「喉頭軟化症」の子 普通学級へ
毎日新聞(2/14)夕刊から
喉の病気の一つ「喉頭軟症」という、たんの吸引が必要な東京都東大和市の青木鈴花ちゃん(6)が、4月、市立小学校に入学することが決まった。文部科学省によると、たんの吸引が必要な児童が養護学校ではなく普通学級に入学するケースは珍しいことのようだ。市教委は今後、両親と話し合って受け入れ態勢を決めるが、*たんの吸引は本人にさせる方向で検討しているという。
*現在通っている市内の保育園では、鈴花ちゃん本人がたんの吸引をするのを禁じている。このため、付き添いの看護師一人が、たんの吸引をしている。しかし、自宅では約3年前から自分で吸引しているという。
鈴花ちゃんは、病気のため、空気を気管に通す器具をのどに装着し、1〜3時間ごとにたんを吸収する必要がある。現在通っている保育園でも当初「看護師が付きっきりで看護できない」として入園拒否をしたが、1昨年11月、同市に入園を認めるよう提訴した。昨年1月、東京地裁は同市へ仮入園を認めるよう命令。昨年10月の判決でも「身体的・精神的状態や発達は、障害のない児童と変わりない」とし、看護についても「付きっきりの必要はない」と判断し、正式に入園を認めるよう命じた。同市は判決を受け入れたが、小学校への入学については判断していなかった。
父親の繁宜さん(41)らは「自分でたんの吸引ができ、生活に支障もない。入学を認めて欲しい」と同市教育委員に相談していた。医師や学校長らでつくる就学指導委員会が「就学に問題はない」と判断したことを受け、市教委は1月末に入学を許可した。
鈴花ちゃんと同じような気管切開した児童は、たんの吸引をする看護師や介助スタッフのいなことを理由に、普通学級への入学を認められない場合が多いのだが、医療的ケア全国ネットワーク(東大和市)主宰者の下川和洋さん(41)は「教育、医療的な評価を踏まえた妥当な判断」という。
《楽観視していいものか、「身体的・精神的状態や発達は、障害のない児童と変わりない」というが、明らかに変わりがある。彼女への同情だけで判断して良いものか。1〜3時間おきにたんの吸引をしなければならないというのは明らかに、身体的障害を持っていることなのだ。家庭での吸引の訓練を3年ほど前から始め、入園、入学の準備をし、父親も「自分でたんの吸引ができ、・・・」とし、入学を希望しているが、幼い小学生、何かあった場合、周りが気を遣わなければならないでは、迷惑をかけることになる。周りをナイチンゲール精神に溢れた人間が取り囲んでいれば問題ないのだろうが、普通学級は他人の好意や介護を頼りにして行くところではない。少なくとも、たんの吸引は完全に他人の手を借りなくてもできるようになるまで、普通学級には通わせない方がよい。間違えば、心無い子のからかいや、いじめの対象になりかねない。
掲載されている写真で見る限り、とっても愛くるしい可愛い女の子だが、今までは傍らには必ず看護師や介護の大人が付き添っていたから、いじめなどの心配はなかったのだろうが、一人になった時、いじめやからかいへの対応は大丈夫なのだろうか。それがトラブルになった時、学校の管理怠慢などと攻撃が始まることになるのではないだろうか。親はその覚悟はしているのだろうか。親は望んで普通学級に行かせることの責任を取らねばならないことを覚悟しているのだろうか。それでなくても周りは躾も何もされていない子たちの集団、小学1年生にヒューマニズムを説くことは無理だ。かといって、好意と同情を期待することでもない。》
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コメント
いじめやからかいが起こることは懸念されますね。しかし、周りに気を遣ってもらわなければならないということは、「迷惑」なことなのでしょうか。
手助けを必要とする人に手を貸すことをヒューマニズムの観点から捉えるのではなく、学びの機会と考えることはできないでしょうか。不自由のある人は例外であり、足手まといだけど、気の毒だから手を貸しましょうというのではなく、世の中にはいろんな人がいる、自分が手を貸してもらわなければならないときもあるということを周囲が自然に体得していくためには、障害児も出来る限り普通学級に通うべきではないでしょうか。
迷惑をかけそうな人は集団に入れないということであれば、子ども達はどうやって、手を差し伸べることを学ぶのでしょう。気の毒だから、ではなく、集団の中で自分は何ができるか、何をすべきかを学ぶのが教育だと思います。
投稿: まどか | 2007年2月15日 (木) 20時30分
まどか さま
コメントありがとうございました。URLを明記して下さればもっとありがたいのですが。
お説ごもっとものようですが、あなたのおっしゃる「何をなすべきか」を小学1年生に学べというのは酷です。一生かけても理解できていない大人が周りにはゴロゴロいます。逆に小学生になってからではなおさらです。先生も教えることは不可能でしょう。教えるとすれば同情や憐れみになります。上から見る目線になります。
私の若い頃は、これらのことは家庭教育の躾でした。あなたのおっしゃる世の中にはいろんな人がいることや、人には親切にすることや、女の子には優しくするこや、先生の言うことを聞くことを教えるのは、すべて親たちの当たり前にする子育ての大事な躾でした。小学校に入る前にしておくのが当然のことでしたし、私も自分の子にはそうしました。今でも決して小学校の先生の仕事ではない、と思います。
現在のように親が何も教えていない子の中では、鈴花ちゃんのたんの吸引が始まると教室は授業が中断します。皆の注目の的になります。本当は無視するのが1番なのです。私はそう考えています。差別しないというのは目の見えない人をめくらと言え、足を引きずって歩く人をびっこと言え、耳の聞こえない人をつんぼと言い合えることだと思っています。健常者という語は差別用語です。今度いざり魚をカエル魚と代えたように、神経質に言葉の言い換えだけをするようですが、その考え自体が差別であることを考えないのです。
こうなる5、6年も前、著名な作家がこんな不自由な日本語では作家活動はできない、と筆を擱きましたが、むべなるかな、と思ったものです。
投稿: 小言こうべい | 2007年2月15日 (木) 23時42分
お返事をありがとうございました。私はブログを持っていないものですから、一方的な書き込みで失礼致します。
なるほど、助け合いの精神を集団の中で自然に学んで行けるだけの土台を今の子ども達は持ち合わせていないということですね。親がなすべきことをしていないと仰られることについて、私も子どもがおりますので、小言こうべい様のご意見を反省の気持ちを持っていつも読んでおります。
目の見えない人をめくらとよび、足をひきずる人をびっこと言える社会こそが差別のない社会であるとのご指摘に同感です。言葉狩りをしたところで何もならない。仰る通りです。
小言こうべい様は私の父の世代でいらっしゃるようですが、私の父はすでに他界しており、周囲は同年代がほとんどですので、なかなか別の世代の方のお話を窺う機会に恵まれません。これからも記事を楽しみに読ませて頂きます。
投稿: まどか | 2007年2月16日 (金) 03時59分
不注意のため漢字の誤変換がありました。失礼致しました。
投稿: まどか | 2007年2月16日 (金) 04時01分
折り返してのご挨拶恐縮です。
時には、拙ブログに目を通していただいているとのこと、大変嬉しく思います。
すでにお気づきのことと思いますが、ブラインドタッチでもないのにミスが多かったり、或いは誤変換があるのを何カ所も発見されていることと思います。
それと妙な拘りがあって、どうしてもこの漢字でなければいけない、との思い込みで、当用漢字にない漢字を使用し、ふりがなを添えることもしばしばです。
また、まどかさんと同じように、送信して読み返し、誤字に気がついて慌てて訂正メールを送った経験も重ねました。でも、極力誠意を伝えるための作業だから、と自分自身への励みにはしております。
これからも、お時間に暇がある時で結構です、爺やの繰り言を聞きに寄り道のうえ、ご意見頂戴できれば嬉しく思います。
投稿: 小言こうべい | 2007年2月16日 (金) 14時09分