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2006年12月25日 (月)

日本列島が博打に沸いた日

見出しはマスコミを真似てみた。何でも大げさに書いて読者の目を釘付けにしようとする。関心のあるものにはニュースなのだろうが、さしづめ昨日の中山競馬場に集まった12万人にはそりゃ沸いたことだったのだろう。私には箸が転んだほどにも面白くも値打ちもないことだ。

私は馬の走りよりは、若者がつどった全国高校駅伝の抜きつ抜かれつの方が、よほど手に汗握る思いがして釘付けになった。しかし、新聞第一面は馬を大きく取り上げた。それでも、多少は遠慮があるのか、いつものように十八番(おはこ)の「日本列島が・・」「日本中が・・」とは書かなかったが、最強引退(無理矢理に並べた四字熟語だね)、並べて人馬一体「極限の舞」ときた。これだけでは済まずに、27ページには12万人「ありがとう」だって。何故これほど明確な博打について美しく表現することが許されるのかわからない。「天皇賞」などと名付けられた博打の日もある、だからか。

明治の昔、日清戦争、日露戦争で西洋の軍馬に劣ることを懸念した政府は、当時の富国強兵ならぬ富国強馬を目指して日本の馬の改良に取り組んだ。急遽馬政局まで拵えて優秀な馬の育成、官民の馬産事業を興すために、競馬を行って優劣を競わせ、併せて馬券を発行し馬市場への資金流入を図り、馬券発売を前提にした競馬の開催を検討した。違法であった賭博行為も「軍馬育成の国策に適う」として馬券の発売を先行させて競馬の開催を実施することになった。1905(明治38)年のことだ。

元々が博打である上に、競馬運営に不馴れで、一部では営利主義に走ったり、配当金への不審、八百長などの騒動が相次いで発生することになった。競馬場はあっという間にやくざが出入りする柄の悪い場所へとなって行った。1908(明治41)年、馬券販売人を賭博容疑で検挙する。世論は支持し、マスコミは競馬撲滅論を書き立てた。競馬関係者の政府への物言いも通らず、10月5日、突如馬券発行禁止の閣令が出された。

馬券が発行できなければ収入源を失う。軍馬育成に遅れが生じては国策が頓挫する。困った政府は従来あった組織の解体を命じ、補助金を出して1908年11月競馬規定を発令する。1923(大正12)年、陸軍と競馬関係者らが働きかけた(旧)競馬法が成立する。続いて1936(昭和11)年、日本競馬会が創設される。その後の第2次大戦中は戦局の悪化に圧されるように北海道と東北地方で僅かに小規模なものが行われていた。

1945(昭和20)年の敗戦は、軍馬育成の目的をうしなったが、1946年再開された競馬会がGHQによる独禁法指摘を受けて1948年解散する。この年9月から競馬法に基づき、農林省の管理のもとに国営競馬が行われるようになった。しかし、時の総理吉田茂によってその存在が問題視され、国会での議論に掛けられ、特殊法人日本中央競馬会の主催する中央競馬が誕生した。

根が博打の競馬だ、敗戦までは国是に添った旗印で馬を走らせてきたが、今は富国強馬に変わる旗印はない。賭博としての博打が残るだけだ。ヤクザ世界の賭博と何も変わらない。馬だけではない、自転車がある、ボートがある、オートがある。その昔矜持を持った新聞人は競馬の賭博性にこぞって撲滅論を掲げた。競馬の持つその性質には当時と何も変わったものはない、賭博があるだけだ。美辞麗句で誉めたたえる対象ではないはずだ。同類の博打はまだある、宝籤にサッカー籤などは、その最たるものだ。

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