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2007年2月15日 (木)

八甲田山 雪崩で遭難

八甲田山と聞いて年輩者の脳裏には1902(明治35)年1月23日、青森の歩兵第5聯隊が雪中行軍の演習中に記録的な寒波の影響で猛吹雪に遭遇し、210名中199名が遭難した事件を即座に思い浮かべる。八甲田山周辺は世界でも有数の豪雪地帯で知られるところだ。

2月14日、午後のテレビで八甲田山へスキーに出かけたスキー客らが午前11時半頃遭難にあったらしい、と報じられた。前日にはテレビなどではしきりに日本海を南下して来る低気圧を報道し、吹雪、強風に対する注意を繰り返し呼び掛けていた。青森地方気象台でも11日、13日、県内全域に雪崩注意報が出され、14日も雪崩直後の11時10分に雪崩注意報が出されている。当日は、出発前の話し合いでガイド隊長の決定に従って旅館を出発したのが午前9時だった。この直後10時20分には多かったスキー客をさばくため運行していたロープウェーを強風のため停止している。遭難したグループは早い時間に頂上の山頂公園駅を降り、すでに滑降に移っていた。

滑降コースは雪中行軍の遭難者の兵(倒れまいとして立ったまま仮死状態で発見された)を彫った銅像に向かって滑る人気の「銅像ルート」で、中級か熟練者たちがスリルを楽しむための山岳スキーのコースになっている。遭難の第1報が入ったのが午前11時20分ごろ。山頂公園駅から約1キロ当たりまで滑降していた。この時付近は天候の変化に見舞われ、吹雪で視界は悪くなっていた。雪崩は突然一行の上方から来たようだ。一行を率いていたガイドの其田忠佳(55)は「斜面に木があったので雪崩はないと判断した。まさか上から来るとは」と振り返っている。

同日はスノーボードツアーも予定されていたが常設コースに変更されていた、という。何でもない状態で変更はないはずだ。変更するだけの要因があったとみなければならない。スキーの判断は適切だったか。ガイド5人が所属する酸ケ湯温泉(青森市荒川)の関係者は「スキーを実施するかどうかはガイドの判断で、スキーの腕前は相当なものだ。朝の時点では少し風が強い程度で厳しい天候だとは思わなかった」と話した。しかし、雪崩は先週末には東側の斜面(今回は北側斜面)で表層雪崩を発生している。地球全体を覆う温暖化の影響なのかどうかは分からないが、豪雪地帯ではあっても14日の午前9時半、平年よりも約8度高い氷点下1・6度を観測しており、この温度はこの日の最高温度でもあった。表層雪崩が発生したとの見方もあるようだが、「雪氷防災研究センター」(新潟県長岡市)の石坂雅昭副センター長は「まだ寒い時期なので、全層雪崩は起きにくい、積雪と外気温の変化により、雪の層が変化して滑りやすくなっていた可能性がある。(中略)表層雪崩の予測は難しい」と話している。

雪崩は24人を巻き込んで2名の命を奪った。全員の年齢は分からないが、現在スノーボードに押されてスキーを楽しむ人の年齢は、年ごとに高齢化しているように見える。亡くなった2人が44歳と39歳。入院中の人たちは俗に言う壮年以上の高齢の方だ。重傷の76、74、50、38、67、46歳。重体の59歳の他、軽傷の44歳、となっていて、皆さんスキーに関してはベテランと呼べる域に入っている人たちだ。

今回の遭難は、逆にベテランであるが故の遭遇か。特にガイド仲間からは「スキーの腕前は相当なものだ」と認められている其田氏の判断が甘かったのではないか。経験からそう思ったのだろうが「斜面に木があたので雪崩はないと判断した」と。また旅館を出発する前のミーティングでは、気象庁や青森地方気象台の発表する気象情報、低気圧の接近を話題にすることはなかったのだろうか。山の天気や自然を見くびったのだろうか。それともガイドや自分達のスキーの技術を過信したのだろうか。当事者ではないから、勝手なことは言えないが、若い頃多少なりとも登山を嗜んだことのある経験から言えば、急変する山の天気、まして低気圧の接近が予測される前だ。引くことの勇気も又、自然と接するためには必要なことなのだが。

私には起るべくして起った遭難のように思えて仕方ない。

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