ケイタイは電話機?
私は携帯を持ったことがないので良く見える。携帯に支配されている現代人の滑稽な姿が。老いも若きも、携帯がなければ生活できないのかと思えるほど小さな道具に頼り切った生活を繰り返しているようだ。
以前にも乗り合わせた電車の中の異様な人々の姿を見た日の驚きを書いたことがある。マナーをきちんと守る人たちにとっては又か、としつこい程乗り物の中では電源を切るように案内されながら、そ知らぬ顔で会話を交わす阿呆ども。前屈みに蹲ってじっと片手の中の携帯と睨めっこしている何人もの無気味な男女。
未だに止まない自動車に乗って、自転車に乗って、片手に買い物籠で物色しながら、或いは道を歩きながら、そうかと思うと道ばたに腰を落とし、しゃがみ込みながら、携帯をいじる姿を見ない日はない。会話だけではない、カメラが付属してからは一段と無法者に様変わりした。誰彼となく不作法にも腕を突き出し、無礼なシャッターを切る、名の知れた人間の集まるところには蜜に集まる蟻のごとくカメラの砲列が敷かれる。銀塩写真の時代には決して許していなかった商店やスーパー内での撮影も、店側でも取り締まるのも諦めムードの中、次から次へと写して回る。
人によっては携帯は、電話機というよりもカメラに、音楽をダウンロードし、或いはゲーム器としての使い方になっているようだ。携帯を提供する側は、先を争って不要な機能を次々に加え、他社と優劣を競う。良いわけがない音質で音楽を配信し、挙げ句の果て、アメリカでまっ先に起こった最大手のタワーレコーズの倒産に見るような現実が待っている。しかしダウンロードした音質は決して満足のいくレベルにはない。
カネのなる木の音楽の配信も、iPodに座を譲った感があるが、やはりここでも音質の問題は避けられず、もっと高音質なものを要求する声が出ている。便利性を優先させるとどうしても取り残される分野が生まれる。それも片付かないのに携帯では、又しても新分野に踏み込もうとしている。次なる「カネのなる木」は新型の端末に併せたゲームの配信になるようだ。各社でテレビゲームのヒット作、対戦型のゲームや、中高年に人気のある脳内開発ゲームの携帯版も揃えるとか。
私など、17インチのパソコン画面でさえ見づらくなってきたのに、あの小さい携帯の画面は楽しむどころか苦痛に変わるだろう。それに今でも異様で奇妙なのに、老いも若きもが横並びで携帯片手に蹲り、電車内で固まっている姿は見たくもない。
これらは、24日に始まる携帯電話会社を代えても、同じ電話番号が使える番号継続(ポータビリティ)制度で、顧客を囲い込むためのエサのしようとでも言うのか、あるいはまた、伸び悩む通信料金収入の引き上げでも狙っているのだろう。
携帯電話向けゲームはこれまで、予め端末に組み込まれたパズル型ゲーム「テトリス」など単純なものが主流だったが、端末のICチップの高機能化や通信の高速化で、複雑なプログラムのゲームも短時間で携帯にダウンロードして楽しめるようになった。各社は「今後はゲーム機能への需要が高まり、その充実度合いが市場占有率にも影響するはず」とみて、ソフト会社と連携し、サービス充実を計る考えだ。
携帯電話は本来生まれた本来の機能を大きく逸脱し、最早電話だけでは生き延びられないものになっているようだ。現在付属する諸々の機能が、使う側で望んで付加されたものではなく、メーカーの競争の中であれが出来る、これも出来る、もう一つおまけにこれも付けましょう、で増え続けて来たものだ。本当に求められているものは何だろう。精々考えて、子どもの防犯に役立つのでは?と使い道を当ててみるが、いざ誘拐発生時に、電話をかける余裕があるとも思えず、身体から外して捨ててしまえば、追跡など全く不可能だ。持てば余計な使い道を考える、防犯どころか犯罪の大事な道具になる。売買春の利用には歯止めも掛けられない。
複雑すぎて使い切れない年輩者に向け、余計なものを削ぎ落とした単純な機械も出たが、その浸透率はどうなっているのだろう、それすらも不必要とする私には無用のものだが。そして、多く見受けられた公衆電話がどんどん削減されて行く。今のところ全廃までは行っていないが、是非残しておいて欲しい。
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