再生会議「いじめ」緊急提言
毎日新聞(11/30)から
教育再生会議が29日発表した緊急提言は、いじめをした児童・生徒に対し「毅然とした対応」を学校側に求めるものであった。「社会奉仕、別室での教育」も一例として揚げたが、一時は検討された「出席停止」は最終段階で消えたようだ。指導力不足教員だのダメ教員だの言っていたのが、頻発するいじめ、自殺に慌てた様子で、提言内容がいじめ問題の対応に追われたのが実情のようだ。
スタートから29日の提言発表まで非公開のままで終わった。そしてまとまって骨子としたものは、すでに誰もが心配し、折に触れ取り上げて口にして来たもの以上のものではなかった。途中表面に出ていた「出席停止」の考え方に代わり「社会奉仕」が急浮上した。
その間の経過について各委員たちの見解を見てみよう。
♦渡辺美樹(ワタミ社長)
いじめは100パーセント学校の責任だと思っている。いじめた人間を学校に来させないのは学校の責任の放棄。登校させて教育するのが、学校の役割だ、と。
《この人、ほんとうにこの程度にしかいじめが捉えられないのか。こんな原因の追求の仕方も分からない人が、メンバーであったなんてお笑いだ。靴を隠したり、キモイ、クサイなどの悪口や、無視したり、仲間外れにしたり、殴ったり、蹴ったり、果てはズボンやパンツをぬがせたりが皆、学校がさせるのか。この社長さま、きっと学生時代のことで学校に余程恨みを持っているのだろう。》
♦陰山英男(立命館小学校副校長)
出席停止にしても(停止された)子どもたちを誰が面倒を見るのか。教育的な視点を持って指導しなければ、根本的な解決にはならない、と。
《困ったものだ、副校長にもなっていて家庭の躾と学校教育の別も理解できていない。もしもそうなったのなら、子の面倒は親が見なければ誰に任せる? 学校に押し付けるのではなく、仕事を休んででも、子どもは親が面倒を見るのだ。親は入学までに躾けなかった無責任の反省とともに、子どもを叩き直すことをするのだ。仕事を休み、収入が無くなって生活が苦しくなってのたれ死にしようともそれは自分の蒔いた種だ。社会生活とはそれほどに務めなければならない責任を負っているのだから。好き勝手が許されないことは、学校に上げるまでにして済ませておくべきで、その親の責任を果たさなかったツケだ。現在大人に欠けている最も大事なマナーだ。》
♦義家弘介(横浜市教育委員)
(提言に盛られた)「別教室での教育」は出席停止と同じこと。加害者に手を出さないと、被害者を安心させることはできない、と。
《元ヤンキーを売り物の男。勧善懲悪を明確にせよ、ということだろうが、それ以外に何もない。》
♦池田守男(資生堂相談役)
出席停止が盛り込まれなかったのは、教育には愛情が必要で、あまり白黒つけるのはいかがなものかと私なりに理解している、と。
《それなら何をどうしようとの考えは?メンバーに選ばれたのは意見を述べるためだろう。》
伊吹文明(文科相)は、「いじめ即出席停止という受け止め方をされて、現場で運用されることにはやや慎重でありたい」と述べている。
結論としては、それぞれの委員の頭の中は、手に余る問題を任されてどうしていいのか、わいわいがやがやして過ごしただけの集まりで終わったようだ。会議の流れとしては出席停止は「管理強化は逆効果」との批判が強くて結果的には後退した。代わって出たのが29日になって全体会合で最終案として唐突に社会奉仕が浮上した模様だ。運営委員の一人は社の取材に「社会奉仕は議論したこともない」と不満を洩らした。
ただ、古くは「社会奉仕の心の涵養」を謳った86年の中曽根や、森内閣の「奉仕活動を全員が行う」検討をしたことがあるが、何でも拡大解釈の好きな政府が、「憲法が禁じる苦役につながる」との批判で立ち消えになっているが、安倍晋三の頭の中には「大学入学の条件にボランティア活動を義務付ける」との考えがあるようだ。
この考え案外面白いかも知れない。大学と言わず、小・中・高校からやればいい。
実際にアルピニストの野口健が、若くして登ったヒマラヤで日本人のマナーの悪さを指摘された体験から、彼なりの反骨で清掃登山を思い立った話もある。「日本人はヒマラヤを富士山にするつもりか」と罵られた逸話は有名だ。事実最初のヒマラヤの清掃登山では、日本隊、韓国、中国隊を筆頭に、世界各国の登山隊が山に捨て去ったゴミ総量15トンを回収している。当時の富士山の汚さは世界のアルピニストの話題の種であったらしい。ために、世界遺産の話は瞬時で消えた。
野口健がボランティアを始める切っ掛けは、少年時代の海外生活で学んだ素地が存在していた。外交官を父に持つ彼は、幼年期のアメリカとイギリスでの中・高校生活の経験をしている。イギリスでの高校では自らを落ちこぼれと称し、上級生と喧嘩の末一ヶ月の停学処分を受ける。迷っていた彼は上村直己の著書に触発され、登山を志す。以後のことは省略するが、現在「富士山から日本を変える」と環境運動に取り組み、小中学生を中心に「野口健 環境学校」をつくり世界遺産を核にして日本各地で環境運動をおこなっている。
彼が落ちこぼれと自称する当時、一ヶ月の停学中に、強制的なボランティアを科される。いやいや参加したボランティアに、感謝の笑顔で応えてくれる人のいることに気づいた彼は、次第に自分を見つめ直す。その時、上村直己の書物に出会うことになる。(彼の出自の特異性もあるかも知れない。野口の母は四つの国の血を引き継ぎ、父の日本人の血を合わせた彼は5ヶ国の血を受け継いでいる。現在の日本人に強制ボランティアがどこまで通用するかは疑わしいが)
彼は言う、強制的でもいい、その現場に行き、見ること、体験することから得られるものは必ずある、と。社会奉仕の考え、案外捨て去るわけにもいかないか。
そして、今朝(12/1)の新聞、教育再生会議の素案、不適格教師の排除のための「生徒や親が教員評価」。来年1月にまとめる中間報告の素案として公表した。ばかの集まりのバカなまとめ。『stochinaiさんの5号館のつぶやき』の言を借りれば、この会議、教育絶命会議こそ似つかわしい、ということか。
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コメント
拝見。
再生会議から、その委員の、ワタミ、池田,義家、そして伊吹、あげくは中曽根。
それぞれのセリフ。
よくぞまあ捕らえ上げ、5号館の「教育絶命会議」に纏め上げた説得力。野口健から植村。ヒマラヤから富士山。飛躍と比喩。改めて感服させられました。
「共感」切なるその思いは持ちながら、私の頭では展開の速さに追いつけないのを情けなく思っております。
投稿: 小高英二 | 2006年12月 1日 (金) 22時34分