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2006年12月14日 (木)

元禄15年12月14日

《俄(にわか)に哄(どよ)む 鬨(とき)の声 夜深き夢を破りけり 折しも満月 色冴えて・・・》 赤穂浪士の討ち入りの様子を歌った詩である。小学生の頃、声高に歌った記憶がある。文語調の格調たかい詩だ。

今からおよそ300年前、時は江戸時代中期、元禄15(1703)年の師走14日から15日(現在の1月30から31日)の未明にかけて、赤穂の浪人47人が旗本・吉良上野介義央に夜討ちを掛け、その首を討ち取った主君の仇討ち事件のあった日だ。

この年の前年、3月14日、江戸城松の廊下で吉良上野介と旗本梶川与惣兵衛が打ち合わせをしている所へ、突然、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介に対して脇差を抜いて、殿中刃傷沙汰を起こし、吉良の額と背中を斬りつけたが、即座に梶川によって取り押さえられ、刃傷は失敗に終わった。梶川が後に記しているが、浅野は「この間の遺恨おぼえたるか」という叫びで斬りかかったと言われている。

赤穂藩は、石高精々5万3千石、田舎の小外様旗本だ。とはいえ、浅野内匠頭一人の持ち物ではない。多くの家来を抱え、その家族がいる。しかし彼は、現在の甘やかされて育つ子どもと同じだが、何でも言えば叶えてくれる家来にかしずかれ、我が侭放題に成長したと考えて間違いない。耐えて我慢することなど到底できるはずはない。

江戸詰めになり、己の好き勝手が許されない仕組みの中で、鬱積するものが膨らんだのだろう、城中で禁じられていた抜刀をすることになる。彼の行為について吉良上野介の嫌がらせに耐えられなかった結果、との好意的な見方が美化されて、定説のようになったが、そうではなかろう。浅野はこの時より以前にも接待役を担当した経験を持っているのだ。天和3年(1683)にも勅使接待役を務めているのだ。不馴れなわけはない。井の中の蛙 大海を知らず、で赤穂での生活が当然であるとの我侭が、根底にあったはずだ。現在の小・中学生に顕著に見られる「キレ」ただけのことだ。上に立つ者は「ならぬ堪忍(かんにん) するが堪忍」だ。藩主の座を失うだけですむならそれで良いのだろうが、藩が潰れ、家来たちは失業浪人だ。残された家来たちが、己の主人のバカさ加減を思う前に、「吉良憎し!」となるのも頷ける。復讐の徒党を組むものが生まれ、その頭領となったのが大石内蔵助だった。

先に上げた「ならぬ堪忍 するが堪忍」と同じような意味で使われて、子どもの頃よく耳にした言葉があった。「韓信の股くぐり」(かんしんのまたくぐり)という教訓である。
中国・秦末から漢の時代にかけて活躍した武将・韓信の話。まちに多かったごろつきに、差して歩く刀のことで絡まれ、「俺を刺してみろ」と凄まれたが、「罪もない人間を殺すわけにはいかない」と返答した。ごろつきに「憶病者め、それなら俺の股をくぐってみろ」と挑発されたとき、韓信は地に手をついてごろつきの股をくぐり抜けると、そのまま何事なかったように立ち去った。その後は、そう、町の笑い者になった、と言われるが、結果は上のような立派な武将になった人物。浅野内匠頭が、韓信ほどの人物であったなら、藩士300人程度の小藩でも、47人以外の浪人と家族を路頭に迷わせることもなかったろう。「大きな志を持った者は、些細な恥辱を意に介さない」だけの度量を持て、ということだ。

昔の子供達は、両親や祖父母から事に触れ、折に触れて、いろんな知恵を授かって育った。そのような家族を持たない現在の子供達が可哀想だ。

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