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2006年11月23日 (木)

赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」

話題はいささか古くなるが、私は今朝のテレビが初耳になった。スイッチを入れた直後の数秒間だけの聞きかじりになるが、赤ちゃんポストの中で、死亡した赤ちゃんを見つけ、即刻ポストを閉めた、というものだったように聞き取った。耳なれないポストの存在に、何処の国のことかと早速調べてみたが、分からない。

テレビで聞きかじった死亡による閉鎖とは関係ないようだが、日本では今月11月9日に、熊本市島崎の慈恵病院(蓮田晶一院長)が、さまざまな事情で子育てができない親が新生児を匿名で託す「赤ちゃんポスト」の設置を検討していることを発表した記事(毎日新聞)を知った。

その後賛否両論が渦巻いていることも始めて知った。私も常々関係する問題を取り上げて論じて来たので私なりに、設置することには否定の立場で述べてみたい。

そもそもこのシステムは2000年に取り組みが始まったドイツ・ハンブルクで立ち上げられたものらしいが、この国には中世から捨て子を預かるシステムがあったことから、法律的には問題がなく、病院には匿名*で預けることができ、後から刑事訴追されることはない。赤ちゃんを預けるベッド(病院の裏口に赤ちゃんを人目にふれず、ポストを設け、新生児に合わせた大きさのボックス内に敷物が用意され)には、母親宛に、置かれた赤ちゃんが今後どうなるのかについて記載された印刷物が置いてあり、もしも自分の手で育てたくなった場合は8週までの間に連絡すれば、受付番号を確認した上で、赤ちゃんは返すこと、8週間経過しても連絡がない場合は、赤ちゃんは養子縁組に出すこと、などが書かれている。そこに子どもが預けられるということは、母子ともに高いリスクの出産を回避するためであり、そのための匿名措置が取られているようだ。05年現在、78ケ所が存在する。以降増加の傾向にあって、ドイツ以外でも設置する国は増えているのが実情のようだ。

*匿名出産はドイツでは違法とされているが、出生届出官庁との合意を得て、その認可を受けている。匿名出産の目的は、堕胎の件数を減らすこと、整った設備の医療環境下での出産、なぜ匿名にしなければならないのかのその女性の環境を知ること、の三つのことを把握するためだ。

ドイツでも日本の若者と同じように性を遊びのように気楽に楽しみながら、一方では全国的に新生児が捨てられて死んでいく事件が起きており、新生児をいかに助けるかが大きな課題でもあるようだ。しかし、ドイツでも未だに法的な位置付けが曖昧で、設置以後の捨て子の増減のデータもなく、保護者による乳幼児殺害が減ったというデータもないようだ。

一方、慈恵病院は1898(明治31)年カトリックの神父とフランシスコ修道女によって開設された慈善診療所が前身の病院で、蓮田院長も9日午後の会見でも「(当院は)カトリック精神に基づき中絶手術も実施しておらず、世の中に折角生まれてきた命を幸せに育みたいと考えた」と設置の主旨を説明している。

日本の多くの産・病院が、金儲けの為の人工妊娠中絶を申告なしに行い、1949実施年以降の中絶数を、表向きの政府の発表では年間およそ30万件(05年度始めて30万件を下回ったと喜んでいるようだが)として来ているが、実際は100万件(累計では1億件)を超えると見られているのが実態だ。慈恵病院だけの範囲でとらえれば、戒律を守り、望まれない状況下に生まれて来た子に、救いの手を差し伸べることを兎や角いうことはないだろう。

現在同病院で考えているシステムは、ドイツに準じたものとなるようだが、乱れたとはいうものの、キリスト教の洗礼を受けたドイツ人と、無宗教の現代日本人とでは同列には語れない。受胎の瞬間から人間(命)とするカトリックと、妊娠155日以降が人間(命)とする決定的な差が存在するのだ。それ故に人工妊娠中絶を認めない国のドイツ人と、何等戒律を持たない日本人の妊娠とは、桁違いに数に差が生まれ、日本では、放置された医療機関による人工妊娠中絶が花盛りになっているのだ。心に罪の意識を持ちながら侵す禁と、放任の結果とにはおぞましい程の違いが出る。ドイツでのポストに預けられる赤ちゃんは、救済となるのだろうが、日本の赤ちゃんは、ただ捨てられることになるだけだろう。ただでさえ乱れ切った性モラルを助長することになるだけだ。

病院が預かった後、養子縁組が必ず成立するとは限らない。また、出自の知れない子どもが親を求めるような状況も起こりうる。預かる側の善意も、最初から要らない子として捨てる親の場合、生まれた子どもの心のケアについても配慮しておく必要もあるだろう。日本の法律にてらしては、子どもをポストに入れた親は、間違いなく保護責任遺棄に問われることになるし、制度として認めることになれば、社会全体に捨て子を容認する、もっと言えば奨励することにもなりかねない危険を孕んでいる。

参照 赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」 -2- 07/02/24

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コメント

 このシステムを否定するという考えの理由などを読ませていただきました。
 理路整然と書かれており、はじめて聞くドイツの宗教観や中絶禁止などのことを知り、とても考えさせられました。

 私は賛成する方の立場なのです。
増減などのデータがない、将来自分の出世に事を考える、など、あくまで生きていての前提ではないのですか?
 捨てられて死ねば、自分の出生も何もないですよね。中絶されればやっぱり同じです。生んだからと言ってきっちり育てる人ばかりではない。
 ゆりかごの制度がベストなのではなく、せめてこれがあれば、とかこのほうがまし、というのでやはりあったほうがいいんだと思うのです。

 安全に捨てられる制度があるからと言って捨てる人は、捨てないなら捨てないでちゃんと育てるというわけではないのですよね。
 ニュースにならないだけで、新生児というのは小さいので見つからずに生んで捨てられて見つかってない子が少なからずいるのではないかと思っています。
 それならばやはり生きていてほしいと思うのです。

 ただ捨てられるだけになる、とありますが、中絶されす、生んだ後殺してしまう、いやいや虐待しながら育ててその後死なす、虐待を続けて生きている年数分虐待されていき続ける、それらがいいとも思えません。

投稿: たまみ | 2007年5月18日 (金) 23時05分

私は、反対する側の意見なのですが、
生きていて欲しいというのは一緒です。
しかし、その考え方を実行に移す際には
きちんと色々な問題点を解消・周りのシステムの確立・運営していくための力の維持が必要だと思います。
が、今現在この病院が行っていることは、ただただ急ぎすぎのシステムであると思われます。
本来匿名であったはずの親についても、話し合ったはずの熊本県側の知事が出来る限りの親の捜索を宣言したり、想定していた幼児でなく3歳児の子供が入れられていたり、またこの病院は基金を集めていますが、その基金と公費の使い方の明確な提示もしていない。
助けるのはいいことだと思いますが、それ以外の部分がおろそかで進めてよいとは思いません。
今回の設置は、何も考えずに行ったようにしか見えません、というのが私の意見です。

投稿: ryuki | 2007年6月 9日 (土) 16時04分

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