そんなこと 出来るの?
毎日新聞(11/27)から
政府の教育再生会議(野依良治座長)が来年1月にまとめる中間報告の原案が27日、明らかになった。教員の指導力を適切に把握するため、保護者も評価に加わり、指導力不足の教員の研修や配置換えを徹底すること柱になっているようだ。それに教育委員会の見直しに、外部評価の検討も盛り込まれることになるようだ。29日に開く再生会議の第3回全体会合に提示される。
教員評価に関し、政府の規制改革・民間解放推進会議は昨年12月の答申で「児童・生徒・保護者による教員評価」の導入を提唱。学校運営協議会制度でも教員の任用に保護者の意見を反映させる制度が実施されている。再生会議はこうした枠組みを念頭に、指導力を多角的に把握しつつ、保護者の学校運営への参画を促していく。さらに、来年度導入される教員免許更新制度の厳格な運用を求めて行くとしている。
「無責任体質」などの批判がある教育委員会制度を巡っては、自治体の首長の下に監査組織を設けるなど、学校現場の問題への対応力を外部から評価する制度の導入を提言する。来年4月に全国的な学力テストが実施されるのを受け、学力の低い学校への支援も盛り込む考えだ。
また、11月27日付、読売新聞でも
上の提案の概要は、教育再生会議の野依座長や池田守男座長代理、義家弘介担当室長らが21日に開いた運営委員会でまとめ、文部科学省側にも伝えている。伊吹文部科学相は26日のNHK番組で「教師を信頼し、任せる代わりに教師の資質がしっかりしている裏付けが必要だ」と強調した。
同会議は教員の質向上に向け、「ダメ教員の追放と優秀な教員の処遇改善」が不可欠だとしている。素案では、教員の質を精査し、能力に応じた処遇を求める方針を明記する。具体的には、保護者や生徒による教員評価の仕組みを設けるほか、不適格な教員の排除を視野に、教員免許更新制の実効性ある運用を求める。指導力不足教員の研修が成果を上げているかどうか検証する案も出ているという。
教育委員会の見直し策としては、自治体による教育委員会を監査する機関の設置、小規模教委の統合や、広域化する考えなども盛り込む方針のようだ。
学力向上策の中核となるのは「ゆとり教育」からの脱却とし、来年の学力テストの結果を踏まえ、学力水準が著しく低い学校への早急な対策を打出していく。
2紙とも大上段に構え、“指導力不足教員”だの“ダメ教員”だの好き勝手な言葉で表現しているが、記事を書いた彼らは実際にその教員の教育現場を視察したことがあるのだろうか。それともダメとダメでない基準をどう明確に捉えて判断しているのだろうか。少なくとも現在、教員のダメ、ダメでない基準は、表に出て来ている限り、いじめがある、或いは頻発する学級かそうでないか、ぐらいの基準だろう。(この際変態教師は問題外だ)考えられるのは、子どもに受けがいいか、悪いかだけの問題に集約される範囲だろう。それ以外はすべて親のエゴであり子のエゴだ。
親が叱れないから代わりに教師が叱る。親神様が即座に駆け込み、電話が鳴り、教師が吊るし上げにあう。無理無体であっても校長ともども平謝りでこうべを垂れる。こんな親に評価されることになる教師という職業、なんと哀れなことか。碌な躾けもしていないから、学ぶための教室をぶらぶらと歩き回る、おしゃべりはやめない、騒ぎ回る、勝手に教室を出入りする、上げれば限りなくありそうだ。これみな親の育児責任の放棄から来ている。先生の責任など0%だ。大声で怒鳴りつける、コツンとやる他に手段はない筈だ。(昔なら即座にビンタが飛んでくる、廊下に立たされる、度重なるとバケツに水を張ったやつをぶら下げることになる。いまやっても決して悪いとは思わないのにしない)早速ダメ教師のレッテルが貼られる。
ダメ教師も指導力不足教師もメディアによる差別であり、いじめでしかない。第一、教育再生会議の面々は、こんな親に公平な教員評価ができると考えているのだろうか。親の無理無体は、枚挙に暇(いとま)がない程の情報が揃っている。従来とかく親の側から口にしていた教師の子どもへの依怙贔屓は、今度は教師への好意や反感が伴った親の評価となって表れる。どう考えてもまっとうな評価は難しい。それに言葉は悪いが、報道で知る限りにおいて害こそあれ、クソの役にも立っていない教育委員会などない方がいい。
ダメ教師のレッテルを貼られて配置換えや研修に出される教師の将来性は全くなくなる。1度網の目から外された人間の戻れる場は極めて少なく狭い。はやりの言葉で言うトラウマとなり、一生を台無しにすることだって起こりうるだろう。私は親がまともな保護者になれるまでは(恐らく見通しは100年も200年も先かも知れない)教師の評価などさせない方が良い、と考える。なぜなら、今そのようなことを親にさせれば、学校は、教育界は、もっと荒んだものになることがはっきりしているからだ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
毎日、楽しみに拝見させていただいています。
「ダメ教師」と呼ばれる教師はいるのでしょうか?
親が見ても、子どもが見てもダメと映った先生も、ただ1人の子が良いと思っているかもしれない。
何も教えてくれない先生だったとしても、反面教師という言葉もある。様々な先生がいるから、良い先生が出てくるのだと思います。
ダメ先生とレッテルを貼られた先生が1人いるおかげで、他の先生がダメに見えないのかも。その先生がいなくなると、また他の先生がダメ先生になると思います。教壇に立ち、教えてくださる方は、どのような方でもやはり先生・教師です。人が人を教える・・・やはり先生は聖職者であると思います。もし必要なら、先生が単なる公務員ではなく、聖職者的仕事でもある。という意識改革・教育を先生にすることではないでしょうか?
私は、英語の先生で英語をまったく教えてくれなかった先生が未だに心に残っています。なんらかの真実を感じたのです。
いろいろな先生がいてほしい。学校は世の中の縮小の場とも思えます。世の中には様々な人がいて、成立しているのだし・・・ 主観を長々と申し訳ありません。私は親として教員の評価などしたくありません。
投稿: minmi33 | 2006年11月29日 (水) 00時15分
すごい考えだ たまりません なんでも言われそう うそもとおる
投稿: 里山 | 2008年4月12日 (土) 11時41分