万人にのぼるとされている。この度の国への提訴を行った原告は、東京、大阪、北海道など20都道府県に住み、弁護団は全国30都道府県の110人からなる。訴状には、原告全員の被災や戦後の生活実態を1ページずつ盛り込まれているという。原告団の中の年齢57歳という人は、空襲のあった5年後に生まれた人で、空襲とのつながりは詳細を見ないから理解できないが、安倍晋三がいう狭義、広義の使い分けでもあるのだろうか。
訴状によると、旧軍人・軍属やその遺族は国家補償を受けているが、空襲などの民間被災者に補償制度がないことから「法の下の平等に反する」と主張している。この大空襲が、日本軍の中国・重慶爆撃*などの先行行為(原因)の結果として受けた被害である点からも、国に責任があると指摘している。このほか、空襲被害の実態調査や国立の追悼施設建設を求め、首相名での謝罪文を官報に載せることも請求している。
*重慶爆撃 ・・ 日中戦争時、1937(昭和12)年、当時の中国の首都・南京への日本空軍の爆撃の後、1938年の陥落により、蒋介石の率いる中国国民党は、揚子江上流の四川の奥深い地重慶に移転して日本への徹底抗戦を叫んだ。1941年になって日本軍は重慶に対する戦略爆撃を行った。1937年は、スペインの独裁政権フランコ将軍を後押しするヒットラー・ドイツがゲルニカ(ピカソの絵に有名)を爆撃し、日本軍の南京爆撃、重慶爆撃とともに航空機による無差別爆撃のはじまりと云われることになる。
空襲訴訟をめぐっては最高裁が87(昭和62)年、名古屋市の2女性が国家賠償を求めた訴訟で「戦争は非常事態であり、犠牲や損害は国民が等しく受忍しなければならなかった」との判断を示し、原告敗訴が確定している。
敗戦後62年が経過した。現在、今次大戦を反省から侵略、悪、とみる考え方が大半だが、開戦につづく戦捷の大本営発表、マスコミの大々的な勝利の報道には日本国民は欣喜雀躍して喜んだのは事実だ。当時、憲兵や特高の拷問に耐えきれず、転向するものもいたが、拷問にも屈せず、戦争反対を口にし地下活動を続け、獄死するものさえ出したのは共産党員であり、ごく1部の学識者だけであった。しかし、敗戦後、自分は戦争に反対であったと白々しく口にする文化人とよばれる輩が輩出した。それほど日本人は教育勅語や軍人勅諭で洗脳されていたとはいえ、戦争には協力的であった。戦死者を軍神と讃え、その母や妻を軍神の母、妻とよんで敬った。
62年の時の流れはその価値観に劇的な変化を与えた。それが訴訟問題につながろうとは夢思わなかった。
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コメント
プログ拝見。ことごとく同感であります。
丁度1年前、私が全くの初心者としてプログを始めた頃が、この桜咲くかという3月の時期でした。
10日の日「東京大空襲」の悲惨な想い出を一生懸命書き留めました。
この「世相」の記事を拝見して、思わずそのまま送信させていただいてしまいました。失礼をお許しください。
投稿: 小高英二 | 2007年3月19日 (月) 19時10分
いつも貴重なご意見ありがとうございます。
貴ブログの「3:10東京大空襲 悲惨な思い出」読ませていただきました。幼い頃、火の海の中を逃げ惑った体験は、「戦争」というものを、2度とあってはならないものとして記憶された苦い思い出ですね。
それにしても、戦争を知らない世代の安倍が、祖父の遺志を継いだ憲法改正を見据えたこれから先の舵取りが、とても心配です。
投稿: 小言こうべい | 2007年3月20日 (火) 21時49分